2017年3月12日(日)主日礼拝説教
『荒野の誘惑』井上隆晶牧師
詩編91篇9~16節、マタイ福音書4章1~11節

❶【今は恵みの時である】
受難節(レント・大斎)も二週間が過ぎました。祈祷書の中で「地上に生まれた者の生命は一日であるといわれる。愛をもって苦労する者のためには40日の断食がある。」という祈りが出てきます。詩編の中にも「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい夕べにはしおれ、枯れていきます。人生はため息のように消え失せます。…瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90:4~10)とあります。私たちの生涯は一日にたとえられています。夕べにはしおれ枯れるのです。もうそろそろしおれ始めています。あっというまに人生は終わるでしょう。そしてこの受難節もあっという間に終わるでしょう。私たちの中には受難節であるということを何も知らずにのん気に復活祭を(すなわちキリストの輝く来臨)を迎える人もいるかもしれません。その時、「あなたは何をしていたのか」と王に問われるでしょう。このレントの50日間は実に人生のひな型なのです。このレントの時に変わらない者は、結局一生何も変わらずに終わるでしょう。なぜなら私たちは自分の力では変われないからです。神に向き合う時のみ変わることが出来るからです。この時期は神に向き合う恵みの時です。だからここで変わらなければあなたは変わらないでしょう。後、変わるとしたら苦難に会う時と、死の直前でしょう。淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生が言うように「人は生きてきたように死んでゆく」のです。だから、時があるうちに、光があるうちに祈りましょう。「今や恵みの時、今こそ救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのです。

❷【悪魔からの誘惑は避けられない。絶望しないこと。】
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、(聖)霊に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4:1)とあります。イエス様は聖霊に導かれて誘惑に遭ったということは、神様が誘惑に遭わせたということです。神様は誘惑に遭わせないように私たちを守り、保護するようなことはなさいません。ペトロも誘惑に遭いました。その時イエス様はペトロにこういいました。「シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」(ルカ22:32)そしてペトロは罠にはまり、穴に落ち、つまずきました。だから私たちも必ずふるいにかけられます。そして同じように穴から落ち、失敗し、倒れてしまいます。しかし失敗したとしても悲しんだり、絶望してはなりません。イエス様は倒れないように祈ったのではなく、信仰がなくならないように祈られました。信仰がなくなるとは、絶望してキリストの所に来なくなること、戦いをやめてしまうことです。だから倒れたら起き上がり、キリストの所に行って言うのです。「主よ、罪人の私を憐れんでください。私は敵に倒されました。どうぞ憐れな私を赦し、あなたの僕にしてください」。甘やかされている子供は転ぶといつまでも泣き、大袈裟に振る舞い、同情してもらったり、よしよしと撫でて慰めてもらおうとします。「なぜ、失敗したのでしょうか」と言ってもなりません。あなたは必ず失敗し、倒れるのです。絶望している暇があったら教会に来なさい。泣いている暇があったら祈りなさい。痛んでも気にしないようにしましょう。起き上がり、ほこりを払って再び闘い始めるのです。闘う者があちこち手傷を負うのは当たり前のことです。神がすぐにも助けないのは、自分の無力さを教え、キリストだけを頼ることを学ばせるためなのです。

●先日、依存症の勉強会で学んだことですが、酒をやめていた人が酒を再び飲んでしまう、または薬物をやめていた人が再使用してしまうと、主治医や仲間や家族を裏切ったと思い、会わす顔がない、見捨てられても仕方がないと思って、劣等感と自責感を強め、治療をやめたり、自助グループに行かなくなるというのです。それに対して西川先生は次のように言われました。「再発は必ずします。それを当然と思いなさい。そのような自分や他者とつき合い続けなさい。飲んだ時こそクリニックです。」それを聞いて罪も同じだと思いました。「罪を犯した時こそ教会へ」「絶望した時こそ教会へ」なのです。

