2017年7月9日(日)主日礼拝説教

『天に富を積みなさい』 井上隆晶牧師

ヤコブ1章2~8節、マタイ福音書6章19~24節

❶【天に富を積みなさい】

「あなたがたは地上に富(宝)を積んではならない。」(マタイ6:19)、「富(宝)は、天に積みなさい。」(マタイ6:20)、「あなたの富(宝)のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)ここでいっているのは、地上に積んだ富は必ず失われるが、天に積んだ富は失われることはないということでしょう。「虫が食う」とか「さび付く」という表現は役に立たないものになってしまうということです。旧約時代に虫がついたマナは臭くて食べられませんでした。保険証書も、証券も会社が倒産したら何の役にも立ちません。「盗人が忍び込んで、盗み出す」というのはずっとあるわけではなく必ず無くなるということでしょう。形ある物というのは流れて行き、いつかは無くなるのです。

イエス様がここで言われた「積む」ということを考えてみましょう。なぜ、私たちは「積む」のでしょう。財産を貯金し、食べ物をストックするのでしょう。それは何かあったときに困るからです。電化製品が壊れた、でもお金がない、そうすると買えません。すると生活が不便になるからです。だから富を地上に積む理由は「富を頼りにしている」ということなのです。しかしイエス様は「富は、天に積みなさい。」といいます。どうやったら富を天に積むことが出来るのでしょう。善い行いをしたら、天国の銀行に利子がつくとでもいうのでしょうか。そうではないと思います。ここでも「神を頼りにしなさい」という意味になのだと思います。だからこそ「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」といわれるのです。あなたが富を頼りとするなら、あなたの心は地上にあります。あなたが神を頼りとするなら、あなたの心は天にあります。地上の富に寄り頼んでも、いざという時には、役に立ちそうで役に立たないよ、でも神様により頼めば、神様はいつでもおられるし、いつでも助けてくださるのです。

  • 「末期の肝不全でホームレスの男性Aさんが救急車で運ばれて来た時、すごい臭いでした。すぐにお風呂に入れられましたが、数日後Aさんは亡くなりました。身寄りもなく、孤独で旅立ったと皆が思いました。ところが亡くなる前、心のケアを受け持つシスターとAさんは次のような会話をしていました。「シスター、天国って本当にあるのかねえ」「私はあるって信じているわ。どうして」「あったらいいなあ。わしもそこに行きたいなあ。わしでも天国に行けるかなあ。」「そうねえ。お祈りしてみたらどう?あなたがキリスト教の病院に運ばれてきたのも縁というものよ。」ちょうどその時、病院の隣の修道院の鐘が鳴りました。「あれは何の音?」「あれは神様にお祈りをする時間を告げる鐘なのよ」するとAさんが「へえ…。お祈りってどうやるんだ。」「そうねえ、あなたも神社やお寺で手を合わせて願い事をしたことがあるでしょう。同じように手を合わせて神様に今の気持ちをそのまま言えばいいのよ」「わしもお祈りしていいのか」「誰でもしていいのよ。私もあなたのためにお祈りするわね」そして翌日、Aさんは瞳を輝かせてシスターにいいました。「わしなあ、あの後、ずっとあんたとこの神様に祈ってたんだよ。」Aさんは一晩中、神様に「天国に行けますように」とお祈りしたそうです。そしてその翌日、Aさんは静かに息を引き取りました。

 

❷【神を見上げる時だけ、神に仕えているのである】

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)ここで「富」と訳されている言葉はアラム語で「マモン」といい、ギリシア語には訳されませんでした。マモンは単なる「お金・富・資産」の意味ではなく、二つの烏(カラス)の頭をもつ悪魔として考えられました。この悪魔は人間に貪欲な心を与えるといわれています。イエス様は「二人の主人に仕えることはできない」と言われます。二人の主人というのは「神と富」という主人のことです。人間はこの神と富という「二人の主人」に仕えようとしているというのです。なぜそんな天秤にかけるようなことをするのかというと、どちらについた方が得かと計算するからであり、どちらにつけば生きていけるかと思うからです。お金(富)が自分を生かし、自分を救い、自分の願いをかなえ、すべてのことを解決してくれると思うなら、お金はすでに神になっています。実際にはお金は、単なる物資ですが、すでに力を持つ神のような存在(偶像)になっているのです。

エレミヤ書を読んでいたら「主よ、あなたに並ぶべきものはありません」(10:6)という言葉が出て来ました。神の横に何かを並べると、それは偶像になります。主の祈りで「あなたの名が聖とされますように」と祈ります。ギリシャ語では「ハギオス」といって「聖とする」となっています。聖というのは「区別する」という意味です。聖日というのは月~土と日曜日を同列に置かないということです。日曜日は平日とは質が違い、神の日なのです。聖書は他の書物と同列に置いてはいけないということです。聖書は、神について人の創造目的について、罪や死について、来世について、この世の目的について書かれているものであって、科学的な書物ではありません。科学的な書物を横に並べて、比べて読んではいけません。聖体、聖血も同じです。パンはパンの味がするというのは、この世の基準です。でもキリストが「これは私の体である」と言われたなら、「そうなのだ」とこの世の考えと区別して考えるのです。それを聖といいます。神を神とする、並べないということは大事なことです。神と富を並べてはいけません。

