2017年10月8日(日)主日礼拝説教

『小さなものを軽んじない主』 井上隆晶牧師

申命記12章4~7節、マタイ福音書18章10~14節、18~20節

❶【子供のように自分を低くするー小さい者ー】

新共同訳聖書になってから、一つの物語毎に表題がつけられました。それは分かり易くていいのですが、もともとの原典にはこのような表題はありません。聖書というのは続けて読まないと分からないこともあるのです。それが今日選んだマタイによる18章だと思います。この18章を貫くテーマは「小さい者」です。「これらの小さな者」という言葉が6節と10節と14節に3回出てきます。更に「二人」という言葉が15節、16節、19節に出て来ますし、「二人または三人」という言葉も16節と19節、20節に出てきますから、続きの話だということが分かります。

まず「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」(マタイ18:3)という言葉が出てきます。子供のようになるということは「自分を低くする」ことだとイエス様は言われました。低くするというのは小さくすることです。しかし私たちは自分を大きくし、他人を見下げる時があります。ところが歳を取ってくると、目はかすみ字は読めなくなります。手や足は弱って、しびれや痛みが走るようになり、いろんなことが出来ず、いろんな所に行けなくなります。こうやってだんだんと小さい者に変えられていくのです。神様がそうやって、目や片手、片足を切り取って下さることが分かります。

 

❷【小さな者を軽んじないこと=キリストを中に見ること】

10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の父の御顔を仰いでいるのである。」この「小さな者」というのは信者さんのことですが、彼らには守護天使がいるというのです。信者を軽んじると、神を軽んじることになるというのです。そしてイエス様は迷い出た羊のたとえを話されました。99匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しにゆく羊飼いの姿は、ユダヤの祭司たちや宗教家や長老たちに相手にされず、見下されていた病人や障がい者、無学な者や、身分の低い人たちをイエス様が軽んじないで探し歩かれた物語なのです。これが続きの物語だと思わなければ、一人一人を捜される神の愛のお話しになるでしょう。しかし続きの話だとなると、イエス様がこのように「小さい信者を軽んじなかったように、あなたがたも小さい信者を軽んじてはいけない」という意味になります。

具体的に「小さな者を軽んじないように気をつける」とはどういうことなのでしょう。それはどんな信者の中にも《キリスト》を見なさいということです。洗礼を受けてキリストに結ばれ、彼と一体になった信者は小さなキリストなのです。牧師である私にとっては、相手の人はキリストが愛しておられる者として見る、キリストだと思って誠実に関わりなさいということでしょう。これは道徳の教えではなく、神秘のお話なのです。道徳ではできません。大切なのはその人の中にキリストを見れるかどうかなのです。だから信仰がなければできません。表面的に見てはいけないのです。表面的に見たらその人の人間性の部分、弱さが見えてしまいます。だから意識しなければ出来ません。その点、聖餐が見るのを助けてくれます。聖餐式で聖体、聖血を飲んだ人は、その人の中にキリストが具体的に入ったのです。だからそのような思いを持てるのです。

 

  • 河野進という牧師がインドのマザー・テレサを訪問し、その仕事をご覧になった後にこう言われました。「マザー・テレサは、行き倒れの一人ひとりを本当にキリストとして介抱していらっしゃる。あれはカトリックだからこそできることですよ。」これについて渡辺和子シスターはこういっています。「氏が言おうとされたことは、カトリックの人々は、ご聖体をキリストとしていただくが、プロテスタントでは、キリストの記念として聖餐式を行う。その違いだというのである。更にいえば、カトリックでは、とうていキリストと思えないものを、キリストと信じる信仰を、ミサの中でも、日常生活の中でも求めているということでもあった。そういえば、確かに当のマザーテレサがある時、こういっておられる。私は毎日、二つの聖体拝領をします。第一の聖体拝領は早朝のミサの中で。第二のそれはその後、街の中で。」

 

さらに小さな者だけでなく、小さい仕事、小さな祈り、小さな教会、小さな集会を軽んじないようにしなさいということでしょう。どんなに集会が少人数でも、誠心誠意行う。どんなに僅かな人しか集まらない礼拝であっても、それに魂を込め、思いを込めて大切に丁寧に守るということでしょう。小さいことにこだわりをもちたいのです。

  • これはマザー・テレサも大切にされていたことです。修道会ではよく炊き出しをします。シスターたちが仕事を終えて戻り「マザー、今日はこんなにたくさんの人にスープをお渡ししました」と言うと、マザーは「ご苦労様でした」とおっしゃった後に必ず、「ほほえみを忘れなかったでしょうね。ボウルを渡す時に、ちょっと手を触れて、ぬくもりを伝えましたか。言葉をかけましたか」と言われます。笑顔で、ちょっと手に触れて「お元気?」「顔色が悪いわ」「明日もいらっしゃいね」、そういう言葉がけをする。マザーは「私たちにとって大切なのは数ではない。群集ではなく、一人ひとりの魂です。」と言われました。小さなことに愛を込めることだというのです。

 

