2017年10月22日(日)主日礼拝説教

油を用意する信仰とは』 井上隆晶牧師

創世記15章1~7節、マタイ25章1~13節

❶【十人の乙女のたとえ】

五人の賢い乙女の話は、礼拝でも何度でもお話をしたことのある箇所です。十人の乙女たちはそれぞれともし火をもっていました。そのうち五人は愚かで、五人は賢かったと言われています。愚かな乙女たちはともし火は持っていたのですが油の用意をしていませんでした。賢い乙女たちはともし火と一緒に、壺に油を用意していました。この「ともし火」というのは信仰のことです。花婿が来るのが遅れて、皆眠ってしまいました。花婿はキリストです。キリストの再臨が遅れ、皆死んでしまったということを意味しています。再臨の時、すべての死者は復活してキリストの前に立ちます。ところが五人の愚かな乙女たちのともし火は消えそうになりました。油が切れてしまったからです。しかし賢い乙女たちは、ともし火と共に油を用意していたので、ともし火を整えて、花婿であるキリストと共に天国の祝宴に入れられたというのです。

賢い乙女たちのともし火は消えることなく最後まで燃えていました。つまりキリストの再臨が遅くなっても、信じる心が消えなかったということでしょう。一方愚かな乙女たちのともし火(信仰)は消えそうになります。つまり信じられなくなったということでしょう。油は聖霊であり、聖霊がいなくなれば、私たちは簡単に信じられなくなるのです。信じることは、信じられないこととの戦いであり、何もしないで楽に信じられるものではないのだということをこの譬え話は教えています。油を蓄える生活、つまり聖霊を呼び、神と交わる生活を抜きにして信仰は生まれないのです。

 

❷【信仰と不信仰の狭間で】

エレミヤ書の中にゼデキヤという王が出て来ます。ユダ王国の最後の王であり、彼の時代にエルサレムはバビロンによって陥落し、都は焼け落ちました。ゼデキヤの子どもたちは彼の目の前で殺され、彼も目を潰されて、バビロンまで捕囚として引かれて行きます。このゼデキアという王にエレミヤは何度も「バビロンに降伏すれば命も助かり、都も火で焼かれず、家族と共に生き残ることができる」と警告するのですが、どうしても信じる勇気が出ません。エレミヤは役人たちによって水溜め(穴の中)に落とされ、殺されそうになりますが、ゼデキヤ王は密かに彼を穴から引き上げ命を助けます。そして「何も隠さずに話してくれ」(エレミヤ38:14)といって神の言葉を聞きます。しかし彼は最終的には従いませんでした。「あの男(エレミヤ)のことはお前たちに任せる。王であってもお前たちの意に反して何もできないのだから。」(エレミヤ38:5)とか「私が恐れているのは、…ユダの人々である。彼らに引き渡されると、私はなぶりものにされるかもしれない。」(同38:19)とかいった王の言葉から分かるのは、自分の周りの側近や役人たちを恐れており、彼らの言い成りになるしかなかったことが分かります。

  • 東京のキリスト教会館にあるNCC教育部平和教育資料センターを見学してきました。戦時中の教師の友の教案がありました。「大東亜共栄圏をつくることは、神の国を地上に作ることと同じだとイエス様は教えています。」とあって、戦争に協力するように子どもたちに教えていました。気づかない内に時代の流れに組み込まれていったことが分かります。

このゼデキアを見ると、ヘロデを思い出すのです。洗礼者ヨハネを捕らえて牢に入れはしたものの、彼を殺せませんでした。その理由をマルコは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、またその教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお、喜んで耳を傾けていたからである。」(マルコ6:20)と伝えています。ゼデキヤとヘロデの共通点は何でしょう。信仰と不信仰が一人の人間の中に共存し、不信仰が最後には勝ったということです。以前、心理学者の河合隼夫さんが「心の中にことは49対51のことが多い」といったのをお話ししたことがあると思います。信じる心が49、信じられない心が51で僅か2つしか変わりません。目の前の現実や人を見たら信仰は潰されます。神と交わらない限り信仰は生まれてきません。ゼデキヤはエレミヤと話をし、神の言葉を聞いていた時は、信じる心が生まれたと思います。しかしエレミヤから離れ、側近や役人との交わりの中に入ると信仰は消されてしまいました。そして最後は悲惨になるのです。神と交わる、牧師と交わる、信仰者と交わる以外に信仰は生まれません。そうでなければ必ず現実に負けてしまいます。

パウロは「私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント5:16)といっています。肉のキリストを知ったら、本当にこの人がメシアなのかと思ってしまうというのです。でも聖書が預言している方としてキリストを見るというのです。今は史的イエス(歴史上に本当に存在したイエス様の像)が流行っています。啓示されたことは教会が作り出したキリストだというのです。パウロの言っていることとは真逆の方向に行っています。信者さんについてもそうです。現実の目の前の人を見たら、この人が本当に信者か?本当に救われているのかと疑いたくなります。でもキリストが「これは私の体だ」と言っているのだから、そう見えなくてもそのように見ようというのです。だから聖書を読まなければ信仰は出て来ないのです。

