2017年4月23日(日)主日礼拝説教

『信じる者になりなさい』   井上隆晶牧師

ヘブライ10章19~25節、ヨハネ福音書20章19~29節

❶【イエスが来て真ん中に立ち】
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ20:19)とあります。イエス様が復活した日曜日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を閉め、身を隠していました。イエス様の次は自分たちが捕えられ殺されると思っていたからです。復活の話を聞いても不安と恐れはなくなりません。空の墓の話も敵の策略に聞こえます。そこへ突然イエス様は姿を現され「あなたがたに平和があるように」と言われました。(19節)これはユダヤ人が日常の挨拶に用いた言葉(シャローム)です。イエス様が彼らに手とわき腹の傷跡を見せられると、弟子たちは本人であることを知り喜びました。イエス様の復活された体というのは傷跡がありながら、閉じられた部屋に自由に入ることの出来る不思議な体でもありました。私たちにはとうてい理解できない復活体の神秘です。
さて、イエス様は再び「あなたがたに平和があるように」と言われました。(21節)これを読むと礼拝を思い出します。礼拝の最初の時も、聖餐式の前にも、私たちは「あなたがたに平和がありますように」と挨拶を言い交します。実は礼拝というのは、ここの場面の再現をしているのです。イエス様は以前「私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)といわれましたが、イエス様の平和が恐れにあった弟子たちを解放してゆきます。「イエスが来て真ん中に立ち」(19節、26節)という言葉が二回も出てきています。イエス様が、私たちの真ん中に立つということは、神の言葉が真ん中に立つということです。大体、恐れに支配されている人というのは、その原因となる出来事や言葉がいつもその人の真ん中にあってその人の思考や行動を支配している場合が多いのです。精神科医はそれを知っているので「別の楽しいことを考えなさい」といいます。悪いものは追い出すのではなく、良いものを入れることをしなければなりません。悪霊が出ていった人が、何も入れなかったのでもっと悪いものが入ったという譬え話があるでしょう。追い出すとか忘れるとかではなく、新しいものを入れることが大事なのです。
●私はここを読む時に、自分が統一協会から逃げて来た時のことを思い出すのです。琵琶湖修練所に監禁された私は、真夜中に脱走して、線路を歩き、始発の電車で大阪に戻って来ました。後から連れ戻しに来ると思い、自分のアパートの鍵をかけ閉じこもっていました。この教えを聞いて従わないと自分も家族も霊界で呪われると言われていましたし、脱走した私は「神を裏切った」という自責の念と恐れでいっぱいでした。そこへクリスチャンの友人が訪ねて来てくれ、私を教会へ連れて行ってくれたのです。友人から聖書をもらい、その聖書を毎日読んでいました。最初は分からなかったのですが、読み進んでゆくうちに教えられていた内容と全然違うというのが気がつきました。私は目からウロコが落ちるように「あっ、違う!」と知り、知らない内にイエス様を信じていました。そうやって私の心の真ん中にあった「悪い言葉、嘘の言葉」に入れ替わり、神の言葉が私の真ん中に立って私を支配したので恐れはなくなりました。聖書を読むことによって、神様が閉じていた私の心の中に入って来られたということがお分かりになるでしょう。そして聖書の言葉によって恐れがなくなり、平安が来ることもお分かりになったと思います。あの時、神様は目には見えませんでしたが確かに私の人生の中に入って来られたのでした。
だから聖書を読むことです。み言葉を真ん中に立たせるのです。その時、イエス様の平和があなたを支配します。
この閉じられた家の中で、今教会が生まれようとしています。キリスト教は人間の力がゼロになった時からスタートしました。散った弟子たちを集めたのも、恐れて隠れていた弟子たちに勇気と信仰を与えたのもキリストでした。キリスト教は人間が始めたのではありません。神が始められたのです。これがキリスト教のすごさです。復活したキリストは今ここにいます。疲れ、弱り果て、気落ちしている私たちの真ん中にいます。イエス様がおられるから礼拝が始まるのです。イエス様がここにいるから信仰が戻って来るのです。私たちが倒れても、キリストが立っているので教会は倒れないのです。今日も「イエスが来て真ん中に立っています」。ここから全てが始まります。私たちは聖書に期待していいのです。キリストに期待していいのです。

