2017年3月19日(日)主日礼拝説教
『神が喜ぶのは聞き従う者』井上隆晶牧師

列王記上9:4~9、マタイ21:28~32

❶【神は神殿を捨てると言われた】
ソロモンは神殿に7年を、王宮に13年を、合わせて20年の歳月をかけてそれらを建築しました。彼は40年間王位にいましたからその半分になります。莫大な費用がかかったと思います。彼が造ろうと望んだものがすべて出来上がり、念願を果たした時、神はソロモンに現れこういわれました。
「もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いの嘲りの的となる。この神殿は廃墟となり、そのそばを通る人は皆、驚いて口笛を鳴らし、『この地とこの神殿に、主はなぜこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう。…」(列王記上9:6~8)
出来たばかりのピカピカの巨大な神殿を前にして神様は、もしお前が無垢な心で正しく神の前を歩き、その戒めを守るなら、この神殿に私の名を置き、目を向け、心を寄せる。しかしもしお前や子孫が神を離れ偶像に仕えるなら、この神殿がいくら立派でもわたしはこれを捨てて廃墟にすると言われたのです。これを聞いてソロモンはどのように思ったでしょうか。教会でも、新しい会堂が立つと献堂式というのをします。いろんな人がお祝い言うためにやって来て苦労をねぎらい、祝福を祈ります。その席で、「あなたが偶像を拝むなら、この立派な聖堂は神に捨てられる」と言ったらどうでしょうか。ヒンシュクをかうことでしょう。人は立派で大きくて輝くものを見て、まさかここが廃墟になどなるわけはないと思うでしょう。しかしこのことは嘘ではないと思います。
事実、この都島教会がそうでした。私が来た頃は人はもうほとんどいなくなり廃墟寸前でした。その他にも大阪教区の中にもそのような教会がいくつもあります。ヨーロッパの教会もそうだといいます。この主の言葉が真実なら、偶像を拝んだとということになるのです。目に見える偶像は拝んでいないとしても、知らない内に神以外のもの(人や物等)を頼っていたとするなら、それが偶像になるのです。私はこの箇所を読んだ時「恐ろしい」と思いました。もう一度、私たちは本当に神を頼りとしているかを点検しなければなりません。自分の心の中にもしかしたら偶像がゴロゴロしているのかもしれません。神以外のものを慰めとし、頼りとしているものを見つけたら捨てなければなりません。 パソコンの画面の左上に「ゴミ箱」というアイコンがあります。その中に要らないファイルなどは捨てるのですが、完全に消去しなければいつまでも残っていて、また元に戻すこともできます。完全に消去するという作業が必要なのです。神殿が完成し、すべての願いがかなった時に、神が現れて警告をされたということが重要だと思うのです。「私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。」とはっきり言われました。神様はどんなにお金がかかっていても、どんなに貴重で高価で立派なものでも、大きなものでも捨てると言われます。神様はお金にも物にも縛られません。まことに自由です。私たちだったらどうでしょう。捨てられますか。もったいないなあ、残しておいて何かに使おうかなと思ってしまいます。人間はこのように物に縛られるのです。
神様が欲しいのは、金銀の財宝でも、黄金に輝く巨大な教会でもありません。何百万円もする高価なオルガンでもありません。神様がお喜びになり、求めておられるのは、神を求める心、神の戒めに従う心です。人は目に見える神殿の建築には実に熱心ですが、目に見えない内なる神殿の建築に関しては手を抜きます。命の入っていない巨大な建物とはいったい何の役に立つのでしょうか。

❷【神が喜ばれるのは聞き従うこと】
新約聖書のマタイ21:28~32に面白い例え話が出て来ます。ある人に二人の息子がおり、父は兄に「ぶどう園に行って働きなさい」というと、「嫌です」と答えますが、考え直して出かけました。弟にも同じ様に「ぶどう園に行って働きなさい」というと、「承知しました」と返事は良かったのですが、出かけませんでした。イエス様は「どちらが父の望みどおりにしたか」といいます。もちろん兄の方です。いい返事をしても行かなければ何にもならないのです。神は素直に従うことを求めておられるのです。ヤコブも「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2:17)と言っています。聞くだけでは何の力にもなりません。説教を聴いても、聖書を読んでも、実行しなければ意味がないのです。「絶えず祈りなさい」と聞いて、ああいい言葉だと感心しても、祈り始めなければ何になるでしょう。Y姉は先々週の説教を聴いて「イエスの名の祈り」を実践していますといわれました。若い魂だと思います。榎本牧師が「朝の5分があなたを変える」と聞いて、早速早天祈祷会を始めました。私もそうしようと思い、祈りを始めました。旧約聖書の中で、サウル王は戦利品の内、つまらない値打ちのないものだけを滅ぼし尽くし、最上のもの、肥えた動物、上等なものは神への供え物にしようと惜しんで滅ぼしませんでした。その時預言者サムエルは彼に言いました。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22)
神様が喜ばれるのは、神の言葉に耳を傾け、それに従うことなのです。従いきれないとしても、従おうと努力することなのです。もともと、私たちの力では神に従うことなどできません。ですから神の前で「出来ないのです。従う心をください」と祈ればいいのです。ダビデとソロモンの違いがどこにあるかお分かりですか。ソロモンは外国の女性を愛し、そのとりこになりました。神は何度も現れ、罪を戒めましたが、彼は守ろうとしませんでした。ダビデもバテシェバの美しさのとりこになりましたが、彼は悔い改め、罪(自分の弱さ)と戦いました。罪から離れられない自分と戦わなかったことがソロモンの悲劇でした。

