2017年10月1日(日)主日礼拝説教

『涙をもって種まく者』 井上隆晶牧師

詩篇126篇1~6節、エレミヤ書31章7~9、15~17節

このエレミヤ書31章というのは、バビロン捕囚からの解放の預言です。31節以降に「新しい契約」を立てるという新約への預言が出て来ることでも有名です。エレミヤ書の中の最高峰であり、旧約聖書の中の最高峰といわれているところです。ですから全体に渡ってまことに希望があり、皆さんに是非、読んでもらいたい所です。

 

❶【神の愛のきずな】

2節から6節までは、神の愛が語られています。2節に「民の中で、剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける。イスラエルが安住の地に向かう時に。」とあります。「荒れ野で恵みを受ける」とはいい言葉です。荒野は恵みの無い所、命の無い所、石がごろごろしていて、水も湧かず草も生えない所です。しかし、そういう所で恵みを得るというのです。イエス様も40日40夜、荒野で試みに会われました。荒野とは、単に荒地という意味ではなくて、神に導かれて歩む場所です。イスラエルの民は、エジプトから脱出して荒野で40年間生活しました。それは苦しい生活であったと思いますが、彼らはそこで紅海を分ける神に出会い、天からマナとウズラを降らせる神に出会い、岩から水を出す神に出会い、その他の多くの奇跡を体験しました。荒野は神と出会う場所なのです。だからこそ「荒れ野で恵みを受ける」というのです。私にとっての荒野とは信仰生活であり、教会生活です。「安住の地に向かう時に」の「安住の地」とはエルサレムのことです。神の国へ向かう荒野とは、天国へ向かって歩む私たちの人生全てなのです。この世で人は神と出会い、恵みを受けるのです。

3節に「遠くから、主はわたしに現れた。私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」とあります。「遠くから」とはどこでしょう。一番遠いのは天です。天から神は地に降って現れたということです。私たちが神の国へ目指して歩き出すと、神は天からあなたのもとに走って来てきて現れて下さるというのです。「とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」神の愛は永遠の愛であり、変わることのない愛です。これは神の愛の性質をいっているのです。変わらない愛というものを皆さんは見たことがありますか。人間の愛は質も量も変わります。変わらないという事は奇跡だと思います。

  • 熊取教会に90歳に近いNさん御夫婦がいます。ご主人の方が2年ほど前に洗礼を受けられました。それまで奥様は誠実にずっと教会に仕えてこられ、夫の為に祈ってきました。そしてその願いがかなって夫さんが洗礼を受けられたのです。妻はその時、もう認知症が始まっていました。夫は「今まで苦労をかけたから、これからは恩返しだ」といって、二人で杖をついて教会に来られ、いつも一緒に座っておられました。この御夫婦を見ているととても美しいのです。このように結婚して60年~70年が経った人間の愛でさえ、すばらしいのですから、永遠の変わらない神の愛はどれだけすばらしく美しいかと思います。

次に「慈しむ」という言葉ですが、ヘブル語で「ヘセド」といって「きずな」を意味する言葉です。これは神の愛の行動力をいったものです。きずなとは、両者を結ぶ愛のことですが、それだけでなく、その愛に対する誠実さと責任を意味していると聞いたことがあります。つまり、神様はイスラエルを誠実に愛し、投げ出さないで、最後まで責任を負われるということです。昔の武将たちは普通、家と家とのきずなを確かにする方法として結婚を用いました。神と人との間のきずなを確かにし、それをより太いものとされたのがイエス様でしょう。神が人となる、神と人が夫婦になる、家族になる、運命共同体になるということほど最も確かなきずなはないからです。すごいことだなあと思います。

 

❷【泣きながら帰って来る】

8節に「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その日には、目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。」と書かれています。北の国とはバビロンのことです。その日とはエルサレムに帰ってくる日のことです。大群衆が地平線を歩き戻って来るのです。その中には、障がい者、妊婦、病人がいるというのです。彼らは生き残っていたというのです。弱い人たちが生き残って泣きながら帰って来るというのです。これを読むと、ナチスの強制収容所が解放された時のユダヤ人の姿を思い出します。「彼らは泣きながら帰って来る」とあります。ここを読んで感動しました。本当に苦しい思いをしたからこそ、そこから解放された喜びも大きいのです。苦しみを知らない人は、喜びもないでしょう。信仰者にはこの苦しみ、涙が必要なのだと思います。それは罪に苦しみ、泣くことです。今の教会は罪に泣くことなしに、喜びだけもらおうとしているように思います。

