2017年8月13日(日)主日礼拝説教

『復活の希望』 井上隆晶牧師

一コリント15章35~44、50~55節

八月十五日は「敗戦記念日」です。十三日の今日は御巣鷹山に日航機が墜落して32年目の日です。八月は命と死について考える月だと思います。私たちは今日、永眠者を記憶する礼拝をします。亡くなった人たちはどこに行ったのでしょうか。死んだらもうそれで終わりで、私たちの存在は消滅してしまうのでしょうか。古代の教父たちは「神が創造されたものを人は滅ぼすことは出来ない」といっています。たとえ肉体が朽ちても魂は残り、最後の審判の後、復活して天国と地獄に分けられると教えています。そこで今日は、キリスト教が教える復活の話をしたいと思います。

 

❶【死は種まきであること】

コリント15章は復活について語っている非常に興味深い箇所です。そして今日の箇所は、復活の体に関する疑問について語っている箇所です。当時から復活はないと主張する人はいました。彼らは「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体をもって復活するのか」(15:35)と聞いてきました。これに対してパウロはまず「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」と語ります。彼は「死というのは種蒔きのようなものだ」というのです。イエス様も「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)といって御自分の死を種蒔きに例えています。種を蒔くのは、次の体を得るためです。同じように死は決して終わりではなく、死の向こうにある新しい命を得るためのものに過ぎないというのです。「死ななければ命を得ない」という表現によって、死は命を得るために必要なことだというのです。

更に「あなたが蒔くものは、後で出来る体ではなく、…ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(一コリント15:36~38)と説明します。パウロはここで「先の体」と「後の体」があると言います。植物のことを体と呼んでいるのが面白いと思います。種粒という体(姿)が土の中で死んで、同じ種でありながら別の茎、葉、穂という体(姿)となって現れるのです。蒔かれた物と成長する物は別物ではなく、同じ物です。復活も同じです。イエス様の体も手足とわき腹に釘跡と傷を残されて復活しました。一人のヨナが魚に飲み込まれて、別人が吐き出されたのではなく、同じヨナが吐き出されました。復活というのは同じ体がもっとすばらしいものに変化するのです。それはこの後の42節以降にも書かれています。「死者の復活も同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には卑しいものでも輝かしいものに復活し、蒔かれる時は弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(同42~43)もっとすばらしいものになるために死ぬのだというのです。続けてパウロはこうも言い換えています。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(44)。この「霊の体」というのは幽霊や魂のことではありません。幽霊には身体はありません。これは「霊的な体、神的な体、天に属する体」という意味です。

  • この間、『身体性の神学』という論文を読みました。プラトンのギリシャ哲学は、肉体を悪とし、霊魂だけを善とするので肉体の復活を否定し、霊魂だけが残るといいます。これはグノーシスキリスト教に影響を与えました。一方、ユダヤヘレニズム文化は、人間を肉体と魂の合一体として考えるので、両者とも良いものであり、救いは魂と肉体の両者に及ぶと考えます。だから肉体の復活をいいます。宗教というのはこの二つのどちらかに分かれるというようなことが書かれていました。

仏教は肉体の復活をいいませんからプラトンのギリシャ哲学に属することになります。聖書は、はっきりとこの肉体が救われて完全な体、天に属する神的な体に変化することをいっています。それを復活といいます。だから復活がないというキリスト教徒は、仏教やプラトンと同じということになるのです。

  • 四世紀のクリュソストモスがここの箇所の説教をしていて、それを読みました。とても面白いです。「穀物に別の体を与えるのは自然の法則だという人がいる。それはどのような自然なのか、私に教えてほしい。万事を行っているのは神であって、自然ではない。大地や雨でもない。パウロはここで雨、空気、太陽のことや農夫のことを言わないで『神は御心のままに、それに体を与えになる』といっている。」ああ確かにそうだと思います。

先日、TVで太陽の表面を写している映像をみました。特別なガラスで見ると、メラメラと燃えている太陽の表面が見えるのです。不思議でした。この燃える惑星は一体なぜ燃え続けているのでしょうか。いつまで燃えるのでしょうか。地球上にいるわれら人間は、科学の力で生きていると思っていますが、この太陽がなければすべての生物は死滅するのです。地球上でいくら偉そうなことを言っても、この大きな力によって生かされているということです。太陽系のようなものはいくつもあり、地球と同じような生物が住める惑星もいくつもあるそうです。一体、誰が太陽を運行させ、その距離を保たせているのでしょうか。偶然でしょうか。神がされていると私たちは信じます。

 

