2017年7月16日(日)主日礼拝説教

『恵みかキリストか?』 井上隆晶牧師

ホセア6章1~6節、マタイ福音書8章1~13節

❶【たとえ罪があっても汚れていても勇気を出しなさい】

「イエスが山を下りられると…」(マタイ8:1)とあります。5章~7章までは群集は山の上で説教を聞きました。8章からは山を下りてこの世での実践編になります。最初に出て来るのが、重い皮膚病の人と、百人隊長です。この二人は私たちに信仰とは何なのかを教えてくれています。

一人の重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近寄り、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(マタイ8:2)といいました。重い皮膚病を患っている人は生きていても、死んだも同然の扱いをされました。今のように薬がなく、伝染病なので、町の中にも会堂にも入ることは出来ず、荒れ野に追放されました。彼が守らなければならない掟はただ一つ。不注意に自分に近づく人がいれば「私は病気にかかって汚れています、近づかないでください」と叫んで、自ら関係を断つことでした。(レビ13:45~46)しかし、ここでこの人は「人に近づいてはならない」という掟を破ってイエス様に近づきました。するとイエス様は彼を受け容れてくれました。私たちが罪人であっても、病んでいてもイエス様に近づけますし、イエス様は受け入れてくださいます。逆に、私たちの罪や弱さや病がイエス様と出会う場となり、イエス様に触れてもらうチャンスとなるのです。病人ほど医者に出会う機会や回数は多いものです。同じように、あなたが(健康なら別ですが、)自分の心に不安や闇をもっていると思うなら、あなたは神と出会う回数は多いはずです。だから気落ちしてはなりません。これを「福音」といいます。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と彼はいいました。「あなたのご意志に病は従うと私は信じます」といったのです。イエス様が手を伸ばしてその人に触れ「よろしい、清くなれ」(マタイ8:3)と言われると、たちまち重い皮膚病は清くなりました。「よろしい、清くなれ」は、ギリシア語原文では「私は望む」です。清くなることが神の望んでおられることなのです。あなたが望むだけでなく、神もあなたに対して熱い思いを抱いているのです。神の望みを自分も望むこと、これが信仰です。よく「私なんかどうなってもいいんだ」とか言う人がいますが、それは間違いです。神はそう思っておられないからです。また「触れる」というのは最も近い距離にいることを現しています。人間が僅かの勇気と信仰的行動を起こすだけで、神の方から罪人に近づいてきて下さり、触れてくださいます。

  • 与えるために、どれだけ”持っているか”が問題なのではなく、私たちがどれだけ空っぽであるかと言うことが大切なのです。空っぽなので、日々、十分にいただくことができるのです。自分自身を見つめることをやめ、何も持っていないこと、何者でもないことを喜びましょう。あなたの無があなたを脅かす時はいつでも、イエス様に、大きなほほえみをささげましょう。」

(マザー・テレサ)

ないからただで貰えるのです。

 

❷【神の言葉の力を知る外国人】

百人隊長がイエス様の所に来て、自分の僕の中風を癒してほしいと懇願します。イエス様が行こうとすると、彼は「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」(マタイ8:8)と言いました。百人隊長は権威の力、言葉の力というものを知っていました。「私も権威の下にある者ですが、…一人に行けと言えば行きますし、他の一人に来いと言えば来ます。…そのとおりにします」(9)とあります。自分より上の権威者に対してどのように振舞い、どのように仕えるかを知っていたからこそ「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」といったのです。しかしユダヤ人はイエス様を便利な僕や友達のように扱いました。神を僕のように扱ったのです。自分を癒し、自分の願いをかなえ、自分に仕えてくれるものとして神を利用し、役に立たなくなったらさっさと捨てました。外国人である彼にはそれがよく見えたのでしょう。だから「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」と言ったのです。自分のような者の言葉(命令)にも力があるのです。ましてキリストの言葉(命令)はどれだけ力があるかを彼は知っていたのです。

  • ルバング島にいた小野田さんは、敗戦になっても、世界の情勢が変わろうとも、新聞を読んでも、父親が来ようとも上官の命令がなければ隠れ家から出てきませんでした。これが言葉の持つ力です。軍隊にいた人は言葉の力というものを知っています。

イエス様は彼の信仰に感心して「はっきり言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。」(マタイ8:10)と喜ばれました。彼は「ただひと言おっしゃってください」と言いました。つつましいけれど、確かな信仰です。多くの事はいりません。たった一つでも神の言葉で人は救われるのです。多く貰っても、多くの言葉を聞いても、信じていなければ一切が無駄です。信仰は量ではなく質です。神の言葉に命をかけることを信仰といいます。

 