❸【三つの誘惑】
キリストがあえて悪魔から試みられたのは、私たちに三つの誘惑があることと、その誘惑に打ち勝つ方法を教えるためでした。それはアダムがエデンで善悪知識の木を見た時の誘惑と同じです。「食べるによく、目に美しく、賢くなるには好ましい」(創世記3:6)誘惑です。
最初、悪魔はイエス様に石をパンに変えろといいます。しかし主は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)といわれます。人間の最大の悩みは「食べていけるか、つまり生きれるか」ということです。私たちは肉を満たせば満足すると思っていますが、そうではありません。ソロモンがそうでした。すべてを所有したソロモンは「空しい」といいました。そしてやがて彼は神から離れて行きました。次に悪魔はイエス様を神殿の屋根の上に立たせ、飛び降りて奇跡を見せろといいます。奇跡を見せれば、人はお前を信じるぞというのです。しかし主は「主を試してはならない」(7節)といわれます。最後に悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世の繁栄を一瞬に見せ、悪魔を礼拝するならこれをすべて与えると嘘をいいます。つまり悪と妥協し権力を得れば、人はお前に従うぞというのです。主は「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節)といわれます。イエス様がいかに人間としてとどまり続けたかを学びましょう。悪魔はけっしてメシアになることをやめさせようとしたのではなく、栄光のメシアになれと言ったのです。経済問題を解決する王(教会)として、奇跡を行う王(教会)として、この世の権力を得る政治的な王(教会)として人々を救えと悪魔はいうのです。悪魔は何とかして、キリストを「神」にさせたかったのです。エデンの園で悪魔がアダムに「神のようになれる」(創世記3:5)と誘惑したのと同じです。「神の子なら~命じてみろ」「神の子なら~をしてみろ」と悪魔は言います。それは十字架の場面でもそうでした。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:40)あのお方は一瞬にして食料を山ほど与えることも、奇跡を行うことも、全ての権威も彼に従うのですが、イエス様はこの道を退け、ただ僕として神に仕える道を選びました。私たちに主は言われます。あなたは神を神として人間にとどまりなさい。神を信じて僕になりなさい。愚か者になりなさい。それが悪魔に勝つ道です。

●かつてこの教会を去った人がこう言っているのを聞きました。「都島教会の人たちは程度が低く、彼らに学ぶことは何もない。それに比べて、Y教会はすごい。あそこの信者さんは聖徒だ。何をさせてもきちんとできるし、清く、立派な信者だ。」そうやって、その人は教会を去って行きました。最近このY教会がカルト化しており、既に弁護士が動いているというニュースが入ってきました。その人はこの悪魔の誘惑に引っかかったのです。
私たちは隣人を、特に主の体である兄弟姉妹を愛しなさいと命じられました。大教会だろうと、小さい教会であろうと、隣人を愛することは同じです。一人の隣人を愛せなければ、どこの教会に行っても同じです。そして、その隣人の中にキリストを見ること、これが私たちに与えられた使命です。一人の隣人を愛するということは至難の業です。一生をかけても愛することはできず、もうこれで十分ということはありません。

❹【四十日間の意味】
「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」(2節)とあります。神は絶対、空腹を覚えません。神はすべてに満ち満ちておられ、足りないということはないからです。でもそんな神様が肉体を取られて、肉において空腹を味わって下さいました。人間の弱さと限界を身をもって知って下さいました。だから私たちのことを分かって下さるのです。
この40という数字は試みの象徴数といわれています。イスラエルの民は40年間荒れ野をさまよいました。モーセは40日間断食しました。エリヤも神の山に行くのに40日の旅をしました。しかし彼らは苦難ばかりではなかったのです。イスラエルの民は多くの奇跡を体験し、神を知りました。モーセは神を見、十戒の板をもらいました。エリヤは神と出会い、神の声を聞きました。この40日間というのは、試練と共に、神を最も近く体験する時だったのです。苦しみと同時に、最も恵まれた時だったのです。

●柏木哲夫先生が、学生たちと一緒にした研究に「ストレスに関連した成長」というものがあります。一般にストレスはよくないもの、避けたいものと考えられがちですが、ストレスには人を成長させることがあるというのが、研究で分かってきたのです。ホスピスで看取った患者さんの遺族の約37%に、人間的成長に結びつくと考えられる積極的な変化がありました。それらは生活スタイルの変化、死への態度の変化、人間関係の再認識、生への感謝、自己の成長、宗教観の変化などでした。これはスタンフォード大学のケリー先生もいっています。「ストレスは人を賢く、強くし、成功へと導くことが分かっています。ストレスは避けられるものではありません。ストレスを避けようとするほど不安になり、うつになります。何かが起きた時「なぜ私にこんなことが起きたのか」と考えず、「何のために起きたのか」と考えるべきです。」

人が悪魔にもっとも近い時、実は人は神にもっとも近いのだということを知りましょう。聖書の中にも「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ1:13)とも書かれています。また詩編にも「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。」(詩編46:2)、「苦難の襲うとき、わたしが呼び求めればあなたは必ず答えて下さるでしょう。」(詩編86:7)、「苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。」(詩編91:15)と書かれています。試練というものの見方を変えるのです。試練は試練だけでやってきません。悪魔もあなたの近くにやってきますが、神はもっとあなたの近くに来ておられるのです。それを知って勇気を出し、神に出会う時としましょう。