2017年4月9日(日)主日礼拝説教
『なぜ、私をお見捨てになるのか』井上隆晶牧師

詩編69篇20~27節、マルコ福音書15章22~39、46~47節

❶【すべては預言されていた】
イエス様は午前九時に十字架に架かり、午後三時に息を引き取ります。イエス様の十字架の場面はたんたんと書かれていますが、不思議なことにこのことはすでに旧約聖書の中に預言されています。兵士たちはイエス様を十字架につけてからくじ引きをして、その服を分け合いましたが、これはこう書かれています。「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしの体を、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:17~19)
そこを通りかかった群集は頭を振りながら「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:43)といいますが、これはこう書かれています。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」(詩編22:8~9、詩編109:25)まったく同じです。
ユダのことはどうでしょうか。「わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり、神殿の群集の中を共に行き来したものだった。」(詩編55:13~15)「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。」(詩編41:10)
酸いぶどう酒のことはどうでしょう。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(詩編69:22)
詩編はイエス様の十字架から600年ほど前に書かれたものです。彼らは皆この通りにしていきました。祭司長たちは詩編を読んだことがなかったのでしょうか。いいえ読んでいました。しかし読んでも自分のこととして読んでいませんでした。ただ人は何も知らずに、神の歴史の舞台に組み込まれ役をさせられるのです。神は悪人には悪人の役をさせ、善人には善人の役をさせます。善人か悪人になるかは神が決めるのではありません。あなたが自分で決めるのです。神はただ御自分の歴史のシナリオを完成させるために、役者を選ぶだけです。礼拝堂で詩編を読んでいると、時間と空間が2000年前に戻り、2000年前に神を呼び求めた人たちの祈りと一つになってきます。2000年前の神も、今の時代の神も同じ神であって何の変わりもありません。私たちは時間と空間を超えて同じ神に祈ってます。イエス様も同じ詩編を読み、同じ父なる神に祈りました。神にとっては千年は一日であり一瞬でしょう。神は2000年間を支配され、今も未来も支配されています。神は生きておられるからです。聖書は過去を予言しただけでなく、未来の救いを予言しています。過去がその通りになったように、未来も必ず書かれている通りになります。賢い者となって神の言葉を畏れ、重んじなければなりません。あなたのことも予言されているからです。

❷【全地は暗くなった】
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マルコ15:33)昼の12時から3時まで全地は暗くなりました。太陽は光を失い、暗闇が地上を覆いました。このことも預言されています。「愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(詩編88:19)弟子たちは皆イエス様から去ってしまい暗闇がイエス様を覆いました。旧約のアモス書にも預言されています。「その日が来ると、と主なる神はいわれる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。」(アモス8:9)真の太陽であるキリストが、今沈もうとしています。それを見て、被造物の太陽は暗くなり、この方こそ真の太陽であることを証ししました。人間の罪は極みに達し、ついに神の子を殺します。太陽の光を覆いつくすほど人間の罪は世界を覆いました。この暗闇はこの世界の終わりを象徴しています。こうやってすべては最初の混沌の状態に帰ります。しかしこの暗闇の中で神は新しい創造を始めようとしています。「誰がこのようなことを聞き、誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれた。」(イザヤ66:8)

