2017年3月5日(日)主日礼拝説教
『イエス・キリストの名』井上隆晶牧師
フィリピ2章6~11節、ヨハネ福音書14章9~14節

今日は、お祈りについてお話をしたいと思います。
❶【神の言葉のもつ力について】
「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」(エフェソ5章3~4節)パウロはなぜ言葉についてこれほど厳しく言うのでしょう。それは言葉の持っている力というものを知っていたからです。現代人は言葉の力を知りません。心理学では、否定的な言葉を聞いた人はそのとおりの人になって行くといわれています。どうも人間には自分の耳が聞いた言葉に自分を合わせてゆく本能があるようです。
●脳にまで影響を及ぼす!「言葉のチカラ」で得られる成果
日本には昔から「言葉には魂が宿る」といった「言霊信仰」があります。つまり「話す人の思いが言葉に宿り、その言葉通りの現実を運んでくる」というものです。…こうした「言葉の持つ力」を医療の現場で実践した人がいます。脳神経外科を専門とする、日大医学部教授の林成之氏です。林氏は日大医学部救命救急センターで10万人以上の命を救った人で、北京五輪の際、競泳日本代表チームの選手たちに「勝つための脳」について講義を行い、北島康介選手の金メダル獲得など、結果に大きく貢献しました。その林氏が、日大医学部板橋病院で救命救急センターを立ち上げた時、医師・看護師・検査技師・事務担当などのすべてのスタッフに「3つの課題」を出しました。それは、「否定的な言葉を一切使わないこと」「明るく前向きでいること」「チームの仲間の悪口を言ったり、意地悪をしないこと」です。林氏は自身の著書「脳に悪い7つの習慣」の中で、「『疲れた』『もうこれ以上できない』『無理だ』などという否定的な言葉は、自分が言っても、他の人が言うのを聞いても、脳に悪い影響しか与えない。否定的な言葉に脳が反応して、目の前にやるべきことがあっても脳がマイナスのレッテルをはってしまう」と書いています。そこで彼は、救命救急のスタッフ一人一人に、どんなに切迫した状況でも「今、何をすべきか」を口に出して言わせました。また「難しい」と言う暇があったら「解決策を探す」ということを実践させました。そうしたことをする中で「脳低温療法」という治療法が生まれ、重症患者の脳機能を回復させることができるようになり、彼が在職中、瞳孔が開いた状態で運ばれてきた患者の内、約4割という非常に高い確率で社会復帰が可能になったというのです。…「言葉の持つ力」は、それほどまでに大きいのです。大変な時ほど「言葉のちから」を借りて、マインドアップを心がけて下さい。「プラスの言葉」は「考え方」をプラスに変え、「行動」をプラスに変え、そして「結果」をプラスに変えていきます。
だから何を語るかに気をつけ、何を聞くかに気をつけなければなりません。教会の中で聖書が声を出して朗読され、その神の言葉が耳に入って来るということがどれほど力になり、人の癒しになるかは証明されているのです。

❷【イエスの名の力】
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。…わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:14)とあります。ここを皆さんが読む時、願いがかなえられるという所に心が行くと思うのですが、実は大事なのは「わたしの名によって願う」という言葉なのです。同じヨハネ16:24を見ると「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられる。」と書かれています。ユダヤ教とキリスト教の違いが何であるかお分かりですか。ユダヤ教徒は「イエスの名」によっては決して祈りません。キリスト教徒とは、イエスの名を耐えず呼ぶ者たちなのです。パウロが迫害していた時「御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長から権限を受けた」(使徒9:14)と書かれています。この御名が父の名ではないことは明らかです。父の名を呼ぶユダヤ人は捕えられないからです。キリスト教徒たちはイエスの名を呼んだのです。この祈りでユダヤ教徒とキリスト教徒は区別されたのです。私はある本でこのことを知って驚きました。皆さんが何気なく呼んでいる「イエス」という名を呼んで祈るということはすごいことなのです。
このイエス様の名前を呼ぶことがいかにすごいかということは聖書の中に繰り返し書かれています。「天上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずく」(エフェソ2:10)「今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(フィリピ1:21)「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:21)、「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)などです。イエス様の名を出すだけで、悪霊は追い出され、病は癒され、心は清められ、人は救われるのです。そこで古代から、このイエス様の名前を繰り返して祈る「イエスのみ名の祈り」という祈りが行われ、現代まで続いています。
「イエス・キリスト神の子よ、私を憐れんでください。」とか「イエス・キリスト神の子よ、罪人の私を憐れんでください。」と唱えます。これは聖書の中で徴税人や盲人バルテマイが祈った祈りがモデルです。礼拝の中では「キリエ・エレイソン」と歌います。呼吸に合わせて祈るのですが、仕事をしている時も、歩いている時もいつでも祈りを繰り返すのです。19世紀のある農夫がこれを実践しながら巡礼した実話が本になっています。
●「たまに人に接することがあれば、たとえそれが親しくつきあっていない人であっても、非常に愛すべき人であり、まるで懐かしい自分の肉親でもあるかのように思われた。…心の中には時々えもいわれぬ快い暖まりと、気持ちよさを感じた。修道院の聖堂に行くことがあっても、その長い礼拝は、もとのように退屈などころか、むしろ短いように感じた。私の貧しい番小屋もまるで、豪華な邸宅のように思われた。…イエスの祈りをとなえていれば、その苦しみは全然感じず、…ひどく空腹を感じている時に、イエスのみ名に呼びかければ餓えも覚えないようになった。何か病気をしたり、足や背中がリューマチで痛むような時には、特にこの祈りをした。その痛みがすっぱりおさまった、もし誰かにひどい侮辱を受けるようなことがあれば、その時、イエスの祈りがどんなに甘美であるかを考えた。するとたちまち、侮辱に対する心の痛みや怒りは、ぬぐうように消え去り、すべてを忘れるのであった。…この祈りを唱えるたびに私の心には大きな喜びが湧いてくる。」『無名の巡礼者』
祈りは魂や心だけでなく体にまで影響を与えます。「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」(マタイ6:22)と主はいわれましたし、「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩編34:6)といわれています。実際モーセは神と語っている間に自分の顔の肌が光を放っていましたし、(出エジプト34:29)、イエス様も山で祈っているうちに顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました(ルカ9:29)。神と交わる者は必ず見えない神の光を受け、それはその人の魂と肉体に現れてきます。見える太陽でさえ、肌が黒くなるという変化が現れるのですから、神の光はどれだけ私たちを変えることでしょうか。

