2017年9月24日(日)主日礼拝説教

神の出来事としての信仰』 井上隆晶牧師

エレミヤ30章10~11、17~20節、マタイ20章20~28節

❶【情けない弟子たち】

「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。」(マタイ20:20)から今日の物語は始まります。その時というのは、イエス様がエルサレムに上ると祭司長たちに引き渡され、死刑を宣告され、十字架につけて殺されるという話をした時のことです。ゼベダイの二人の息子というのはヤコブ、ヨハネです。その母親が二人を連れてイエス様にお願いに来たのです。この二人の弟子のあだ名は「雷の子」でした。雷のような説教をしたとか、激しい性格であったとかいわれていますが、母親に連れられて陰に隠れてこそこそとやってきて、自分で言わないで母親に言ってもらっているのをみるとマザコンなのかと思ってしまいます。この家で一番強いのは、母親のようです。イエス様が「何が望みか」と聞くと、彼女は「王座にお着きになるとき、この二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」(マタイ20:21)といいました。「あなたが王様になったらうちの二人の息子を右大臣と左大臣にすると約束してください」という意味です。エルサレムに上れば、十字架について死ぬといわれたすぐ後で、この母親はこんなことをいいました。エルサレムに行けば王になると思っているのです。これを聞いて他の弟子たちは腹を立てました。みんな同じことを思っていたからです。彼らに出し抜かれたと思ったのでしょう。結局、弟子たちは何も聞いていませんでした。イエス様は死を覚悟しているのに、弟子たちは自分の事しか考えていません。この大きなズレはイエス様にとって相当なショックだったでしょう。「あなた方は自分が何を願っているのか分かっていない」(22節)といわれます。私が飲もうとしている杯を飲むことができるかと問うと、彼らは「できます」とどうどうと答えています。大臣になれるのなら何でもしますという意味でしょう。杯とは十字架の事なのですが…。今まで三年間、共に過ごしながら何を聞いて来たのでしょうか。「何を教えてきたのだろう。情けない。」とイエス様は思われなかったのでしょうか。私なら思います。私なら腹を立て「もうお前たちには教えない、お前たちのことは知らない」というでしょう。しかしイエス様は腹を立てません。こんなにズレ、自分のことしか考えず、イエス様を利用しているだけの弟子たちを見捨てません。そしてこの後、弟子たちに「皆の僕になりなさい」(マタイ20:27)と教えられます。人の愚かさ、無知、罪深さを知りながら、キリストは人に仕えて下さいました。そしてあなたもそのようになりなさいと言われます。十字架に近づくにつれて、光と闇がはっきりとしてきます。イエス様の信仰と、弟子たちの不信仰がはっきりしてきます。弟子たちの無知と愚かさがどんどん顕わになってきます。

  • 三浦綾子さんが本の中にこんな文章がありました。「イエス・キリストがかけられた、あの十字架というのは、言ってみれば、人間に対する神の絶望を意味しているとわたしは聞いたことがあります。…イエスの死というのは、人間に対する神の絶望と神の愛が示されているということなのです。

神の絶望とは何でしょう。分かり易くいうなら、「言えば分かると思っていた」ということです。けれど、結局は何をしても分からなかった。もう人間に期待するのはやめよう、諦めたということです。だからこそイエス様はこの杯(十字架)を飲まれたのです。そして十字架の上で言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)この彼らの中に十二弟子が入り、私たちも入るのです。神のことを考えず、自分の事ばかりを考えている私たち、ずれた信仰をしている私たち、何も学ばない私たちが入るのです。

 

❷【私たちのほんとうの姿】

私は最近、クリスチャンとは何か?信仰とは何か?牧師とは何か?何だか分からなくなることがあります。クリスチャンは本当に信仰を持っているのだろうか。教会に来ない、聖書も読まない、祈祷もしない、自分の罪も省みようとしない、罪の告白もしない、これで本当に神を信じているのだろうかと思うことがあります。私たちはすぐに信仰がなくなります。詩編に「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた」(詩編135:4)とあります。自分が神に選ばれた、宝とされたことを本当に感謝しているでしょうか。詩編137:5~6には「もしも、わたしがあなたを忘れるなら、私の右の手はなえるがよい。わたしの舌は上あごにはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを私の最大の喜びとしないなら。」とあります。舌が上あごにはりつくというのは死ぬということです。エルサレムを教会と置き換えてください。教会を最大の喜びとしていなければ死んでもいいといっているのです。どうですか私たちは。神を忘れる時だらけであり、教会を最大の喜びともしていないのではないかと思うのです。もう死んでますよ。

❸【信仰とは神の側の出来事であること】

  • 私はクリスチャンとは何か?信仰とは何か?分からなくなり、9月のカルト相談会の帰りに先輩の牧師にそれを質問したのです。すると、そのカウンセリングをしている牧師は面白い話をしてくれました。どこかの御店に行って飲んでいたら、隣にお坊さんが座って「キリスト教とは何か。酔っているからひとことで言ってくれ。」というのです。そこで彼は「何があっても神様に愛されているということだ」と答えたというのです。そして私に「クリスチャンが信仰があるかどうかは分からない。でもその人は神様にとらえられていると思う。」と言われました。