❸【私たちは恵みを受けるのにふさわしくない、それなのに…】
●3月14日(火)にK兄の手術が無事に終わりました。肺の三分の一を切らなければならないといわれたのが、開いてみると思ったほど患部は大きくなく、転移もしていなかったので五分の一を切るだけでよかったといいます。それを電話で聞いて「神様は憐れんで祈りを聞いて下さった」と感じました。そして私たちのような罪深い者、汚れた唇の者の祈りを聞き届けてくださったと思い、うれしくなり涙が出てしまいました。K兄はもう4回目の手術です。本人も相当落ち込んでいました。なぜ、自分ばかりと思うでしょう。先の事を考えると暗くなり、不安になることででしょう。でも、神様はこの苦難の続く夫婦の祈りを聞いてくださいました。先週の日曜日、礼拝に来ておられなかったH姉とMちゃんをお尋ねしました。玄関でお祈りをし「バイバイ」というとMちゃんは泣き出しました。来てくれたことが嬉しかったのでしょう。帰って欲しくないのでしょう。障がいを負ったMちゃんは自分の感情を表現するのは上手ではないと思います。それでも嬉しく思い、悲しく思うのです。生きるのに一生懸命なのです。H姉も育児をするのに精一杯でしょう。普通の人のような喜びは味わえないかもしれません。礼拝に来るだけで精一杯なんだなあと思いました。私たちの仲間は試練と重荷でいっぱいです。病と闘い、障がいを負ってと歩き続けています。

先週読んだ聖書の箇所に、カナン(外国)の女の人の話が出て来ました。カナンの女の人は娘の病を癒してもらうためにイエス様に向かって「主よ、わたしを憐れんでください」と叫びながらついていきました。もうそれだけでもすごいことです。叫びながら祈ったことがありますか。叫びながら歩いたことがありますか。それでもイエス様は彼女の願いを聞こうとされませんでした。「主よ、どうか助けて下さい」と言っても、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と冷たい答えが返ってきました。犬と呼ばれたのです。ところが彼女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイ15:27)といいました。その時、イエス様は「あなたの信仰は立派だ」といわれ、娘の病は癒されました。彼女は自分を犬と呼ばれても腹を立てず、自分が恵みをもらうのにふさわしくない者であることを認めました。だからこそパン屑の恵みだけで十分ですと告白したのです。この後の4千人の給食でパンの屑は十分残りました。外国人の上に与えられるためです。それに比べ、弟子たちやユダヤ人たちは高慢になり、パン本体であるイエス様を捨てたのです。願わくは私たちにカナンの女の人の霊が与えられますように。自分の罪が見え、恵みを受けるのにふさわしくない者であることが見えますように。同時に、その上に降り注ぐ雨のような神のたくさんの憐れみと恵みに気がつきますように。
詩編の38篇にこんなところがありました。「私の肉にはまともなところもありません。…骨にも安らぎがありません。私が過ちを犯したからです。私の罪悪は頭を越えるほどになり、耐えがたい重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。私が愚かな行いをしたからです。私は身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。腰はただれに覆われています。私の肉にはまともなところもありません。」(詩編38:4~8)これを読んだ時に、これは実は私たちの霊的な意味での本当の姿なのではないかと思いました。「私の肉にはまともなところもありません」が二回も出て来ます。神様、私たちをご覧ください。まともな人は誰もいません。傷だらけです。しかしこれがあなたが選ばれた人たちなのです。でもこのことが見えてくるというのは恵みだと思います。私は、この詩編とカナンの婦人の話を聞いた時、自分がいかに恵みを受けるのにふさわしくない者であったのかということに気がつきました。その時、すべては恵みであったのだということに気がつきました。目が見える、耳が聞こえる、歩ける、呼吸ができる、言葉がしゃべれる、手が動かせる、家に住める、食事がおいしくいただける、友がいる、子供が与えられる、信仰が持てたこと、礼拝が出来ること、一切が恵みであったのだということに気がついたのです。罪人の祈りを聞かれる神がどれほどありがたいかお分かりでしょうか。私たちは毎日罪を犯しているのです。本来なら、祈りがきかれるような生活はしていません。それなのに神様は一方的に私たちを憐れんでくださいました。この神の赦しと憐れみに私たちは圧倒されます。神は罪を犯した天使ではなく、罪を犯した弱い人間を救うために来て下さいました。そして十字架にかかり、恵みを無駄にしてしまう私たちの為に罪を負って下さり、赦してくださいました。主は私たちの仲間を助けて下さいました。感謝です。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救って下さった。」(詩編34:7)とあるとおりです。罪人の祈りを聞かれる神がどれほどありがたいか、この神の赦しと憐れみの大きさに感謝したいと思います。