2017年4月16日(日)主日礼拝説教

『あの方は死者の中から復活された』   井上隆晶牧師
Ⅰコリント15章50~58節、マタイ福音書28章1~10節

❶【復活の証人になれ】
安息日が終わって、日曜日の明け方にマグダラのマリアともう一人のマリアが墓に見に行きました。(マタイ28:1)ここからは婦人たちが活動しています。男性の弟子たちは、イエスの受難を前にしてみんな逃げてしまい、家の戸の鍵をかけて隠れていました。一方、女性の弟子たちは、イエス様の死と葬りを最後まで見届け、日曜日の朝早くにイエスの体に香油を塗るために墓に行きました。墓には番兵がおり、墓石には封印がしてあって勝手に開けることはできませんし、重い墓石を女性の力では動かせないのを知っていたのにもかかわらず、婦人たちは出かけました。そしてこの女性たちが最初の復活の証人となりました。(古代社会ではありえなかった)これには意味があると思います。力はいりません。ローマの政治権力(封印)、武力(兵士)に対して力で対抗しなくていいのです。ただ神のなさることを見届け、目撃し、その証人になることだけでいいのです。これが本当の教会の姿だと教えていると思うのです。
すると何が起こったのでしょう。「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を脇へ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(28:2~3)地震が起こって墓石が転がってしまったということも考えられますが、むしろ聖書は天使によってこの地震は引き起こされたのだといっています。地震とは土台が揺れ動くことです。私たちがこの世の中で常識だ、当たり前だと思っていたことがひっくり返るような出来事が起こったのだと聖書はいっているのです。人間はもう駄目だとしていろんなものに蓋をします。しかし神は人間が閉じた蓋をもう一度開けられます。それは神にしかできません。故に、どんなに絶望しても教会に帰り、聖書を開いて神に聞くならば、神があなたの心の墓石を取り除いて下さいます。

❷【地獄(死)は滅び、命と光のあふれる国になった】
「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(4節)これは神を見た人間の姿を現しています。神を見たものは死ぬと旧約聖書では言われています。ところが面白いことに、婦人たちは死人のようになりませんでした。このことは、神の前ではこの世の力は死んだもののようになり、教会は生きることを教えています。これはまたキリストが地獄に降って何をされたのかを私たちに教えています。古代教会の祈祷書には「地獄の門番は、キリストの足音を聞いて恐れ、死んだもののようになった。」「イエスよ、地獄はあなたを迎え入れ、死んだ者が神であり、釘の傷を受けた者が全能者であることを見て、悩み、もだえ、口がきけなくなりました。」とあります。
パウロは「最後の敵として死が滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)といいました。人間の最後の敵は死です。死は最後まで人間を恐怖で縛り支配するからです。それはまた神の敵でもあります。死は神が創造しなかったものだからです。だからキリストはそれを滅ぼしに行かれます。死ぬために人間の体をまとった神が地獄に降り、この死の世界を命と光に満ちた世界に変えてしまいました。光の源が墓に入ったので闇は消え、命の源が入ったので死は飲み込まれ、死の世界は、神の国になったのです。死は命の源であるキリストに触れたので麻痺して死にました。モーセがイスラエルの民に言った言葉を思い出しましょう。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたにのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト14:13~14)。エジプト人というところを「死」と置き換えるのです。今日、死を見ているが、もう二度と見ることはないと主はいわれます。「イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。」(出エジプト14:31)「見た」と何度もいっています。死が死んだのを見なさい。神が死に対して何をしたのかを見なさいというのです。それが復活です。でも未だに死はあるではないかという人がいます。死はありますが、その性質が変わったのです。死は崩壊でも、喪失でもありません。死は種蒔きであり、それは永遠の命の始まりになったのです。
その石の上に天使が「座った」のは、墓を支配したということです。人間がこの石を再び墓の前に戻すことが出来ないようにしたのです。神はその昔、罪を犯したアダムをエデンから追放し、再びエデンの園にある命の木に近づくことが出来ないように、天使を置きました。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと燃える炎の剣を置かれた。」(創世記3:24)とあります。しかし、今神は、命に至る道を開き、天使を墓石の上に置いて死に至る道を閉じられたのです。命に至る道(天国への道)が開かれ、死への道(地獄への道)は終わったのです。

