2017年7月23日(日)主日礼拝説教

『まだその時ではない?』 井上隆晶牧師

ローマ13章11~14節、マタイ福音書8章28~34節

❶【悪霊に取りつかれた人】

イエス様は舟でガリラヤ湖を渡り、向こう岸のガダラ人の地方に着きました。ガダラ地方とはガリラヤ湖の岸から約10キロ内陸に行ったところにあります。そこに悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出て来てイエス様の所にやってきました。マルコの福音書をみると、そのことがもっと詳しく書かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られていたが、鎖はひきちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」(マルコ5:3~5)

これを読むと典型的な精神疾患の症状のように思えます。大暴れをするのは統合失調症患者の幻聴、幻視によるパニック状態に良く似ています。彼らはものすごい力を出して暴れ、病院のドアを蹴って壊ってしまった人もいました。病院では、拘束衣を着せてベットに縛り付けますが、当時は病院もないので鎖でつないだのでしょう。昼も夜も叫ぶのは幻聴、幻視から逃れるための叫びによるものです。石で自分を打ちたたくのは自傷行為です。ルカの福音書をみると「この男は長い間、衣服を身に着けず」(ルカ8:27)と書かれていますが、以前、精神病棟に行った時、裸で走っていた人がいました。彼らは墓場に住んでいました。社会には住めなかったということです。このような症状だったので、村人が社会から追い出したのかもしれません。

彼らは非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどでした。どうしてそんなに暴れるのでしょう。そこには人に対する怒りと憎しみの感情が現れているように思えてなりません。

  • 姜尚中(かん・さんじゅん)が『悪の力』という書の中にこんなことを書いています。名古屋大学女子大生が77歳の女性を殺害し「人を殺して見たかった」と発言しました。彼女は過去、同級生に硫酸カリウムを飲ませ「毒物を飲ませたらどうなるか観察したかった」といい、実家の近くで放火をし「焼死体を見たかった」といいました。彼女の特徴を姜尚中は「身体性の欠如」が見られると書いています。自分が存在していると感じられていないということです。彼女は殺人を犯した後、その遺体と一晩を過ごしています。彼女は私たちの世界を何一つ信じていない。彼女はこの世界と自己が嫌いなのです。これはナチス・ドイツにも、イスラム国にも見られることです。

人が自分と世界を好きになるためには、他者から受け入れられ、愛されるという経験がなければなりません。他者に愛されたことがない者、愛されたと感じなかった者は、自分とこの世界を恨みます。愛されない怒りは暴力やこの世界の破壊活動(テロ)となって現れるのです。

当時は、精神病の知識などはありませんから、これらの病気の症状を見た村人たちは悪魔や悪霊が取りついたと思いました。では「悪霊つき」ではなく「病気」なのかというと、簡単に割り切れないものがあります。新阿武山クリニックの平野健二先生は、「妄想と盲信は違う」といわれました。妄想が出て来るのは病気ですが、それを信じるのは本人だというのです。精神疾患自体は脳の病気なのですが、そこからくる思い込みに悪霊が働いてその人をあるイメージや言葉や妄想に縛りつけるということがあるのです。

 

❷【まだその時ではない?】

イエス様を見た悪霊に取りつかれている人は「神の子、かまわないでくれ」と叫び出しました。イエス様が悪霊に何かをしたわけではありません。ただイエス様が近づいただけで悪霊は叫び出しました。闇は光が入ってくるとその存在を失ってしまいます。つまり消えてしまいます。この場合の闇とは悪霊のことです。悪霊は、神が来ると自分がそこにいられないことを知っているので抵抗するのです。イエス様と悪霊に取りつかれている人との出会いは、私たちが神の言葉に触れた時にどれほど激しく抵抗するかということを教えています。彼らは二人でしたが、実は一人の人の中にいる二つの自分「変わりたい自分」と「変わりたくない自分」を表しているのかもしれません。二人にしているのはマタイだけなのです。

悪霊がその次に言った言葉に心が止まりました。「かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(マタイ8:28)「その時」というのは「世の終わりの時」のことです。世の終わりにはメシアが来て、悪魔とその手下である悪霊をすべてこの世から追放し、地獄に閉じ込めて滅ぼすといわれています。だから「まだ、世の終わりではないのにどうしてここに来たのか。まだこの人の中にいたいのだから、かまわないでほしい」という叫びなのです。こう言って神から逃げようとします。悪の特徴は、現実を見ようとせず、現実を受け容れようとせず、現実から逃げようとするということです。でも考えてください。いくら現実から逃げても逃げられません。神からも逃げられません。神はあなたの中におられます。あなたがどこに逃げても、何かでごまかしても、忘れようとしても、あなたの中から神の声は叫んでいます。

「まだその時ではない」と悪霊はいいましたが、どうしてその時ではないと言えるのでしょうか。悪霊は時を操作したり、支配したりできません。私はここを読んだ時、「まだその時ではない」のではなくて「もう、その時」なのではないのかと思ったのです。キリストが来たからです。彼が来なければ、まだその時ではないでしょう。しかし、この方は来たのです。キリストが現れる時、それがもう「その時」なのです。太陽が昇れば、目覚める時が来ます。時間が来れば出勤しなければなりません。マルコによる福音書はイエスに出会った者の特徴を「すぐに」という言葉で表しています。「二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:18)、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、…出て行った」(マルコ2:12)、「少女はすぐに起き上がって、歩き出した」(マルコ5:42)。時が来たからです。「そのうち、いつか」と言っていると、昼は過ぎ夜が来ます。神の時に、自分を合わせるのが(従わせるのが)信仰です。自分の時に、神を合わせようとするのは信仰ではありません。パウロは1コリント13:10でこういっています。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。」(同13:12)完全な者とはキリストのことです。この方は私たちを完全にするために再び来られます。完全なものがやってきたのであり、再びくるのです。完全な愛がやってくるのです。それ以外のすべてのものは不完全です。この完全な方の前に立っているのに「まだその時ではない」と言うのでしょうか。私は言いたい。「いや、今がその時です」「今こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」(詩編118:24)「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」(詩編95:7)