❸【なぜわたしをお見捨てになったのですか】
午後三時ごろにイエス様は大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。父なる神様とイエス様とは一体であり、決して分離することのない親子のようなものです。その父親に今、御子は捨てらました。なぜイエス様はこの祈りをされたのでしょう。今までいろんなことが言われて来ましたが、二つだけ考えてみました。
(1)≪すべての見捨てられた人と共にいる≫
「なぜわたしをお見捨てになったのですか」この叫び声は全人類を代表した叫びです。イエス様は神から見捨てられるという災いをも身に負っておられます。こうしてイエス様は全ての見捨てられた人と共にいてくださいます。この祈りは偉大な神秘です。実際は人間が神を捨てたのであって、神は決して人間を捨てられません。実に神様の名前は「神は我々と共におられる」だからです。だから正確にいうなら神に見捨てられたと思うような時も、キリストはあなたと共にいてくださるというのです。死とは命である神から最も遠い所です。そこにもイエス様は人間と共にいてくださいます。地獄の人を天に連れて行くために、彼は地獄に行かなければ、つまり捨てられなければならなかったからです。
●「シンドラーのリスト」という映画があります。オスカー・シンドラーという人が1500人のユダヤ人を自分の工場に引き取って囲い、助けた実話です。それと同じ時代に、ヤヌシュ・コルチヤックという人がいました。本名はヘンリック・ゴールドシュミットといいます。彼は教育家であり、医者であり、作家でもあったポーランド系ユダヤ人でした。彼は勤めていた病院を辞め、孤児院を始めます。彼が子どものころ、馬車に乗って学校に行こうとすると、馬が雪の吹き溜まりの中に入り動かなくなりました。御者はムチで激しく馬を叩きました。コルチヤックは馬がかわいそうになり止めるように言うと御者は彼に言いました。「そんなに優しい心を持っているなら馬車から降りろ。馬は少しは楽になる。」彼は「私は本当に恥ずかしくなった。この日のことは生涯忘れられない。分からないなら口出しをするな。手助けをしないなら文句をいうな、批判するな。」この体験があったので彼は孤児院を始めたのです。そこに戦争孤児、病人や障がい者の家の子ども、受刑者の子ども、革命家の子ども、売春婦の子ども、その他さまざまな問題をかかえた子どもを集めます。彼は30年間彼らと共に生活します。1942年8月、コルチャックは子どもたち192名と職員10名と共に、トレブリンカ絶滅収容所に送られます。多くの人がコルチャックの助命運動をしました。世界的に教育者として著名であったのでナチスも特赦を認めました。しかしコルチャックはこの特赦を断り、ガス室に送られ死にました。
溺れる人を助ける人は、同じように溺れるかもしれません。線路に落ちた人を助けようとする人は、同じように引かれて死ぬ覚悟が必要です。助けを求める人の手を離さないということは、その人と同じ運命をたどることになるのです。人と運命を共にするキリストの姿とだぶります。
(2)《あなたが拾われるためである》
イザヤ50章10節にはこう書かれています。「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩く時も、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」真っ暗闇の中でもイエス様は父を信頼していたと書かれているのです。今までは御子イエス様が父を呼べばすぐに答えてくれました。ところが今は、御子が父の名を呼んでも答えはありません。叫んでも顔を背けます。耳を覆い、聞こうとしません。詩篇はそのイエス様の気持ちをこう預言しています。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えて下さらない。夜も黙ることをお許しにならない。…私を遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。…あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる。」(詩篇22:1~3、12、16)キリストは確実に捨てられたのです。なぜでしょう。それはあなたが拾われるためです。神様は自分の独り子であるイエス様を捨てて、捨てられていたあなたを拾われたのです。
イザヤははっきりと預言しています。「彼の受けた傷によって、私たちは癒された。…私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5、6)
こうして、生きるはずの者が死んで、死ぬはずの私が生かされました。捨てられるはずのない者が捨てられて、捨てられて当然な私が拾われたのです。あなたを救うために、父と子はあなたとどこまでも関わられたということなのです。キリストが死ななかったら、あなたが死んでいたのです。キリストが裁かれなかったらあなたが裁かれていたのです。キリストが捨てられなかったら、あなたが捨てられていたのです。だた、敬意をもって、父と子の苦しみにひれ伏してください。あなたを救うために、父は御子を捨てるしかなく、イエス様は父に捨てられるしかなかったのです。

❹【イエス様の最後と葬り】
イエス様は大声を出して息を引き取られますが、これは「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)という言葉であったことがわかります。英語ではIt is finished!です。神がご自分の救いの御業を完成したという意味です。「息を引き取る」とありますが原語は「息を吐き出す」です。息は「プネウマ」です。霊です。十字架の上からイエス様は全世界に命の息吹、聖霊を吹きかけます。「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる。」(詩編104:30)万物を新しくするためです。イエス様の流された血は、呪われた大地の上に染み込みます。こうして大地の呪いは終わりました。神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました。この垂れ幕には天使ケルビムの刺繍がしてありました。それはエデンを守っていた天使ケルビムがキリストの死によって退けられ、エデンの園が再び開いたことを教えています。百人隊長は信仰を告白します。十字架は恐ろしく、悲惨ですが、何か不思議な温かさを感じます。絶望ではなく希望を感じます。死ではなく命の香りがします。闇ではなく光を放っています。古い者ものの終わりと、新しいものの始まりを感じます。
●散歩をしていると、この世は神がいないのを感じます。誰も彼も神を無視して生きています。神がいなくても生きられますし、普段の生活に何の差し障りもありません。キリストが十字架にかかっても自分とは何の関係もないと思っています。自分には罪はないし、二千年前の一人の人の死は自分とは関係ない、頼んだわけでもないのにと思い、花見に遊びに飲み食いと仕事に出かけます。キリスト教?それは西洋の宗教だといわれます。このような世に、一体神を伝えることが出来るでしょうか。神は生きていないのでしょうか。
●「夜と霧」の著者のユダヤ人精神科医のV・フランクルは、アウシュビッツ収容所に入れられましたが、ある日、突然愛する妻の顔がはっきりと目の前に浮かび、後で、あの日が、妻が処刑された当日であったことを知りました。彼はその時、「愛は死よりも強い」ということを悟ったと書いています。

「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいた。」(マルコ15:46)すべてが終わり、イエス様も眠られます。眠ることなくまどろむことのない神が、死という人間の眠りによって休まれます。休む必要のない方が眠るのは意味があります。それは人間の死の意味を変えるためです。面白い事に、復活した時イエス様は「おはよう」と言われました。だから死は滅びではなく眠りに変えられたのです。フランクルに苦難が襲ったように、神は人間をこの世の苦しみから解放しませんでしたが、死の中で解放してくれるのです。救いは死の中にあります。神は墓の中に入り、内側から天使を使って石をどかします。神はどんな行き詰まり、限界の中にもいてくださいます。こうして死の崩壊は外側からではなく、内側から始まるのです。この世では見れませんが、来世で目覚めた時にはっきりと分かります。「目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」(詩編17:15)罪と死がもうキリストによって解決されたのです。そこに希望があります。十字架によって万物は命を吹き返しました。まさに十字架は命の木となりました。私たちはこれによって永遠の命、不滅に与れるからです。死んだような、希望のないこの世に、その希望を語ってゆきたいと思います。