❷【死は勝利に飲み込まれた】

「私はあなたがたに神秘を告げます。私たちは皆、眠りにつくのではありません。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると共に、たちまち一瞬のうちにです。」(同15:51~52)とあります。私たちは一瞬にして変わるとあります。パウロはどうしてこんなことが分かったのでしょう。神秘とはミステリオンです。隠されている秘義です。でも蝉も蚕も一晩で変わるのですから、分かりません。何か大きな力が私たちの上に働くのでしょう。楽しみにしていましょう。

  • クリュソストモスはこうも言っています。「死を免れる人も疑いなくいるであろう。しかし、復活の為には単に死を免れるだけでは足りず、その肉体が変化して朽ちない者に変えられることが必要なのである。」

人が復活することは預言で書かれているといいます。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(同15:54~55)これはイザヤ25:8「死を永久に滅ぼして下さる」と、ホセア13:14「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。」からの引用です。「死は勝利にのみ込まれた。」とはどんな意味でしょう。

  • 先日、猛毒のヤマカガシに二回噛まれた少年の記事がニュースに載っていました。蛇を捕まえに行き、手でつかんで袋に入れる時に、二回噛まれたのに平気だっというのです。何という子でしょう。毒が体内に入っても害がなければ、毒はその人の体内で解毒され無力にされたことになります。それと同じ様に、キリストは死に飲み込まれましたが、死に支配されることなく、逆に復活することによって死を飲み込んで消滅させてしまったのです。または死の棘にさされたキリストは、毒蛇に噛まれた者のように、三日間死にましたが、復活しその死の棘の力(毒)を無力にしてしまいました。だからもう何度刺されても平気なのです。死なないのです。

そのキリストとあなたは一体なのです。解毒剤をあなたは貰ったのです。だからあなたはもう死なないのです。パウロはあたかも勝利を祝う者のように勇み、あたかもすでに行われたことのように未来を洞察して喜び、打ち倒された死を足で踏みにじり、倒れ伏している死の上で凱旋の歌をうたい、大声でいいます。「死よ、お前の棘はどこにあるのか。地獄よ、お前の勝利はどこにあるのか」お前の勝利は終わった。お前の力は失われた。なぜならキリストは死をもって死を滅ぼし、無力としたからです。棘が抜かれた死にはもはや人を傷つけることができません。キリストが死んでくれなかったら、死は無力にされなかったでしょう。そこまで人と同じようになり、死と戦われたのです。有り難いことです。

 

❸【ゼロから始まるのがキリスト教】

先日朝の祈りで次の箇所を読みました。「私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。…それで自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(Ⅱコリント1:9)パウロはこのとき初めて神を頼ったというのではないでしょう。今までも何度も神を頼って信仰してきたのですが、自分を頼れなくなって本当の意味で神を頼ることを学んだということでしょう。人間の力がゼロになった時に本当の信仰が始まるのです。このような体験は彼の人生の中で何度も起こったことでしたし、私たちの人生の中でも何度でも起こることなのです。このようにゼロから始まる信仰、これがキリスト教信仰の特徴なのです。例えば、アブラハムは100歳で子供ができました。100歳というのはもう子供を作る可能性がゼロになった年齢です。それでも子どもが生まれたのは、まるで死から命が出て来たようなものです。これは復活の雛型であり、アブラハムの信仰とは「復活信仰」であることが分かります。イエス様は死んで葬られて、三日たってから復活しました。死はもう終わりということです。この世に戻って来れない状態です。すべてが終わり、すべてを失うということです。そこからキリストは復活したのです。ユダヤ人たちを恐れて家の中に閉じこもっていた弟子たちはどうだったのでしょうか。その絶望と不安と恐れでいっぱいの家の中で、教会が始まって行きました。パウロはどうでしょうか。目が見えなくなり、人に手引きしてもらわなければならなくなって、彼はキリストを見ました。そして律法から福音へと変えられて行きました。

  • クリュソストモスはこう言っています。「我らの前途に来世の祝福が用意されてあるからには、自分を義人の列に立てるように務め、死ぬ者のために泣くのではなく、一生を悪の中に終える者のために泣こうではないか。農夫は麦の種が破れるのを見ても泣かず、かえって麦が地中に落ちて依然として固ければ悲しみ、その破れるのを見たら喜ぶであろう。破壊は将来の命の始まりだからである。…埋葬はもっとも善い種蒔きなのである。地上の種蒔きの後には死、労苦、危険、心配事がやってくるが、埋葬という種蒔きの後には正しく生活すれば、栄冠と褒美が与えられるからである。」

だから希望をもってこの世を生きるのです。ゼロから始まる信仰、これがキリスト教信仰の特徴です。私たちが死んだ後、神は必ず何かを用意されています。これだけでは終わるはずがありません。