2017年9月10日(日)主日礼拝説教

『土の器の中に輝くもの』 井上隆晶牧師

Ⅱコリント4章6~10、16~18節、マタイ福音書17章1~8節

八月に田舎に帰って図書館に行ったら、最近小学校のグランドから壺に入った小判が25枚出て来たというので展示してありました。壺自体は大したもんではないのですが、開けてみたら中に小判が入っていたのでびっくりだったのです。今日は、私たちの体の中に入っている天の宝の話をしましょう。

 

❶【イエス様の変容は私たちの変容のひな形】

イエス様はカイザリヤという所で「自分は神の子メシアである」と伝えられ、神の子の道というのは栄光の道ではなく、苦しみの道であり十字架の道なのだと弟子たちに教えられました。十字架の道というのは「失って行く道」ということです。それを聞いた弟子たちは悲しかったと思います。彼らは与えられるためにイエス様について行ったのであって、失うためについて行ったからではなかったからです。その後、イエス様は三人の弟子を連れて高い山に登り、その姿を変容されて栄光の姿を見せられました。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:2)と書かれています。それは十字架の道、苦しみの道の後に栄光の姿が用意されていることを弟子たちに見せて、彼らに十字架を恥じないで、勇気と信仰を持たせるためでした。ペトロは後に手紙の中でこの体験について書いています。「私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(Ⅱペトロ1:16~18)「私は見たのです」と彼は言っています。彼が復活体験よりもこの体験を書いたという事は、よっぽど心に残る体験だったのでしょう。

さて聖書にあえて「六日の後」(17:1)と書かれているのには意味があります。六日の後は七日目です。六日というのは一週間の労働の日数です。これはこの世(人生)を象徴しています。第七の日は「安息日」であって、人が労働から解かれ神と交わることをもって安息する日です。この第七の日に変容が起こったという事は意味があります。私たちは皆、神の像に造られていますが、まだその似姿にはなっていません。その似姿になるためには第七の日が必要なのだと教父たちはいっています。その似姿は人の似姿となった神の子キリストによって与えられるのです。初代教会の教父たちが異口同音に言う言葉があります。それは「なぜ、神は人になったのか。それは人が神になるためである。」という言葉です。神になるというのはキリストに似た物になるという意味です。ゆえにキリストの変容は、私たちの変容のひな型なのです。彼の肉体はわれわれと全く同じ肉体でした。その肉体が光を放ち、衣まで輝くほどになったのです。イエス様が高い山に登ったのも、高い山は天と地の接点であり、イエス様こそ天と地を結ぶ方であることを教えるためです。この世の人生が終わった時、「第七の日に」私たちはキリストによって、キリストが用意して下さった永遠の命、栄光の体に変容するのです。

 

❷【私の中に神が住んでおられる】

しかし六日の後に貰うだけでなく、既にこの栄光の体は私たちの中に始まっているのです。復活はもう始まっており、来世で完成するのです。「私たちはこのような宝を土の器の中に納めています。」(Ⅱコリント4:7)とあります。「土の器」とは肉体の事です。「宝」とは何でしょう。前を読むと「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」(同4:4)とか「イエス・キリストの…栄光を悟る光を与えて下さいました。」(同4:6)とありますから、神から与えられた信仰、福音という光のことだと分かります。肉体という器の中にこのような宝が入れられているというのです。7節を見ると、「この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために、私たちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず…」とあって、この私たちの中に入っている宝は「並外れて偉大な力」だといいます。並外れているのですから、そんじょそこらにあるようなものではなく、ものすごい力だというのです。その力は私たち人間から出たものではなく、神から出たもの、上から来たものです。その証拠に、私たちがどんどん苦しくなってくるにもかかわらず、行き詰らないというのです。苦しくなるということは、人間の限界に近づくということです。人間の力がどんどん少なくなるということです。それなのに逆に力が内側から湧いてくるというのです。16節を読むと「だから私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」(同4:16)と言い換えられています。周りがどんどん暗くなってゆくのに、内側から光が輝いて私たちを照らしてくれる。肉体がどんどん衰えていくけれども、内側にある人、復活体はどんどん大きく成長して行くというのです。つまり信仰というのは自分がしているのではなくて、自分の内に住んでおられる神がさせてくださっているということになります。皆さんは自分の中に、神がおられる、キリストが住んでおられる、聖霊が住んでおられるということがお分かりでしょうか。

 

  • 私はこの一週間それをものすごく感じました。礼拝堂に立って、いつものように朝の祈祷、晩の祈祷をし「栄光は父と子と聖霊に帰す、今も何時も世々に」と声を出して祈り始めた時、ああ、神様の名前を久し振りに呼んだなあと感じました。夏休みが入って怠けていたということでしょう。確かに家で黙って祈ったり、外で小さい声で祈ったりすることはあっても、声にして、イコンに向かって立ち、きちんと祈るのは久し振りでした。まるで水を得た魚のように生き生きとして来て、鉄と磁石が引き合うように神様の事を感じられて、妙になつかしく、大きなものに包まれている感じがして、目の前におられる神様をリアルに感じ、とてもうれしくなったのです。祈祷文を読むだけで、信仰がもとに戻るのです。これは自分の力ではないと思いました。内なる神がそうさせているのだと思います。ものすごい祈りだなあと改めて感じました。いくら勉強しても信仰は得られません。やはり祈り以外に無理です。祈りは三位一体の神になされ、神が私たちにしてくださったことを思い出されてくれます。だから祈り以外に信仰は出て来ないのです。ああ、このような祈りを知れたことは、私の人生の宝です。
  • 榎本保郎牧師はこういっています。「『私たちはこの宝を土の器の中に持っている。』すばらしい言葉である。私たちは、とかくこの土の器を問題にしやすい。けれども問題は器ではなく、その中身である。よく人に、榎本先生は自分の恥ずかしいことを平気で言えますねといわれる。言われても、それが本当に自分だからしかたがない。土の器は土の器でよいのである。しかし私には一つの誇りがある。それはこんな土の器にも、貴い宝が入れられていることである。その宝を伝えるのが伝道である。…人は器を嘆く。こんな不幸な人生はない、これではいやだと。しかし失望したり、ひがんだりする必要は少しもない。触れれば壊れるような土の器であっても、そこにキリストという宝があるなら、すばらしい人生になるのである。」

