2017年3月26日(日)主日礼拝説教
『マリアとユダ』井上隆晶牧師

マタイ福音書26章6~16節、マタイ福音書27章3~5、9節

❶【マリアの香油注ぎ】イエス様の十字架の前に、マリアとユダ、この二人はセットのように聖書に登場してきます。それは人間の二つの生き方を教えているようです。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」(6~7節)ヨハネはこの女はラザロの姉妹マリアだと書いています。(ヨハネ12:3)マリアのこの常識を超えた行為に驚いた弟子たちは「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(8~9節)と憤慨しました。マルコはこの香油は300デナリオンの値打ちがあると書いており、ヨハネはユダが言ったと書いています。300デナリオンとは、一年分の賃金に相当する額です。マリアはなぜ、イエス様の頭にそんな高価な香油を惜しげもなく注いだのでしょうか。それはイエス様が自分たちのために死ぬ覚悟をされているのを知り感謝をこのような形で表したのだと思います。イエス様が何度も「自分は必ず死ぬ」と言っておられたのに、弟子たちは誰も本気で聴いていませんでした。それどころかイエス様がエルサレムに上って王国を再建して下されば、自分たちも大臣になれると思っていました。誰もが自分の夢(偶像・理想像)を追い求めるのに必死だったのです。だから弟子たちはイエス様の話をまじめに聞いていませんでした。そのような弟子たちの中で唯一、静かにイエス様の話にじっと耳を傾けていたのがマリアでした。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」(ルカ10:39)とあります。マリアは何度も聞いてイエス様の死を悟ったのです。
しかしそれが同時に葬りの準備になりました。マルコ福音書を見るとこう書いてあります。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。…この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(マルコ14:6、8)「この人はできるかぎりのことをした」とイエス様は言われました。マリアは死出の旅に出るイエス様に、今自分は何をしてさしあげられるだろうかと考えたのです。日曜日の朝、婦人たちが香油をもって墓に行きますが、墓は空でした。だからマリア以外にイエス様に香油を注いだ人はいないのです。彼女は死者に香油を塗ったのではなく、生きているイエス様に香油を塗りました。彼女は「イエス様が生きることを預言」したのです。キリストの死に対する勝利をこの香油は象徴しています。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(13節)と主は言われました。マリアがしたことは、キリストが私たちにしてくれることのひな型なのです。イエス・キリストは自分の体を十字架の上で壊し、自分の持っているすべてを人類に注いでしまわれました。キリストは人を愛する時に、愛と命の調節、赦しの出し惜しみなどしません。全部を人に注がれます。神の愛と赦しはあなたのどんな状態、条件をも超えています。むしろ私たちの方がこだわっています。「こんな私など愛されない」と思っています。神は人が信じられないことをされるのです。あなたは今までこのような愛で愛されたことがないので分からないのです。そういう愛、そういう赦しというものがこの世にないので分からないのです。神の愛は想像を超えています。赦しと命の洪水が私たちに流れてきます。私たちのこのちっぽけな命や死など飲み込まれてしまうでしょう。「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)とヨハネは伝えています。この家には以前はラザロの死臭がただよっていました。そこに香油の香りが満ち、死臭は消えてしまいました。これこそキリストが私たちにしてくださったことなのです。この世の死は、キリストの命に飲み込まれ、この世は愛と赦しと命という香りで満たされたのです。

❷【ユダの愚かさ】マリアに対する者として聖書はユダを登場させています。ユダはなぜ裏切ったのでしょうか。何が彼を狂わせたのでしょうか。教父たちは口を揃えて「貪欲」のせいであるといっています。祈祷文ではユダの事を「ユダは貪りの病によって暗くなった、…満足することをしらない魂よ」といわれています。ユダの愚かさとは何でしょうか。
⒜彼の愚かさの一つ目は「自分の夢に執着した」ことです。ユダは聖餐をいただいた手で銀貨に伸ばし、洗われた足をもって祭司長たちのところに走って行きました。彼はイエス様の教えでは満足できなかったのです。ユダが裏切ったというより、ユダはイエス様に裏切られたと思ったのではないでしょうか。自分の夢や願いがかなえられると思うから、辛くても頑張って来たのです。ところがイエス様は、病人や貧しい身分の低い人とばかりつきあい、いっこうに改革に腰を上げません。エルサレムに入場したと思ったら、死ぬと言い始めます。いつまでたっても王にならないのでユダはイライラしたのです。彼はイエス様を窮地に追い込めば、奇跡を行ってローマ軍を追い払い、エルサレムに王国を実現させてくれると思ったのです。ユダは、自分の夢をかなえるためにキリストを利用しようとしたのです。
⒝彼の愚かさの二つ目は「御言葉を本気で聞いていなかった」ということです。もしキリストの言葉をしっかり聞いて信じていたら自殺しなかったでしょう。ユダよ、あなたは三日も待てなかったのですか。三日待てば復活したキリストを見ることが出来たのに。あなたは普段から、御言葉をどうやって聞いていたのですか。あなたはこの世と来世の二つの命を失いました。
⒞彼の愚かさの三つ目は、自殺という方法で過ちの処理しようとしたということです。彼はあまりにも立派で、賢すぎます。ペトロのように泣くことが出来たらよかったのにと思います。ここに、この世の逆転があります。強い者は神の国に入りにくいのです。賢い者、自分の力を信じている者、プライドのある者ほど、絶望するのも早いのです。自分に頼ったからです。ユダの罪は、自殺をしたことではありません。キリストに絶望したことです。
ユダは御言葉を聞こうとしませんでしたが、マリアは御言葉に聞き入りました。ユダは自分の夢に仕えましたが、マリアはキリストに仕えました。ユダは自分に頼り絶望しましたが、マリアはキリストに希望を持ちました。すべての他の弟子たちもユダと同じ罪を犯しました。ただ三番目の罪だけは犯しませんでした。彼らは破れたままキリストの前に立ったのです。そこに救いがありました。