この間、詩編を読んでいたら「あなたの御手は敵のすべてに及び」(詩編21:9)という言葉がありました。敵のすべてと書いてあります。この世を見てこの信仰が生まれてくるでしょうか?この世を見たら、どう見ても神は無力であり、その手は懐に入れられたまま、神の手は短く、暴君を押さえることもできない。神の手は北朝鮮に伸びていないのではないかと思ってしまいます。故に、聖書を読まなければならないのです。信仰は聖書を読まない人からは決して出て来ません。人間の中からは出て来ないのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)現実はこうだけど、聖書にこう書いてあるから信じのです。神の御手は今日もすべての敵に及んでいます。神は生きています。生きているということは動いている、働いているということです。カルト宗教は、神の御手の力を信じていないし、神を全能であると思っていません。神を助けなければ、神に任せてはおけないといいます。とにかく現実からは信仰は生まれないのです。聖書を読み、御言葉を信じる者だけに信仰が生まれるのです。

 

❸【アブラハムの不信仰との戦い】

不信仰と戦った人にアブラハムという人がいます。聖書は長年にわたる彼の不信仰との戦いを書いています。アブラハムに対して神は「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)と言われます。しかしアブラハムは素直に信じられません。彼は「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。私には子供がありません。」(同15:2)といいます。皆さんはどうですか。「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」といわれて「ああそうですか、感謝します」と素直に言えますか。神様は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)と言いました。あなたならどう答えますか。私たちの子供たちは信仰をもっていません。信仰の跡継ぎはいないのです。私の子孫から、星の数のような信者が出ると思いますか?無理でしょう。約束と現実は違うのです。しかしアブラハムが神の言葉を信じた時、彼は「義」とされました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあります。「義」とは「正しい」という意味ですが、正しい者になったという意味ではありません。正しいのは神様だけです。義は関係の言葉です。神様との正しい関係になったという意味です。神の約束を信じる者は、神様との本来の正しい関係になった、人間としての本来あるべき正しい位置に戻ったということです。アブラハムがこの時、100%信じたのではないことはお分かりだと思います。不信仰が49あったけれども、信じる心が51になった、彼が信じようと意志したということなのです。信じられないような現実にもかかわらず、信じるとき「義」といわれるのです。意志で信じるのです。感情ではありません。感情は放っておいても信じられるのです。これ以降も、アブラハムの心は揺れ動きます。そして何度も失敗しますが、やがて神を信じる者へと変わって行くのです。

 

  • 三浦弥子さんは1946年に結核を発病。1949年6月に、斜里の海で自殺未遂をして旭川に帰ってきます。幼馴染のクリスチャンである前川正は彼女を旭川近郊の春光台の丘に誘いました。生きる目的を見出すようにいさめる前川の言葉を拒絶し、綾子さんは煙草に火をつけました。「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままでは死んでしまう」彼は叫ぶように言い、何を思ったのか傍らにあった小石を拾って、自分の足を打ち続けました。前川の真剣で激しい愛に迫られた時、初めて自分の生き方が「的はずれ」であることを悟り、この人を信じてついていってみようと思い、3年後札幌医大病院のべッドで洗礼を受けます。その1年半後前川さんは天に召されます。その1年後に三浦光代さんが現れ、彼女は励まされ、4年後には病がいやされ結婚します。一人は作家として働き、一人はそれを支え、もう一人には反抗的であった彼女を5年間いのちがけで愛するという使命が与えられます。それぞれの人生の長さも仕事も違います。前川さんは言いました。「綾ちゃん、人間はね、一人ひとりに与えられた道があるんですよ…僕は神を信じていますからね。自分に与えられた道を最善の道だと思って感謝しているんです。」三浦綾子読書会主宰の森下辰衛先生は「にもかかわらず愛する時に、人生に奇跡が始まって行くことが分かる。神様はいつでも、にもかかわらず愛し、にもかかわらず信じ、にもかかわらず従う者と共に奇跡をなそうと待っておられる。」と言っています。

 

聖書でいう「賢い」というのはどういう人のことでしょうか。この物語は「だから目を覚ましていなさい。」(マタイ25:13)という言葉で終わっていますから「賢い人」というのは「目を覚ましている人のこと」であることが分かります。詩篇14:2に「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」という文章が出て来ます。ですから「目を覚ます」というのは「神を求める」ことであると分かります。五人の賢い乙女たちは、神を求める生活をしたので、キリストの再臨が遅れても、信じ続けられたということなのです。現実に負けない信仰を持つこと、現実にもかかわらず信じること、これが油を備える信仰なのです。