❸【主は生きておられる】
天使は神のメッセージを伝えます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(28:5~6)「十字架につけられたイエス」というのはどういう意味でしょう?婦人たちは十字架につけられたイエスの遺体に会いに来ました。人間は、必ず死んでしまう命しか知りません。しかし、天使はいいます。「ここにはそんな命はない。ここには必ず生きることになる命しかない。だからここにはいない。」ルカを読むと「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(ルカ24:5)と天使はいっています。旧約の預言者たち、エリヤもエリシャも口をそろえていう言葉があります。それは「主は生きておられる」という言葉です。「生きておられる方」というのは神のことを指しています。神だけが本当に存在し、永遠に生きているからです。天使はイエス様は神だと言うのです。イエス様は神性においては父なる神と一体であり、決して死なない方です。常に永遠の命をもっています。永遠の昔から父と共におられる時も、人となってこの世に降られた時も、十字架の上でも、息を引き取った時でも、墓に横たわった時も、地獄に降っても、三日目に復活しても、あの方の神性は何も変わりません。彼の永遠の命は、復活して始まったのではありません。イエス様はいつも永遠の命を生きておられます。復活したのは神性ではなく、イエス様が受け取られた人間性です。神性においてはいつも復活しているのです。神性と一体になった人間性は、死んでも死なないことを証明したのです。
使徒たちはこの後いいました。「わたしたちは主を見た。」(ヨハネ20:25)マグダラのマリアもいいました。「わたしは主を見ました。」(ヨハネ20:18)キリストは生きておられます。生きていて私たちの祈りを本当に聴き、本当に手を伸ばして助けてくださいます。そして本当にご自分の創造された国、この世界に再びやってこられます。