❸【キリストの十字架を見よ】私たちの目の前に、十字架につけられたイエス・キリストが立っておられます。それをいつも見つめなければなりません。イエス様の十字架、これはあなたの罪を証ししています。十字架は私たちに罪があること、私たちが罪人であることを思い出させてくれます。それによって傲慢な思いは消え去るでしょう。あなたも使徒と同じ様に敗れたまま十字架の前に立つのです。その時、この方から赦しと命が光のようにあなたの上に降り注いでいるのに気づくでしょう。それによってあなたは絶望から救われることが出来ます。罪と救いの二つをこの十字架は教えているのです。
私たちは祈る時、簡単に祈りがきかれると思ってはなりません。神様は罪人の祈りはきかれません。義人の祈りしかきかれません。皆さんは義人ですか。私は間違いなく罪人です。ゆえに罪人の祈りがきかれるためには、どうしても犠牲が必要なのです。「あなたは…何も持たずにわたしの前に出てはならない。」(出エジプト23:15)とあるとおり、何も持たずに神の前に出たり、何も持たずに祈ってはいけません。本来、神様の前に出る時には犠牲の献げ物をしなければなりませんでした。献げ物をして、その煙が天に昇るのを見て、祈りや願いをささげたのです。「私の祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受け取り下さい。」(詩編141:2)。私たちのための犠牲の供え物はイエス様です。十字架です。ゆえに神の前に立つ時、イエス様を通して立たなければ、神の前に立つことは出来ません。祈る時、十字架のイエス様を前にして祈らなければ、父なる神の元へは祈りは届きません。だから十字を画くのです。神父と私たちの間には、どうしてもイエス様という仲介者が必要なのです。十字架は父なる神と私たちの間に架けられた唯一の梯子なのです。

❹【子供のようになって、キリストを通って天に行こう】
「子供のようにならなければ、決して天国に入ることは出来ない。」(マタイ18:3)とイエス様は言われました。子供のようになるとは、自分を小さくし、無知な者、ふさわしくない者、偉くない者、弱い者、何も持たない者になりなさいということです。自分は神様の憐れみがなければ生きれない者であることを知れということです。
●先日、精神科医の服部祥子さんから「ひきこもり」をテーマにしたお話を聞きました。人の一生を舞台の三幕に分け、子供の時間、思春期、大人の時間にわけ、人生を航海に譬えたお話はとても勉強になりました。その中で、子供の時間がとても大切であることを知りました。マルチン・ブーバーは『初めにかかわりがある』といいましたが、ヒトが人間になるためには、絶対的な依存が必要だといいます。赤ん坊は一人では生きれません。自分一人では解決できない死の問題を、親という他者によって解決してもらうのです。泣いては抱かれ、泣いては抱かれることによって基本的信頼、基本的安定が生まれるのです。先生は包まれた子は幸いであり、包んだ大人は幸いだといわれました。
信仰も同じなのです。自分一人では解決できない罪と死の問題を、キリストによって解決してもらうのです。

●奈良の東大寺の大仏殿に行くと、大仏の後ろに柱があって、その柱に穴が開いています。大仏の鼻の穴と同じ大きさだといいます。その穴をくぐり抜けると元気でいられるというので子供も大人たちも順番を待って四つん這いになり、寝そべってくぐり抜けています。私も一度くぐったことが有ります。もちろん荷物など持っていたらくぐり抜けられません。すべての荷物を置いて体を低くして抜けるのです。
天国に入る門もそれと同じです。この世に全ての物を置いていかなければなりません。赤ん坊がお母さんの産道をくぐってこの世に来たように、天国に生まれる者も、同じようにイエス様という狭い門、狭い穴をくぐって生まれるのです。この世と神の国への唯一の門、唯一のパイプはイエス様なのです。飾りも、知識も、身分も、学歴も、持ち物もすべてを捨てて入るのです。この世のものでぶよぶよしていたらくぐり抜けられません。この話の後に、金持ちの青年が出て来ます。彼はお金をたくさん持っていたのでそれがじゃまで天国に入れませんでした。この穴の向こうに溢れるような命と光が待っています。死は失うことではなく、新しいものを得ることなのです。命を得るために、命ではないものを手放すのです。
キリストの十字架は私たちにそれを見せてくれます。自分の罪と愚かさを知って、何も持たず破れたままで十字架の前に立つのです。自分では解決できない罪と死の問題を十字架は解決してくれます。その時、十字架のキリストから命と光をあなたは受けるのです。