❸【恵みを求めるのではなく、キリストを求めなさい】

この二人に共通していることがあります。彼らの「願い方」は他の人たちと違って変わっています。祈りではありません。祈りならば「清くしてください」とか「僕の病を癒してください」となります。しかし重い皮膚病の人は「わたしを清くすることがおできになります」といい、百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」と言いました。できます、癒されます」と断言しているのがすごいと思います。これは完全にキリストに対する信仰告白です。信仰とはキリスト(神)に対するものです。自分がどれだけ強く信じているかという「自分の熱心さ」のことではありません。よく「病気が癒されますように、問題が変わりますように、誰々がこうなりますように」と祈ることがあります。そしてその通りにならなければ、自分の信仰が薄いのだと思ってしまいます。しかし信仰とは自分に対するものではなく、神やキリストに対するものなのですから、信仰が篤いということは「キリストを良く知っている、キリストを確信している」ということであり、信仰が薄いということは「キリストをよく知らない、キリストを信じられない」ということなのです。嵐の中で恐れる弟子たちにイエス様は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」(マタイ8:26)といわれましたがこの場合も「お前たちは本当に私を知らないのだなあ」といわれたのです。

私は最近、「ああしてください、こうしてください、病を癒してください」と一生の間祈り続けて人生が終わってそれだけでいいのだろうかと思うのです。以前、永眠された小林麻央さんのブログに「病の陰に隠れないで、とお医者さんに言われた」いう文章があったことを紹介しました。病気になれば、それと闘う日々になり、いきおい祈りもそのような祈りが中心となるのは仕方がないでしょう。障がいがあれば、それを負う辛さを何とか癒してほしいという祈りになるのは仕方がないでしょう。でもそれならキリスト教徒以外でも誰でもしていることでしょう。そのような祈りだけで寂しいと思いませんか。せっかくキリストを知らされたのに、信仰の種が与えられたのに、それを地に埋めるのですか。結局「恵みを求めている」のであって、「キリストを求めていない」のではないかということです。信仰とは神を求めることであって、神の下さる物を求めることではないはずです。「あなたはどんなお方ですか。あなたを知りたいのです。あなたを見たいのです。」という祈りをしましょう。私の信仰生活の目的は「神を見ること」です。

  • 三人の娘を残してこの世を去ってゆかねばならなかった母親がいました。不治の病を宣告されてその人は、恐れと絶望の中で心を閉ざしていました。若くして夫を病で失ってから娘たちのために必死で仕事と家事をこなしてきたのに、末期と宣言されたのです。その母親に友人の紹介で晴佐久神父は病室を訪れました。「…母親はまさしく絶望していた。一目見て、それがわかるという状況だった。…ぼくは彼女の手を握り、まっすぐに目をみつめいった。「今日、ここに私を遣わしたのは神です。神はあなたを愛しているからです。あなたに福音を伝えるためです。…神の子であるあなたは死にません。永遠の命を生きるのです。…まことの親を全面的に信じて、安心してください。」三十分ほどの話だが、彼女の顔が目の前でみるみるうちに輝き出した。それは劇的としかない変わり方だった。…涙も出ないというこわばりが解けて、初めて彼女の目から涙があふれでた。一週間後、本人のたっての希望で洗礼式を行った。三人の娘に囲まれて母親は確信に満ちた声で宣言した。「私はまことの親である神を信じます。神の愛そのものであるイエス・キリストを信じます。神の親心である聖霊を信じ、永遠の命を信じます。」…洗礼の水をかけられた彼女は、娘たちを見つめながら明るい声で繰り返した。「お母さん、うれしい。本当に、うれしい。!」三週間後、彼女は亡くなった。安らかな最期だった。告別式で長女があいさつした。「母は洗礼で救われました。洗礼式の時、母の顔は本当に輝いていました。母の人生において、あんなに明るい顔を見たことがありません。」この世にうれしいことは数あるけれど、どんなこともやがて消えてゆく。最もうれしいことは、永遠なる者に触れ、永遠なることを信じることではないか。あの輝く顔は、間違いなく永遠の輝きを宿していたと思う。

 

人の生涯はまたたくまに過ぎて行きます。生きることは悲しく、寂しく、はかなく感じることがあります。ある人は若くして死んでゆきます。戦争や事件や災害で命が突然奪い取られることもあります。美しく輝いていたころは短く、あっという間に老いがやってきます。こんな人生に意味があるとしたら、一体何でしょう。人間は何のためにこの世に生まれて来るのでしょうか。それは「神と出会うため、私を愛して下さる神を知るため」なのではないのでしょうか。「私を愛してくれる神と人に出会った」ということでしょう。死ぬ時、神やキリストを知らなければ死を迎えられますか。死の前にはもう病気の癒しなど祈っても仕方がないのです。神を知らなければ、キリストを知らなければ力になりません。

ヘンリ・ナウエンは「神と共にある時間と、ひとりでいる時間を持つように自らを訓練すればするほど、いつでも神が自分と共にいて下さることがますます分かるようになる。」といっています。キリストは今も生きていてここにおられます。生きている神なのですから、必ず見れるはずですし、声を聞けるはずです。会ってみたい。「あなたはどんなお方ですか。あなたを知りたいのです。あなたを見たいのです。」という祈りをしましょう。