2017年9月3日(日)主日礼拝説教

『み言葉を行う人』 井上隆晶牧師

ヤコブ1章21~25節、マタイ7章21~27節

❶【神の顔を尋ね、神の言葉を尋ねること】

「私に向って『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入れるわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(7:21~23)

「主よ、主よ」と言うのですから信者であることが分かります。彼らは主を知り信じています。しかしここで大事なのは知っていることでも、信じていることでもなく神様の御心を行っているかどうかだというのです。なぜなら悪魔も神を知り、信じて慄いているからです。彼らは「主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(7:22)といいました。彼らはキリストの名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行いました。それなのにキリストから「あなたたちのことは全然知らない。」といわれます。ここに大きなズレがあるのが分かります。よく人間関係の間でも相手と話がかみ合わない、「相手は一生懸命やったと思っているのに、もう一方は誰も頼んでいないのに勝手にやって」ということがよくあります。原因は、コミュニケーションができていないということです。

  • 世界的に有名なトランぺッターで勲章も貰った日野皓正さんが、ステージの上で中学生の男子を叩いたという映像が流れました。この男子はドラムが担当なのですが、5人のドラマーとパートを分担しなければいけないのに、自分だけで酔うようにドラムを叩き続け、ステージが台無しになってしまったからです。ここにもずれがあります。

神と人とのずれは致命的です。彼らは結局自分勝手にやったのであって、神様がしなさいということはしなかったということであり、神に尋ねないでやったということなのです。いくら信仰が熱心でも、すごい能力があったとしても、神の思いを理解してやらなければ一切が無駄になるのです。

詩編を読んでいると次のような文章が出て来ます。「御言葉を待ち望みます」(詩編119:147)「神に逆らう者に、救いは遠い。あなたの掟を尋ね求めないからです。」(詩編119:155)「仰せを受けて私は喜びます」(119:162)昔、聖書がまだ一冊の書物になる前、神の言葉が人に臨むことはまれでした。人々は、神に尋ね、神の言葉が下るのを待ちました。そして与えられた時は喜んだのです。現代人にはこの感覚はもうありません。聖書は一冊にまとめられましたが、人は神の言葉として読まなくなりました。この膨大な書物が理解できなくなりました。しかし神は御自分を真剣に求める人には必ず、言葉を与え、姿を現わして下さいます。この書物の中から、神はその人に合う言葉を与え、自分の御心を伝えて下さいます。ですから私たちも「どうすればいいのですか。どちらを選べばいいのですか。教えてください。」と聖書を開き、祈る心を持たなければなりません。祈るのは願い事をいうことではありません。御心を尋ねることです。

 

❷【信仰と行いは一つである】

そこでイエス様は次の譬えを語られました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24~25)この岩とは、キリストであり、キリストの言葉です。神の言葉の上に、人生という家を建て、神の言葉に従って生きた人は、試練が来ても倒れないというのです。「私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26~27)この砂とは、自分の言葉、この世の言葉のことです。自分ほど当てにならないものはありません。それなのに人は自分の判断や言葉に頼ります。だから試練が来たらガタガタと崩れてしまうのです。神の言葉はただ聞いて気分が良くなるためだけにあるのでありません。ヘロデも洗礼者ヨハネの言葉を聞いて喜んでいました。「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(マルコ6:20)しかし聞いても従わなかったので罪に落ちて行きました。神の言葉を聞いた者が救われるのではなく、行う者が救われるのです。神の言葉は実践するためにあります。

聖書は心で信じるだけで良いとはどこにも書いていません。「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ2:22)、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」(ローマ2:13)パウロは信仰によって義とされるといいながら、その同じローマ書の中で神の言葉を実行する者が義とされると言っています。イエス様は「兄は「嫌です」と答えたが、後で考え直して出かけた。…弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21:29~31)といって素直に従うことを命じられました。礼拝に出て神の愛と赦しを聞いて心が軽くなっても、礼拝が終わった後、すぐに兄弟姉妹の悪口をいい、言葉や行動で回りに迷惑をかけても何とも思わないのなら何のためにキリスト信者となったのでしょうか。自分が変わるために神を信じたのです。信じるだけでは駄目です。

  • 渡辺和子シスターがこんなことを書いていました。

私がこのところ自分に言い聞かせているのは「信仰は、持つものではなくて、生きるものだ」という言葉です。「私、クリスチャンになったの」とか、「カトリックはこうで、プロテスタントはこうで」とか、その教義的なものを語ることだけではないと思うのです。「今までお母様の言うことばかり聞いて来たけれど、時には反抗します」と、私は十八歳の時、母の反抗を押し切って洗礼を受けました。洗礼を受けて帰ってきた私に、母は「うちは浄土真宗なのに、この子は!」と、三日間も口を利いてくれないほど腹を立てていました。それからしばらくして、ある日、母が私に「それでもあなたはクリスチャン?」と言ったのです。つまり、「洗礼を受ける前の和子と、親の反対を押し切って洗礼を受けて帰ってきた和子、少しは違うかと思ったけれど」という母の気持ちが表われた言葉でした。母の意に逆らって洗礼を受けたのに、すぐにふくれるし、すねるし、口は利かなくなるし、意地悪だし、悪口を言うし、全然変わっていないではないかと言いたかったのでしょう。