何か腑に落ちなくて、悶々としながら、朝の礼拝の時にエレミヤ書を読んで「はっ」と気づいたのです。エレミヤ30:3を読むと「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。」とあります。罪を犯してバビロンに移された民のことを神様はまだ「わたしの民」と呼んでいるのです。神を裏切り、約束を守らず、不誠実なのですから、普通なら他の民族に乗り換えた方が早いのです。でも神様は「わたしの民」と呼んでいるのです。この箇所を読んだ時、信仰とは私たちが何か熱心に信じている、熱心に礼拝や集会を守っているという私たちの側のことではなく、この自分中心でどうにもならない民を神が愛している、神が心を留めておられるという神の側のことではないのかと思ったのです。どんなに駄目な者でも「わたしの民だ」と言って下さる方によって支えられているのが私たちなのです。

  • ルターは「信仰とは、自分がこれこそ信仰であると考えている思想ではなくて、私たちの中に起こる神の業である」といいましたが、神のなさった出来事なのです。

その後を読むと、すべて神が主語になっているのです。「わたしが~をする」となっているのです。「わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す」(10節)、「わたしがお前と共にいて救う」(11節)、共にいるためにはバビロンまで、彼らが落ちた所まで降って来なければなりません。共にいて救うというのは上から救うのではないのです。下から救うのです。昔『下からのキリスト教』という本がありました。そういう意味なのです。神の子キリストはこのように人類のもとに下り、罪人と共にいて、つまりあなたと共にいるのです。自分では帰れず、上って来れないからです。

「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前を追い出された者と呼び、相手にされないシオンと言っているが。」(17節)とあります。偶像崇拝は姦淫といわれています。神がおりながら他の神に行くからです。だから浮気をしたイスラエルは家を追い出されたのだ、もう神はお前を相手にはしてくれないと周辺諸国の人は言っているのというのです。しかし神はそんなお前を再び迎え入れ、相手にしてくれるというのです。あなたは神に見捨てられたのではありません。相手にされています。「わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう」とあります。「わたしが」とあります。神が私に触れ、御自ら癒してくださいます。良きサマリア人のたとえを思い出します。

「見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し、その住む所を憐れむ。都は廃墟の丘の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される。…わたしが彼らを増やす、数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。」(18~19節)何ということでしょう。すべて「わたし」です。神が回復し、神が再建するというのです。「わたしが彼らを増やす、数が減ることはない。」とあります。自分の力では信者の数を増やすことが出来ませんが、神が増やすと約束されたのです。だから都島教会も希望が出て来るのです。このエレミヤ書は完全に福音です。旧約聖書は律法だという人の気が知れません。これは福音です。

  • 先日こんな話を聞きました。

九州のある小学校1年生の女の子のお話です。新聞で紹介され広まりました。「ある日、女の子が学校から家にもどると、「今日の宿題は?」と父親に尋ねられました。「今日はね、誰かに抱っこしてもらうこと」と答えた女の子を、父親は「よーし」と言ってすぐに、しっかり抱いてやりました。そしてその後も、母親、祖父、曾祖母、姉たちに次々と抱っこされたのです。翌日、学校から戻った女の子は、六人に抱っこしてもらった自分が一番だったと父親に報告します。「皆、してきたんだね」と言う父親に、「ううん、何人かしてこなかった。先生が、してこなかった人たちは前に出なさいと言って前に出させたんだ。そしたら先生が、一人ひとりを抱っこしてやったんだよ。」

宿題をしてこなかった、またはできなかった子どもたちを親の代わりに抱っこしてくれた先生の姿に、心が温かくなります。先生の思いが伝わります。先生の思いが大切なのです。これは神の愛と同じなのです。

 

  • 2000年6月29日、東京地裁で元オウム真理教信者である林泰勇被告に死刑判決が下されました。その判決文の最後に裁判長は次のように述べました。「麻原および教団とのかかわりを捨てて、被告人を一個の人間として見る限り、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することは出来ない。およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える。」死刑判決文の中に、裁判長がこのような一文を入れることは異例だといわれます。

師を誤ると偉いことになります。あなたはえらい師につかまりましたね。キリストという師に選んでもらいましたね。今日の話をまとめると、あなたが立派なのではなく師が立派だということなのです。師であるイエス様に愛され、捕らえられた人は幸いということです。ダビデは「いかに幸いなことでしょう。背きが赦され、罪を覆っていただいた者は。」(詩編32:1)「いかに幸いなことでしょう。主を神とする民は。」といっています。こういう主なる神がいるということ、こういう神が私たちを捕らえていて下さることを喜びましょう。