2017年10月15日(日)主日礼拝説教

『古いものと新しいもの』 井上隆晶牧師

Ⅱコリント5章16~17節、マルコ13章1~2、31節

❶【この世の物は空しい】

「●大庭みな子という作家がいます。彼女が『二百年』という作品を書いています。二百年という長さで人間をとらえようとしています。頭の中で計算して考えるのではなく、具体的に自分の家系、血の流れの中でそれを見てみたというのです。上の方を見て行けば、自分のおじいさん、おばあさんの父・母までは目がとどきます。下の方を見て行けば、自分の息子・娘の子どもたち、つまり孫のことを考えて見るわけです。大庭さんは、この二百年を通して何を見、何に気づいたのかというと、ひと言でいうと、『人間には進歩というものがない。二百年を経ても、人間は進歩していない。おそろしく変わったように見えるが、事実は足踏みをしている。』というのです。

このことは旧約聖書のコへレトの言葉にも同じことが言われています。口語訳聖書では「伝道の書」といわれていました。

「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。…目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる。日の下には新しいことはない。」(伝道の書1:1~)

この世で確かなものはない、すべてが移り変わると言っているのです。そこでユダヤ人たちは永遠なるもの、永遠の世界というものを求めました。宗教というのは、このはかない世にあって、変わらないものを求め、それによって生きようとすることです。そこで伝道の書は最後はこうなっています。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、わたしにはなんの楽しみもないというようにならない前に。」「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である。」

(伝道の書12:1、13)

 

❷【この世の宗教も空しい】

イエス様のおられた当時の神殿はヘロデ王によって増築された神殿であり、第二神殿と呼ばれています。それはそれは巨大な神殿で、縦が480メーター、横が300メーターくらいあり、神殿本体は50メーターほどの高さがありました。当時のエルサレムの人口が4~5万人であり、祭司は7000人いたそうです。町全体は宗教都市のようなものでした。昨日、東京で会議があって行ってきました。東京都庁の真裏のホテルが宿泊場でしたので、東京都庁の前を通りましたが、ものすごい大きさでした。大阪府庁の3倍くらいはあると思います。弟子たちはこの巨大な神殿を誇りに思い、これに依り頼んでいたようです。聖書にこう書かれています。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)人間は大きいものが好きです。大きくて、数が多くて、豊かな物に憧れます。それは宗教も同じです。教会も同じなのです。

  • 9月の終わりにカトリック、聖公会、ルーテル、在日大韓などの先生たちと会って会議をしました。その時に、在日大韓の先生がこのように教えてくれました。今、韓国のプロテスタント教会は頭打ちになっている。巨大なメガチャーチと地方の小教会との格差がどんどんできている。韓国の信徒は小さい教会には行きたくない。なぜなら小さい教会に行くと献金をしなければならず、奉仕もしなければならないからである。大きな教会に行けば奉仕をせずに済むし、気楽に信仰できる。巨大教会には地下にATM(現金自動預け払い機)があって、そこから献金する。今メガチャーチは金銭問題、女性問題、後継者問題で叩かれている。日本の教会は堅実です。先日の12日の会議でも同じことを別の先生から言われました。

大きくて、立派なものを私たちは好み、それがあれば安心、大丈夫だというのは本当に変わらないと思います。

しかしイエス様はこの巨大な神殿をご覧になり、こう言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)あなたの目はなにを追いかけているのか、あなたの目はなにを見ているのか、あなたが見なければならないもの、あなたが追わなければならないものは違うのではないか。イエス様の目は人の世のはかなさ、人の業の空しさ、それをまともにご覧になっています。この世は空しいと思い、人は宗教に救いを求めます。その宗教でさえも、完全なものではなく崩されてゆくのだとイエス様は言われるのです。その宗教とは教会という建物であり、教団であり、人であり、さまざまな制度であり、土地や財産といった富です。そしてこの後に言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ここには過ぎ行くものと、過ぎ行くことのないものがあります。破壊と再建があります。古くなってゆくものと、古くならないものがあります。イエス様は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13:31)「天地は過ぎゆかん、されど我が言葉は過ぎ逝くことなし。」(文語訳)ともいわれました。自分は過ぎ逝くものではない、私こそ永遠に残るものなのであるといわれるのです。この世は空しいという人たちに、決して古くなることのない言葉を与え、世界に希望を与え、そこで生きる力を与えてくれます。そのキリストに出会ったパウロはこういいました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)

 