  • 姜尚中が「悪の力」という本の中で、「資本主義は悪である」ということを書いています。「悪の連鎖を確実に広げているのが、資本主義である。」「資本主義はある意味で、悪との取引によって成り立つシステムだといえます。」「資本主義を繁盛させたのは、贅沢、羨望、虚栄などの人間の最も下劣な性格だ。」マルクスは「共産党宣言」の中で「資本主義とは、自分の呪文で呼び出した地獄の力がもはやコントロール不可能になった魔術師に似ている」といいました。豊かになりたいという人間の欲望が、資本主義を造り出し、それに巻き込まれ、不平等な格差社会を作り、にっちもさっちもいかなくなったというのです。

資本はある意味で、完全な神(偶像)になっています。そしてすべての人間がそれを拝み、その中で生活し、それが当然であるかのように生きています。恐ろしいことです。完全にマヒしています。

  • ある修道士はいいました。「あなたの片方の目を天に向け、もう片方の目を地に向けることができるだろうか。決して出来やしない。」まことにその通りです。私たちは天を仰ぐ時、両目は天を向き、地に向く時、両目は地を向きます。私たちは神とこの世の両方を見ることは出来ないのです。地を見ている時は天は見ていないのです。私たちが教会に帰って来て、聖書を聞き、神を仰ぎ見る時、私たちは天を見ているのです。つまり神を礼拝する時だけ、私たちはこの世から、物質から解放されるのです。

 

❸【あなたの目を神に向けなさい】

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイ6:22)この教会の礼拝堂には窓は後ろにしかありません。この窓がなければ礼拝堂は真っ暗になるでしょう。外の光はこの窓を通してこの建物の中に入ってくるからです。同じように、体にとっての窓は目です。光は目を通して体の中に入ってくるからです。だからこの目が見えなければ、光は体の中に入りませんし、この目が濁っていれば、入って来る光もわずかです。「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:23)と主は言われます。この場合の「光」というのは「キリスト」とのことです。あなたの中のキリストがはっきりと輝いており、またあなたの中のキリストが大きいならば、あなたは希望を持って明るく輝いているでしょう。しかし、あなたの中にいるキリストが小さく、消えそうになれば、あなたはどんどん暗くなるでしょう。ではあなたの中のキリストは何もしなくてもいつも明るく輝いているのでしょうか。そんなことはありません。あなたはキリスト本体ではありません。キリストにつながる時だけ、あなたはキリストの肢体なのです。家のことを考えてみてください。光の本体である太陽は家の中ではなく、家の外にあります。同じように神という光は、あなたの中ではなく、あなたの外にあるのです。だから太陽の光を入れるために家の窓を開けるように、あなた自身の目を神に向け、神の光を自分の中に入れなければなりません。あなたを明るくするのはこの世のものではなく、あなた自身でもなく、キリストなのだということを忘れてはなりません。あなたの目をキリストに向けるのはいつですか。礼拝の時です。神の前に立てば、神からの光はあなたの中に入ります。

「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩編34:6)

だからいつも神の祭壇の前に立ちなさい。聖書の前に座り、照らしてもらいなさい。イコンの前に立ちなさい。立つことが向くことです。そうすれば神からの光があなたを照らし、あなたは明るくなるでしょう。

  • 私の経験では、キリストに祈り、御言葉を聞き、礼拝する以外に、心が明るくなることは決してありません。この世の出来事は明るかった私たちを簡単に暗くします。毎日事件があります。思うようになりません。家族の事、仕事の事で頭が痛くなることが次から次へと起こります。心が暗くなれば鬱になります。私たちが不安になるのは、問題があるからではありません。信じないからです。イエス様は嵐にあう舟の中で眠っておられました。眠るというのは委ねる最高の行為です。イエス様の眠りは、私たちに信仰とは何かを教えているのです。イエス様の眠りは死の象徴です。父なる神を完全に信頼して、安心して水、つまり死に飲み込まれようとしているのです。かならず浮いてくる、復活することを信じていたからです。私たちもキリストに一切を委ねて安心して眠る(死ぬ)ことです。洗礼とはキリストと共に死ぬことです。キリストと一緒だったら、死んでも大丈夫と思うことです。なぜならキリストと一緒なら必ず生きることにもなるからです。今の教会に必要なのはこの復活信仰です。建物も大きくて立派で、信者さんも結構いるのに、不安なのです。これが最大の問題です。キリストがまるで「からし種」になっています。人はいるけど、キリストがいない。キリストが共にいたら、何かすごいことが起こる、何とかなる、楽しみだというキリストを絶対的に信頼することが失われてしまい、みんな人の力を頼っています。キリストさえいたら、ゼロからでも何とかなるのです。神が私たちの舟に乗っておられます。死は私たちを飲み込もうとします。しかし、私たちは安心して暗闇の中、死の中に沈んで行きましょう。安心して死に飲み込まれましょう。イエス様と共に沈めば、必ず浮くからです。キリストに委ねきって、出来ることだけをしていきたいと思います。