「我々を苦しめるのか」と言いますが、主は何もしていません。自分が偽りのイメージを捨てるのが苦しいだけなのです。本当は神を逃れ場とする以外に平安は来ないのです。逃げてはいけないと言っているのではありません。どこに逃げ込むかが大切なのです。神の懐か、自分が作ったイメージの中かです。もちろん神の懐です。

 

❸【あなたはどのような生き方を選びますか】

はるかかなたで豚の群れがエサをあさっていました。ユダヤ人は豚を汚れた動物だとして、食べることも飼うこともしませんが、外国人の土地ですから飼っていたのです。悪霊は「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と頼みます。豚は聖書では汚れた動物の象徴とされていました。悪霊というのは誰かの中に入らないと活動できないようです。悪霊が二人から出て豚に入ると、豚はびっくりしたのでしょう。人間には耐えられても、動物は耐えられません。驚いた豚は、崖から湖になだれこんで、みな死んでしまいました。こうして悪霊も自滅してしまいました。イメージはやがて死ぬということでしょう。

「豚飼いたちは逃げ出し、…人々はイエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」何ということでしょう。誰も病気が治って良かったねと言ってくれません。豚は彼らの財産です。この財産をこの二人のせいで失ったのです。彼らはこの病人たちより、自分の財産が大事だったのです。だからイエス様に「出て行ってもらいたい」といいます。光が闇の中に来たのに、光を追い出してしまうとは。彼らは光よりも闇を好んだのです。次の御言葉を思い出します。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3:19~20)

最後に悪霊から自由になる方法をお話ししましょう。

  • 悪霊に憑かれた人は墓に住んでいました。「墓」はギリシア語で「ムネメイオン」といいます。「記憶・記念」という意味です。記録(メモリー)も同じ語源からきています。教会で生駒に墓地を買いましたが、大阪メモリアルパークといいます。墓は「記念する場、記憶する場、思い出す場」なのです。死はギリシア語で(モルス)といい、運命は(モイラ)といいますが、これも同じ語源です。悪魔は人間を過去の記憶に閉じ込め、縛りつけようとします。変えられない運命にいると思わせ、一切の人間の可能性を否定させようとします。過去の失敗、人から傷つけられたこと、恐怖体験に人を縛りつけ「お前は変われない、無理だ」と嘘をつくのです。しかし生きるとは現在であり、それしかありません。だから虚像や過去の思い出に縛られている人は、今を生きていないことになります。
  • アドラー心理学というのがあります。アドラーはフロイトが提唱した「トラウマ」を否定しました。トラウマが実現するかのように考えれば、直面する問題を避ける言い訳とすることができます。アドラーは言います。「人は都合のよいように世の中を見て、今の自分への不満を何かのせいにしたがっている。仕方がないと思いたいのだ。勇気があり、自信があり、リラックスしている人は、人生のプラスの面からだけでなく、マイナスの面からも益を受けることが出来る。このような人は決して恐れない。困難があることは知っているが、それを克服できることも知っており、準備ができているからである。」「現在の人生を決定づけているのは運命や過去のトラウマではなく、自分の選択であり、自分の意志である。」彼は「因果論」で考えないで「目的論」で考えたのです。人の生き方や個性は、試練を乗り越えようとする時に現れ、アドラーはそれを「ライフスタイル」と呼びました。このアドラーが提唱した心理学は、ユダヤ人の精神科医V・フランクルにも影響を与えました。彼は過酷なアウシュビッツ収容所で過ごす中で「人は悪魔にもなれるが、天使にもなれる」と言っています。「こんな女に誰がした」という歌がありましたが、自分でなるのであって、だれもしないのですね。このアドラー心理学は非常にキリスト教的です。アドラーは言います。「変えられない過去ではなく、これからを変えよう。

 

不幸の原因を置かれた環境や、病気や障害のせいにしてはなりません。悪魔は言います。「お前は変わらない、昔の思い出、恐怖に生涯縛られていろ!」しかし私たちは自分を変えて下さる方イエス・キリストに出会ったのです。ジョン・M・ドレッシャーは『若い牧師、教会リーダーのための14章』でこういっています。「第一に、キリストをかつて存在した歴史上の人物としてではなく、今日もなお生ける存在として紹介したい。イエスは現に生きておられる。第二に、自分はキリストの使者であり、生きた神からのメッセージを伝えたい。キリストの思いと言葉を語りたい。第三に、罪の力から解放して下さる方としてキリストを紹介したい。それはイエスに従う時に、だれもその人生にまつわりつくあらゆる束縛を打ち壊すことが出来ると信じることである。」本当にそのように信じていなかったのではないかと反省します。「完全なものが来た」のです。時が来たのです。過去は変えられませんが、これから変えることが出来るのです。イエス様にはその力があります。それを信じて、期待していきたいと思います。