❸【キリストの生き方】

キリスト教の歴史をみるとグノーシスという思想があります。グノーシスというのは「知識」という意味です。その思想はキリスト教に大きな影響を与え、キリスト教はそれと戦うことを通して成長してきました。それはどんな思想かというと、「人間の中には罪と汚れがあり、どんなにしてもそれを取り除くことは出来ない。人間は神の失敗作であり、人間は腐敗し堕落している。永遠の世界、永遠不滅の命はこの世の中にはない。この世から離れた別の世界に行くことで人は永遠の命に与る。だから、この世の中での法や掟、道徳は無用であって『すべてのことは許されている』のだ。」コリント教会はこの合言葉を使っていました。この思想は時代を超え、国を超えて現れます。韓国のセウォル号事件で知られるようになったキリスト教異端の「救い教」もそうでした。そしてグノーシス思想は、肉体は悪であり、神の失敗作なのだから、神がこの肉になるなどということはあり得ないといって、イエス様の受肉を否定しました。そこでヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)と言ったのです。

イエス様はこの空しい世、罪にまみれた世界をご自分の住まいとされて生きられました。死の運命をご自分のものとして引き受け、人として最後までその道を歩かれました。この世はイエス様にとって仮の宿ではなく、本来の住まいとされたのです。罪人たちと関わり、交わり、彼らと手を切ることをしませんでした。彼らを自分の兄弟、姉妹と呼ばれ恥としませんでした。共に住み、共に食事をし、共に生きました。病人を見捨てませんでした。彼らはこの世で希望を失った人であり、人々が見捨てた人々でした。しかしイエス様は彼らに近づいてゆかれました。人々が背をむけて去って行った人たちに近づき、手を触れ、「安心しなさい。あなたの罪は赦される」「清くなりなさい」と言われました。それにより多くの病人が立って歩き出しました。

 

私たちの人生を振り返った時に、確かなものは自分の中には何一つありませんでした。健康も行いも信仰も不確かです。この世にも確かなものはなく、すべてが過ぎ去ってゆきます。たとえそれが教会であったとしても、人も教会も時代と共に移り変わり、完全ではありませんでした。教会も限界があるのです。この世は空しいと私たちがつぶやいた時、イエス様は「恐れることはない。あなたが50年かけて築き上げたものが音を立てて崩れて行ったとしても、心配することはない。私があなたたと共にいる限り、あなたは新しくなり、永遠に残るのだ」と言われます。

  • 渡辺和子シスターの本の中に「両手でいただく心」という題でつぎのようなお話がのっていました。

「速いことは良いことだ」という考え方、「何でもあり」といった服装、ぞんざいな言葉づかいの溢れる世の中に生きていて、私は最近、大切なことを忘れていました。そのことに気づかせてくれたのが、次の言葉でした。

「ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい」忙しいということを大義名分にして、私は片手で物の受け渡しをするようなぞんざいな生き方をしがちになっていました。自分の立居振舞、あいさつなどをもう少し丁寧にするように心がける時、それは自分のいのちも、他人のいのちも大切にする心に育ってゆくのです。…この「何でもないこと」「どうでもいいこと」「特にならないこと」を大切にする時、人は美しくなるのです。…相田みつをさんが、「現代版禅問答」と題して書いておられます。

「ほとけさまの教えとはなんですか?」

「ゆうびん屋さんが困らないようにね、手紙のあて名をわかりやすく正確に書くことだよ。」

「なんだ、そんなあたりまえのことですか」

「そうだよ、そのあたりまえのことを、心を込めて、実行してゆくことだよ。」

いろんなことで嫌になることがあります。説教を語ることの意味が分からなくなる日もあります。自分がしていることに意味がないように感じることがあります。そんな私にこの「あたりまえのことを、心を込めて、実行してゆくことだよ」という言葉は、ああそのとうりだなと思わせました。当たり前の日々、当たり前の礼拝、これは当たり前ではないのだなと思いました。

イエス様は丁寧にこの世を生きられました。イエス様は出会った罪人たちを愛されました。決していいかげんに、投げやりに生きたのではありませんでした。この世と肉を持つ弱い人たちを自分自身のように愛されました。神がおつくりになった世界が凡庸であるはずがありません。神がお造りになった人たちは失敗作ではないのです。限界があることを知りながら、弱さや欠点があるにもかかわらず、それを愛する生き方をイエス様はされたのです。限界のある世界、限界のある教会、限界のある人たちをキリストは愛されたのです。これが神様の当たり前なのです。