❷【わたしもあなたがたを遣わす】
イエス様が弟子たちに姿を現したのは、彼らに信仰を与え、恐れを取りのぞくためだけではありませんでした。イエス様の業を引き継ぐ者としての教会を形成し、彼らをこの世に派遣するためでした。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)といわれ、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」(22節)と言われました。聖霊を受けるのは新しく創造されることであり、神の命に生きる者とされるためです。神と出会った者は、この世へ派遣されます。これも礼拝の最後に出て来ます。
●Mさんが、復活祭の十字架行進に参加され、大きな声で「キリスト復活!」と叫び、それを聞いた町内会長から「宗旨替えしたんか」とからかわれたというのです。そして愛餐会の時に私に言われるのです。「礼拝の最後に、この世に出て行きなさいと言われるでしょ。私はこの世に派遣されると思っています。だからどこに行ってもキリスト教のすばらしさを伝えています。」これを聞いて、クリスチャンでも本気で聞いていないのに偉いなあと思いました。
この世に派遣されるのは人の罪を解くためです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)教会は人の罪を解く権威を委ねられました。「安心しなさい。あなたはもう赦されています。恐れなくていいのです。」と語っていかなければなりません。

❸【弟子たちと共にいること】
トマスはイエス様が復活した日の夕方、弟子たちと一緒にいなかったのでイエス様に会うことができませんでした。仲間の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)といった時、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(25節)と言いました。この言葉を聞くと何か子供が駄々をこねているように思えます。トマスにはディディモ(双子)というあだ名がついていました。それは彼の心の中にいる二つの自分「信じる自分」と「信じられない自分」を意味しています。だから「トマスの不信仰」は本当の不信仰ではありません。その中には信仰が入っているのです。信じたいけど信じられない不信仰なのです。これは私たちも同じでしょう。いつも100%信じている人は誰もいません。だからトマスとは、あなた自身のことなのです。そんなトマスのためにイエス様は「八日の後」つまり次の日曜日に姿を現わしてくださいました。そしてトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。この物語は、人は信じれるようになるためにはどうしたらいいのかを教えていると思います。先に読んだ物語と、後の物語の共通点は何でしょうか。それはイエス様は「日曜日ごとに現れる」ということと、「弟子たちが集まっている所」に現れるということの二つです。トマスは最初にキリストが姿を現した時に、弟子たちと共にいませんでした。弟子たちの集まりとは教会をさしていますから、教会と共にいない、集会に来ていないということになります。ですから日曜日の礼拝に来ない人は、キリストに出会えないのです。信じられなくても礼拝に来る、信じている者たちの中にいるとやがて目が開いてキリストが見えるようになり、キリストを知ることができるようになります。キリストが見えてくると楽しくなります。だからヘブライ人の手紙は「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブライ10:25)と言っているのです。
●受難週に他教会のT牧師が金曜日、土曜日の二日礼拝に参加しました。彼は「祈祷書をもらって、家で一人で礼拝する時に読もうとしているが、とてもではないが一人では読めない。やはり教会に来て、礼拝の中で読むと読めるし、分かる。」といっていました。
一人では信仰というのは出来ないのです。もし一人で信仰生活が出来るのなら、神は教会を造らなかったはずです。教会生活があるのは恵みなのです。