「信仰は、持つものではなくて、生きるもの。」クリスチャンに求められている生き方とは何か?それを考えながら生きなければなりません。

 

❸【み言葉を行うためにはどうしたらいいのか】

「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。…しかし…一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブ1:22~25)ここに御言葉を行うためのヒントが書かれています。み言葉を聞くだけで終わる人は礼拝が終わり、会堂を立ち去ると忘れてしまうというのです。しかし御言葉を行う人は、覚えているということです。だから「神の言葉」をいつも頭の中に、心の中に暗記して入れておかなければなりません。

昔TVで「初めてのお使い」というのがありました。お母さんに「~を買って来てね」と頼まれますが、聞いたことを思い出せない子供もいます。そうすると別な物を買ってくるのです。聞いた言葉を忘れてしまうからです。それと同じです。心の中に「神の言葉」があればそれに従うでしょうが、なければ「自分の言葉」に従うのです。私は自分の子どもにいいました。「あなたの行動の基準は何ですか?あなたの物の判断の基準は何ですか。お父さんは聖書です。神様がこういわれたからこうする、神様がこういわれたから~しない。あなたは聖書を読まないでしょ。聖書を読んでほしい。神の思いを知ってほしい。」まず御言葉を信じて覚えることです。

その次には、御言葉を行う力を貰うことです。「主の方に向き直れば覆いは取り去られます。ここでいう主とは霊のことです。…私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16~18)という言葉があります。聖霊の働きというのは、聖書を分からせてくださるということと、イエス様と同じ姿に造り替えてくださることです。太陽の下に出れば、嫌でも日に焼けて黒くなります。それと同じ様に、聖霊の光に照らされていれば、いやでも聖書が分かるようになり、イエス様と同じ姿に変えられるのです。自分の力では変われませんが、聖霊によって変えられるのです。聖霊の光に照らされるためには、神の前に立つことです。つまり集会に出る事、礼拝に出る事、祈祷の生活をすることです。

 

  • 夏休みをもらい六日間程、長野の実家に帰っていましたが、雨ばかりでどこにも行けず、ずっと母や家族の愚痴や話を聞いていました。それも大事な仕事だと思います。皆、不満があるのです。大阪にいる私から見るとずっと環境も良く、収入も多く、幸せなのになんで文句ばっかりなのだろうと思いました。つい母に「信仰を持ったら心が楽になるよ」と言ってしまいました。この世の人とクリスチャンの違いは一体何でしょう。私たちは神と共に生きている、心の中に神の言葉があるということだと思います。辛いこと、愚痴りたいことがあっても、一時はそうしても、やがて神に祈り、委ね、信じてみることができるということです。人と人の間に神を入れて見る、この世の全ての出来事を神の目で見ることだと思うのです。
  • 渡辺和子シスターがこんなことを書いていました。

「心のともしび」というカトリックのラジオ番組が、次のような標語を掲げています。「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」…学校教育とも四十年以上関わってきましたが、以前に比べて学生たちも、幼稚園や小学校の保護者たちも、要求が多くなったり、わずかの‶暗さ、不自由さ″に我慢できず、落ち込んだり、他人を責めたりすることが多くなっているように思います。つまり「暗いと不平を言う」人がふえて、「すすんであかりをつけよう」とする人が減っていて、残念です。

 

天のお父さま

どんなに不幸を吸っても

はく息は感謝でありますように

すべては神様の呼吸なのですから    河野進

 

 

不平や愚痴を吐き出すことで、心のストレスは発散できるのかもしれませんが、周囲の空気は、それだけ汚れるのです。私たちは、自分の不機嫌さで環境を破壊しないように気をつけましょう。…創立者マザー・ジュリーの生涯は、苦難に満ちたものでした。「暗い」と不平を言おうと思えば、いくらでもその種に事欠かない一生でした。でもマザーは、むしろ「立ってあかりをつける人」になることを選ばれたのです。これは勇気の要ることでした。私たちの日常生活の中でも、「他の人が立てばいい。なぜ私がしなければいけないの」と思い、言いたくなる時がいっぱいあります。「損をする勇気」が必要なのですね。他人に振り回されず、私が私らしく生きるためには、期待したほほえみがもらえないとき、不愉快になる代わりに、私の方からほほえみかえましょう。環境の奴隷でなく、主人になるのです。

 

私は最近、クリスチャンとは何なのだろうかと思うようになりました。罪を犯しても平気、何者からも自由、ありのままでいいのよと開き直るだけでいいのかと思います。信仰を持つ人にはなれても、信仰に生きる人にならなければならないと思います。心の中の「神のことば」に従い、勇気を出して、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけよう」と自己をコントロールできる自分でありたいと思います。御言葉に従う厳しさというものを忘れてはならないと思います。