 

❸【これに聞け】

やがて弟子たちは山の上で光り輝く雲に覆われます。「密雲と濃霧が主の周りに立ち込め」(詩編97:2)という言葉がありますが、これは神の雲です。その雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」(マタイ17:5)という神様の声がしました。弟子たちが恐れてひれ伏すと、イエス様が近づいてきて彼らに手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言われます。そこで彼らが顔を上げてみると、イエス様の他には誰もいなかったというのです。イエス様だけが、私たちに触れて下さいます。つまり人類の運命を共に担い、この世界を共に歩んでくださる方、私たちを救うことが出来る方なのです。「これに聞け」とあります。イエス様の言葉をしっかりと聞きなさいということです。

 

先週読んだ詩篇、詩篇126:1~2「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。そのときには、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。」バビロンに捕え移されて70年が過ぎた頃、イスラエルの民は捕囚を解かれて故郷のイスラエルに帰ることが出来るという噂を聞きました。それはまるで夢を見ているようだったといいます。自然に口元がゆるみ、嬉しくて笑いが出て来ました。口からは鼻歌が出て来ました。70年前に神様はエレミヤを通して預言していました。「バビロンに70年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(エレミヤ29:11)神様はこの約束を忠実に守って下さったのです。この神の約束を知り、信じていた者はバビロンでも苦しみにも耐えることができたでしょう。

  • これを読んだ時に、三浦綾子さんの小説「海嶺」を思い出しました。今から190年前、尾張の千石船が嵐にあって漂流し、アメリカ最北端のフラッタリー岬に流れ着きました。その時、生き残っていたのは、乗組員は14名の内3名でした。彼らはインディアンの奴隷になりましたが、その噂を聞いたイギリスの商船が彼らを助け出し、マカオに滞在中にギュツラフ宣教師を手伝って、ヨハネ福音書の和訳をしたのです。三浦綾子さんは小説を書く為に、現地のフラッタリー岬の海岸に行きました。帰ろうとした時、砂浜に日本製の「牛乳シャンプーの罐」があったというのです。日本からこの海岸まで潮が流れてきている証拠でした。それを見た時に、彼らも必ずここにたどり着くということが分かっていたらもっと大勢の人が生き残っていたであろう。「私たちもしばしば人生の航海に行き悩むが、行き着く所が天の港だと確信していたら、もっと喜んで、平安に生き得るのではないか」と書いていました。

御言葉は私たちに将来起こる神の約束を伝えています。これをしっかりと覚えておけば、私たちも人生に希望をもって生きることが出来るのです。

 

エレミヤはイスラエルの民に「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことが出来る。」(エレミヤ27:12)といいました。今はしんどいかもしれないが、バビロン王の軛を負えと言ったのです。軛と言う言葉で思い出すのはイエス様が言った言葉です。「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。(マタイ11:29~30)バビロン王の軛は重いかもしれませんが、イエス様の軛は軽く負いやすいのです。軛とは馬などを走らせる時に、ばらばらの方向に走らないように、一本の棒にそれぞれの馬を繋げるのです。その棒の事をいいます。ベン・ハーという映画で戦車競争を見たことがあると思います。四頭立ての戦車(馬車)にも軛がついていました。この四頭のうち、一番足が速く強い馬が外側に置かれ、一番足が遅く弱い馬が内側に置かれます。外側を走る馬が一番大変だからです。私たちはイエス様と言う軛につながれました。この軛のうち、一番外側にイエス様と聖霊様がつきます。そしてその内側に12使徒や教父たちや聖人たちが並びます。そして一番内側の楽な所に私たちが並ぶのです。たぶん、ぶら下がっているようなものです。こうやって私たちはこの世を走り抜けるのです。イエス様が私たちに与えた軛とは教会です。この教会という軛は時にはしんどいなと思うこともありますが、イエス様につながれている限り必ず天国に連れて行ってくれます。だからしっかりとこの軛につながることが大事なのです。

 

  • 仕事上、病院に出入りしている一人の男性がいました。その人は、手のひらに握れるくらいの小さな小石を持っていて、その小石には、ひらがなで『だいじょうぶ』と書かれていました。男の人は病院に行って、自分の病気が治るかどうか悩んでいる人、またこれから手術を受けようとする人に、この小石を握らせてやります。すると患者さんはとても喜んで握りしめ「私の病気は治るのですね」「手術はきっと成功するのですね」と口々に言います。これに対して、その男の人はこう言います。「これは、あなたの願っている通りになる‶だいじょうぶの小石″ではありません。どちらに転んでも大丈夫という小石なのです。

面白い話だと思います。皆さんはいつも神の言葉という「小石」を握らせてもらっているのです。手を開けば、イエス様が「だいじょうぶ」と言って下さいます。皆さんは天国への潮にのり、キリストの軛にぶらさがっているのです。行き着く所は天の港です。だからだいじょうぶなのです。