❹【神が教会生活を送らせてくださっている恵みに気づきなさい】
先日、創世記3章でこの世界に罪と死が入ってきた物語を読みました。神は「善悪知識の木から取って食べると必ず死ぬ」と命じますが、悪魔は「それを食べても死なず、神のように善悪知る者となれる」と言って人間を騙します。
(1)現代人は自分を賢い、自分は正しいと思っている
善悪知識の実を食べて知恵を手に入れた人間は、神よりも自分の方が賢い、自分の方が正しいと思うようになってしまいました。先日、インターネットで「イースターは日本に定着するかどうか」というアンケートがあったので、私は「定着する」の所を押したのですが、結果は「定着しない」が70%以上であり、「定着する」は僅か6%くらいでした。理由を読むと、あれはキリスト教の行事だから、仏教国である日本は「花の日」を祝えばよい、どの宗教にも命のよみがえりの考えはある、商業ベースに乗せるためには商品がないとかいうものでした。現代人は聖書の言葉は愚かだと思っていますし、自分の考え方の方が聖書より正しいと思っています。
●ある人が「先生、神様は何をしても赦してくれますか」というのでこう答えました。確かに神様は善人の上にも悪人の上にも太陽の光と雨を注がれるように、すべての人を赦し、愛しています。ただ人が自分の正しさを棄て、神の正しさを受け入れる時だけ、その人は赦しと命をいただくことが出来ます。十字架の上でキリストは二人の強盗の罪を赦していたのに、彼らの運命は右と左に分かれました。一人は自分の正しさを棄て「この人は正しい」と言って神の正しさを認めて天国に行きました。一方の強盗は自分の正しさを最後まで捨てられなかったので地獄に行きました。「俺は間違っていない。悪いのは神だ。俺をこんな風に造り、こんな環境に置いた神が悪いのだ。」と自分の正しさを主張したのです。彼には自分の罪が見えず、神の愛も見えませんでした。それを地獄といいます。だから運命が分かれたのです。人間が自分の正しさを捨てることは何と難しいことでしょう。
(2)悪魔と対話することの危険
エバが、善悪知識の木について「触れてもいけない」と神の言葉につけ加え、「死ぬかもしれないから」と神の言葉を薄めたように、カルト宗教も神の言葉につけ加え、またそれを薄めます。悪魔は神を疑うように促し、「決して死ぬことはない」と神と反対の言葉を断言します。私たちも時に、神の言葉をつけ加え、薄めることがあります。「聖書はこう言っているけどしなくても大丈夫だよ、聖書はそういっているけれどそれは無理だよ。私には出来ません。」悪魔と対話をすることによって、悪魔の考え方がどんどん人の中に入ってきて、悪魔と同じ様になってゆくのがお分かりでしょうか。神から離れるというのは、聖書から離れる、礼拝から離れる、教会から離れるということです。神のことはこの世を見ても分かりません。それは聖書にしか書いてないからです。だから聖書を読まない人は、神を知ることが出来ません。この世の知識と対話をしている内に、どんどん悪魔の考えと同じようになっていってしまうのは何と恐ろしいことでしょう。
(3)この世に向かって目が開いた結果
更に、悪魔がいったように彼らの目は開きますが、それは神に向かってではなく、この世に対してでした。この世に目が開くと、自分の裸が見えるようになります。裸とは自分の弱さと間違った罪意識のことです。弱さが見えるけれど赦しが見えないので絶望して自殺してしまいます。しかし神に向く時、私たちは自分の本当の罪と赦しを見れるようになります。このように創世記を読むと、人間の姿が暴かれています。人類は長い歴史の間、神を見なくなり、本当の罪が分からず、赦しも分からなくなりました。
神から離れた人間がどうやって神に向き直り、神と対話する者となり、神に向かって生きる者となれたのでしょうか。それは人間の力では不可能です。悪霊の支配下にいて、多くの罪を犯したあなたが変わったのは、神があなたの人生の中に入ってきたからであり、上からの力があなたに臨んだからです。神が自分にして下さった大きな恵みが見えていますか。キリストは見えませんが、あなたの中に入って来られたのです。
復活祭が終わって、しばらくお祈りが休みになり、この世の事に埋没してしまうと、聖書が何を言おうとしているのか分からなくなりました。聖書を読んでも何も感じないし、信じる心が湧いてこないのです。恐ろしいと思います。教会から離れれば、ほとんどの人は聖書を読まなくなり信仰を失います。そういう人が大勢いるのです。教会を去って行った人が、どんな良い生活をしているかというと良くなっていないのです。むしろ悪くなっているのです。ところが教会に帰り、集会に立ち、祈り始めると信仰が元に戻って来るのです。教会が立てられているということは神の恵みです。教会生活は私たち人間の弱さを助けてくれます。あなたは神に憐れんでもらっているのです。教会にしっかりつながり、神を信じる者となりましょう。