❸【祈りを軽んじないこと】

続く箇所も同じように読むことが出来ます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:18)これとまったく同じ言葉が16章で語られています。それはペトロが信仰告白をした後、イエス様が彼の上に教会を建てると言われ、ペトロに天国の鍵を預けて言われた言葉です。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)ペトロを代表とする教会は、どんな人の罪でも解いて(赦してやり)、天国に入れてあげる鍵をキリストから授かったのです。この鍵は人を閉め出すための鍵ではなく、天国に入れてあげるための鍵です。「あなたがその人の罪を赦してあげれば、天国でもその人の罪は赦されます。しかしあなたが罪を赦さないなら、その人の罪はそのまま残る」ということになります。それなら、私たちの責任は重大ということになり、赦さなければならないと思うでしょう。教会にはその力が授けられたのです。それなのに、あなたは祈ることを軽んじてはいませんかというのです。

  • 朝の礼拝の時に、教会で一人ひとりの名前を上げて祈っていると、祈りがすべての人を支えているという気持ちになるのです。これは不思議です。名前を呼ぶことは相手を支配することですし、神の前で祈ることは、その人を神に委ねることです。多くの人が主の前を通り過ぎてゆきました。そしてなぜか私たちはとどまりました。これは自分の力ではありません。主が信仰を与え、主が私を捕らえているからです。生者も死者もすべての人が神の前を流れ去り、この世を過ぎ去ってゆきました。私たちは天とつながっていますが、そうでない者は流されてゆくのです。しかし、教会は祈りで彼らを天につなぎ止めることができます。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。」(マタイ10:19)と言われたからです。だから私たちはキリストの前から去って行った人たちのために、生命が続く限り、彼らの名前を呼び、主に記憶してもらうのです。「エルサレムよ、あなたの城壁の上に、わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。」(イザヤ62:6)とあるからです。これは私たちキリスト教徒に託された務めです。

 

❹【二人または三人が集まる所にキリストも共におられる】

イエス様は「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)と言われました。よく国や政府に問題を訴えたり、願い事を申し出る時に署名運動をします。何万人集めなければ提出できないといわれます。でもご覧ください。ここでは「二人」でいいのです。二人の者が心を一つにして求めるなら、父なる神様はその願いをきくというのです。何という寛大な方なのでしょうか。

さらに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)といわれました。神学校の時に「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」というのは教会を意味しているのだと教えられました。二人または三人の信者が集まればそこにキリストが共にいてくださるというのです。神が地上を歩かれる時、また神が地上に住まわれるといわれた時、ある場所を定められました。旧約聖書申命記を読むと、「主がその名を置くために選ばれる場所」(12:5)に行って礼拝し、献げ物をしなさいと書かれています。この言葉が実に18回繰り返し出て来ます。「場所の神学」があると聞いたことがあります。神はどこにでもおられ、どこにでも満ちておられますが、特に自分の名をもって呼ばれても良いという場所を制定されたのです。その場所が教会であり、皆さんなのです。だから教会に帰ると神を感じるし、二三人の信者さんが共に集まり、祈るなら神を感じるのです。

  • クリスチャンシンガーソングライターの沢知恵さんのお父さんは牧師で、生まれたばかりの沢さんを瀬戸内海の離島にある大島青松園というハンセン病療養所に連れて行きました。1971年のことです。ハンセン病は治る病気だと分かっていたのですが、当時は赤ちゃんを連れて行くなんて考えられないことであり、子供も入ってはいけないといわれていました。島の人たちはびっくりして桟橋に大勢集まりました。お父さんは「どうぞ抱いて下さい」と差し出しましたが、誰一人抱こうとしませんでした。自分は治っていると分かっていても、子供に触れてはいけないと長年刷り込まれているので怖かったのです。お父さんが亡くなって20数年ぶりに訪れた時、「知恵ちゃん!大きくなったね」と皆泣きながら歓迎してくれました。高齢化で人数も減って来て「寂しい」といわれ、沢さんは自分に何かできることはないかと思って、岡山に引っ越します。丘の上の教会は101年の歴史があるのですが、2年前に閉じました。約200名の方が信仰を得て旅立たれていきました。「本当に良い礼拝だったんですよ。私はそこの礼拝が大好きだったので、行く度に勝手に掃除をしていたんです。建物は使わないと痛みますから。そうしたらね、掃除機をかけていてふっと振り向くと、天国に行ったはずの入所者の方々がいるんです。えっ!と思って、心臓がドキドキして。私こういう話は苦手で、経験したことなかったんですけど。それで、「ああ、私はここで礼拝したいんだ。お掃除じゃあなくて、神様を賛美したい、祈りたい、御言葉を聴きたいんだ。」と分かった瞬間だったんです。そして1年後に礼拝を再開したんです。月に一度ですけど、途切れることなく毎月説教者が与えられています。」

不思議ですよね。彼女には見えたのかもしれませんね。でも、亡くなった人たちは今も生きていますし、地上の信者さんと一体なのですから、本当は礼拝堂にいるのだと思います。聖餐式をするとき、人はキリストによって一つに結ばれ、一つの体となります。天と地の教会を結ぶのが聖餐であり、地上の信者を一つに結ぶのが聖餐なのです。それを聖徒の交わりと言うんです。

キリストは教会を自分の体と呼ばれ、私たち信者を自分の体と呼んで下さいました。それ以外に「キリストの体」と呼ばれるものは、この地上にはないのです。そこがどんなに古く廃墟のようになった教会であったとしても、それは天の門、天に上げられた廃墟なのです。また信者さんがどんなに病んで弱り果てたとしても、復活の命を宿す体なのです。私たちは天と一つに結ばれた地なのです。天と呼ばれる地なのです。だからこそキリストはそこにおられるのです。そのような者にされたこと、引き挙げられたことを感謝して生きてゆきましょう。