  • 今「心の病の勉強会」では依存症の勉強をしています。前回は借金の問題と、警察に逮捕されるという話でした。今はアルコールをやめていますが、アルコール依存症のKさんが自分の体験談を話してくれました。親がお金を出してくれて、自分の店を始めますが、店のその日の売り上げをもって十三にお酒を飲みに行ってしまい、借金をするというのです。ほのぼのローンから始まって、次にアイフル→町金融→京橋の闇金融と、どんどんお金をカードで引き出せるというのです。借金をしているという感覚がなく、機械が自分の貯金箱に見えてくるというのです。そして何百万も借金をして、店を潰し、親がその借金を払う。それを何度も繰り返すというのです。「自分というものが分かっていなかった。分からないからやってしまった。10年くらい経ってやっと気がついた。」という言葉が印象的でした。

これを聞いていて、これはすべての人に当てはまると思いました。自分の罪が分からない、自分の罪に気がつかないのです。自分がどれだけ毒を吐き、周りの人を汚し、迷惑をかけているか分からないのです。だから罪が顕わになるということが必要なのです。借金がばれ、警察につかまれば隠すことはできません。それはいいことなのです。勉強会では「親や周りの人が本人の責任を代わりに負ったり、尻拭いをしてはいけない。本人に責任を取らせること、痛い思いをさせることが必要なのだ。」と学びました。

人生という荒野で、私たちが学ばなければならないのは「自分の罪」なのです。それを知って泣きながらイスラエルの民は帰って来たのです。19節を見ると罪の告白が出て来ます。「わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若い時のそしりを負って来ました。」(エレミヤ31:18~19)29~30節を読むと「その日には人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。誰でも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」昔は不幸を他人のせいにして生きていたが、その日彼らは「自分の罪で人は痛い目に遭うのだ、誰も悪くない。悪いのは自分だったのだ」と告白するというのです。これを悟り、告白するためにこの世の人生という荒野があるのです。私は思うのですが、私たちの一生とはバビロン捕囚であり、どんな人にもバビロン捕囚が必要なのではないかと思うのです。旧約聖書が繰り返し「出エジプト」や「出バビロン」を語るのはそういう意味だと思うのです。ユダヤ人は罪を犯し、神に背いたからバビロンに送られ、そこで奴隷生活をしたんだではなくて、これはあなたなのだ、と読まなければならないのです。自分の罪をしっかりと知り、告白することが求められています。教会は懺悔しなくなりました。告解もしなくなりました。AAの人の方がしっかり自分の罪を見つめ、罪の告白をしています。彼らの方が天国に近く、私たちの方が遠いように感じます。懺悔を回復しなければなりません。正教会では懺悔なしに聖餐には与れません。

 

❸【あなたの未来には希望がある】

15節以下も有名な箇所で降誕祭の時に読まれます。イエス様の身代わりとしてベツレヘムの二歳以下の幼な子たちがヘロデに殺されました。その預言としてここが引用されています。ラマはラケルの墓がある場所です。イスラエルの民がバビロンに引かれてゆく時、ラケルの墓の前を通りました。ラケルは自分の二人の子ヨセフとベニヤミンを失って悲しみましたが、今その子孫がバビロンに引かれてゆくのを見て泣いているというのです。しかし16節を見ると「泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。と主は言われる。」「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」とあります。私たちの苦労は本当に報われるのだろうかと思います。報われないことの方が多いのです。特に教会をしていると、報われない。愛しても誤解され、恵みを与えても裏切られるようなことがある。自分のやって来たすべてが無駄ではなかったと思うことがあり、もうやめようかと思うことがあります。主が私にこれを言ってくれたなら、どれほど慰めになるかと思います。「この教会には未来がある」といってくれたらどれだけ嬉しい事かと思います。「あなたの苦しみは報いられる」と言われる主は、単なる慰めでいっているのではないでしょう。神である私があなたに報いるということでしょう。だからこそ報いがあるのです。「あなたの未来には希望がある」と断言される主は、「未来が明るかったらいいね。祈ってるよ」ではないでしょう。神である私があなたの未来を希望あるものにするということでしょう。

小池百合子さんが「希望の党」を立ち上げましたが、希望があるでしょうか。何か国民の為ではなく、自分たちの権力争いをしているように見えます。私は希望というのは人ではなくて神に置くものだと思っています。

  • Y姉が仕事で礼拝が出れなくなった時に、神に祈り、勇気を出して日曜日には休みたいと会社に言われたそうです。神に従うという一本筋を通したのです。すると会社が考えてくれて、必要な人材も与えられて不思議なように礼拝に来られるようになったといっておられました。神に期待する、神に希望を置くという事はそういうことだと思うのです。なぜ神に期待し、希望を置けるかは、人間は約束しても守りませんが、神は約束を守られるからです。語ったことは必ずなるからです。必ずなるのだから、もう勝ったようなものなのです。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る。」(エレミヤ33:14)人が住まない廃墟であったエルサレムに、再び人の笑い声、結婚式の喜びの声、神を賛美する歌声が響くようになる日が来るなどということはエルサレムの人々は信じられなかったでしょう。だがそうなった。これは神がその約束を守られたからです。約束を果たす日」がやって来る。「その日」は必ず来る、そこに私たちの希望があります。