❹【ガリラヤで再び会える】
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(28:7)なぜ、イエス様はなぜ、ガリラヤで待つといわれたのでしょう。そこに行けば生きておられるイエス様に会えるのです。その場所とはどこでしょう。
●以前「復活」という映画のお話をしました。弟子たちが二階の部屋で集まっていると、そこに復活したイエス様が現れます。皆イエス様を囲んで座り楽しそうに話して食事をしていました。イコンでは立っている絵が多いので、立っていたと思ったのですが、映画では座っていました。そこへトマスが飛び込んできます。そして彼にイエス様は手の傷や脇腹の傷を見せます。みんなが触り喜んでいました。その様子を百人隊長が見て驚くのです。死んだのを確認したからです。目が点のようになり、その場に座り込み、彼は自分の人生が分からなくなります。しかし次の瞬間、イエス様は姿を消します。弟子たちはみんな悲しくなり元気がなくなるのですが、マグダラのマリアが「ガリラヤに行けば会える」と言い出します。そこで弟子たちは旅支度をしてガリラヤへ帰り、湖で漁をしている時に、再び出会えます。彼らは喜びに溢れていました。考えてみたら、死んだ人が幽霊ではなく、目の前に姿を現したら誰でも驚きます。死って何かわからなくなります。
聖書を読んでいて気づいたことがあります。弟子たちの生き方が180度変わっているのです。十字架まではみんな自分のことしか考えていませんでした。誰が一番偉いのか、誰が大臣になるのか、など自分の夢を追いかけて、自分を中心として信仰していました。ところが復活してからは、復活したイエス様に会いたいという思いで動き回っています。エルサレムで会い、ガリラヤに行き、またエルサレムに戻ります。イエス様を求めて旅をしています。聖霊を求めてエルサレムに戻ってきます。キリスト中心になったのです。彼らの行動はキリストの言葉が中心になっています。ヘブライ語の「言葉」は「ダーバール」といって「行い」という意味もあります。聖書では神が語った「言葉」は必ず言った通りに行なわれ、必ず成ります。天使が婦人たちにいった言葉もそうでした。「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」神の言葉には約束が伴っています。「ガリラヤで会える」「エルサレムにとどまれば、聖霊を受ける」などです。ガリラヤで会えるなら、ガリラヤに行かなければなりません。そうすれば会えるのです。神の約束を信じて行動するのです。キリストの約束に従えば会えるのです。生きているキリストに出会える。神に出会える、それは楽しいことです。
このレントの旅(復活祭への旅)は終わりましたが、信仰の旅が終わったわけではありません。今度はペンテコステへの旅になります。ペンテコステに向かっての聖書朗読表を新しく作りました。キリストが信仰のスタート地点で待っておられるのは、もう一度彼らと共に旅をするためだと思いました。最初の旅ではみんな、イエス様のことがよく分かっていませんでした。今年のレントの旅はどうだったかと思います。昨年と違い、いろんな気づきがありました。イエス様をまた少し知りました。
●イエス様に香油を注いだ時、弟子たちは「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と怒りました。失礼な話です。イエス様に献げたのに無駄だというのです。この時点になって弟子たちの心が顕わになりました。自分の役に立つか、立たないかでイエス様を見ていたということなのです。イエス様はもう自分を喜ばすための物になり下がりました。ユダの事が出て来ました。ユダの罪とはキリストの愛や恵みに満足せず、与えられた教え、聖パン、聖霊、奇跡、キリストの愛のすべてを無駄にし、偶像に走って行ったということです。ユダは偶像崇拝をしたのです。罪とはギリシャ語では「的をはずす」という意味です。神という的を外して生きるということです。私たちはいつも何かの過ちをしたとか、しなかったとかでくよくよ悩みます。しかし罪は本来神に関することであり、神に向かって犯すものです。つまり神を神として本当に愛せない、神の言葉を神の言葉として聞けないということなのです。もっとも尊い者が分からない、最も尊いことに命を使えないということなのです。自分を救えない者にお金をかけ、時間を用い、心を注ぐということなのです。すなわち、十戒の第一戒「私の他に神はいない」という戒めを守れないということです。この神に対する無知こそ最大の罪です。頭で神を知っていても、そのように生活していなければそれは知らないのと同じです。永遠の命が「神とキリストを知ること」であるなら、滅びとは「神を知らないこと」なのです。ああ、人間は何と無知になり、暗まされ、見えなくなったのでしょう。ここまできて罪の本性が現れました。やっと罪が見えました。キリストはユダの罪を何も指摘しません。キリストが黙って静かにそこにおられるだけで、人間の罪がどんどん現れてきてしまいました。人がキリストをどのように扱うのか、人がキリストの言葉をどのように聞くのかで、その人の罪が顕わになるのです。「私は誰をも裁かない。ただ私の語った言葉が来世で、その人を裁く」と主は言われました。ああ、何と恐ろしいことでしょう。恵みはただではないのです。あなたはキリストをどのように扱っていますか。神の言葉をどのように聞いていますか。聖なるものを聖なるものとしていますか。王を王のように扱っていますか。
あなたは自分の隣にいる方が誰であるか知っていますか。共に旅をしてくださっているキリストが少しは見えるようになりましたか。キリストの言葉がどれだけ耳に入りましたか。初めから何度も旅を繰り返す意味は、このキリストを知るためなのです。
●あるカナダ人シスターの妹さんは、ある人と結婚し、毎晩、指輪に接吻しては神様の前に立てた誓いに生涯誠実であるように祈っていました。初めて子どもを身ごもった時の喜びはたとえようもありませんでした。けれども、日がたつにつれて、その子が脳の無いという重い障がいがあることが分かってきました。医者は、誕生と同時に死ぬ運命にある胎児を中絶するのは、母胎を守るためにも必要であると繰り返し勧めました。しかし彼女は動じることなく、わが子の命がある限り胎内で守り育てる決意があると答えました。ただ医者になった姉に出産に立ち会い、生まれた子に、その場ですぐ洗礼を授けてほしいと頼みました。ついにその時が訪れ、誕生した子は洗礼を受けると同時に息を引き取ったのです。わが子の対面することも、胸に抱きしめることもかなわなかった母親は、こう言いました。「私が生涯を終えて天国に入る時、『ママ』と呼びながら真っ先に私を迎えてくれるのはあの子です。この世の初めから終わりまで、全人類の中で、私以外にあの子を産んだ母親はいないのですから」と。
彼女は、洗礼によって神様の手にこの子を委ねたのです。洗礼は神様と一体になる儀式です。その子はこの世では命は数分だったでしょうが、神の手に抱かれて永遠に生き始めたのです。イザヤは言いました。「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となる…若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:3、5)これは遠い昔の話ではありません。また、未来の約束でもありません。皆さんの上に既に始まったことなのです。洗礼を受け、キリストに結ばれた人はその時から永遠に生き始めたのです。復活とは、キリストと一体になることだからです。
サクラの時期に散歩をすると、とても気持ちがいいものです。桜吹雪の中を歩くととても美しいです。この時期は新芽が出て、いっせいの命が輝き出します。人も動物も空の鳥も生き生きとしています。ああ、命っていいなあと思います。神様はこの世をくださり、永遠の命をもくださいました。命はいい。生まれて来て良かったと思います。死の終わり、命の始まりを祝いましょう。