❸【祈りの秘訣について】
先日のYWCAの聖書を学ぶ会である方がこんなことをいわれました。「この集会に来て三日間くらいは気分が落ち着いていて、心が穏やかでいられるのですが、しばらくするとまた心が不安定になるのです。どうしたらいいのでしょうか。」私はその方に言いました。信仰と心理学は違います。心理学というのは心の持ち方、コントロールの仕方を学ぶことです。よく聖書を学んだあとに「ああ、そういう考え方をすればいいんんですね」という人がいます。それは心理学です。しかし信仰は自分の力でコントロールするのではありません。神によって心を変えてもらうことです。ですから神と交わらなければ、すぐに心が不安定になってきてしまいます。イエス様は私につながっていなさい。そうしなければ実を結ぶことは出来ないといわれました。だから絶えず神と交わらなければなりません。そうすると向こうから信仰や物の考え方が入ってきます。」大体、信仰はもって半日~一日くらいでしょう。次の日になると信仰はしぼんで何もなくなっています。天から降ってきたマナは次の日まで置いておくと、虫がついて臭くなったといいますから、信仰も同じで次の日までもたないのです。だから毎日聖書を読み、祈ることです。

① 《祈りは献げ物であること》
先週祈っている時に祈祷文の中に「レントの祈祷を献げ」という文章が出て来ました。そのとき、祈りも礼拝も献げ物なのだと気づかされたのです。献げ物はお金だけではないのです。礼拝堂に来るためには交通費もいります。これも献げ物です。時間も、体力も、声も、献げ物なのです。ゆっくり寝ていたいけれど起きて来るなら、睡眠を献げたことになるでしょう。祈祷が献げものなら清い心で捧げなければなりません。澱んだ目や、濁った心で捧げるのではなく、素直な心で神に頭を下げ、感謝を祈るのです。賛美をする時も献げ物だと思って歌うのです。聖書を声を出して朗読する時、疲れるかもしれませんがキリストが聞いておられると思って読むのです。これも献げものです。礼拝に来ることは疲れることもあり、体が痛むかもしれませんが、その分、あなたは神様にお金以外の多くのものを献げているのです。そう思えば無駄ではないのです。

②《神の言葉がいつも頭と心の中にあること》
私たちがいつもキリストの言葉、つまり戒めが心の中にあるかどうかが大切です。受難節の間に唱える祈りで、「エフレムの祈り」というのがあります。一日に7回唱えるのですが、「神よわれ罪人を清め給え」といって6回身を屈める祈りが出て来ます。そうするとその言葉が一日中頭の中にあるのです。自分は罪人なんだ。だから腹を立ててはならないんだ、自分が悪いのだという気持ちになります。そうすると、何か嫌なことがあったり、腹を立てるようなことが有っても「自分は罪人なんだ」と思うと、腹が立たなくなるのです。このように、神の言葉がいつもその人の中にあれば、その人は罪から守られます。木曜日には「酒に酔ってはいけない」とありました。そうか酔うことは罪なんだと知りました。み言葉をいつも思い巡らすことの大切さは聖書の中に書かれています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることはない。」(詩編1:2~3)、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)。み言葉が内にあるならば願いはきかれます。忘れてしまえばきかれません。み言葉を覚え、いつもそれを思い出し、それに自分の心と行動を従わせなければなりません。イスラエルの人も神の言葉を聞きましたが役に立ちませんでした。信仰によって結びつかなかったからです。聞いても忘れたからです。教父たちも「神の恵みは救いの言葉から逃げようとする心に宿ることはありません。」(ニュッサのグレゴリオス)と言っています。聞くだけでなく、それを信じ、それに従うのです。

③《目の前に神がいると想像し、神を信じて求めること》
目の前にイエス様がおられ、その方にお願いをしているのだという気持ちで訴えることです。詩編を用いて祈って下さい。詩編の言葉があなたの思いを表現してくれています。詩編には私たちの思いだけでなく、神の言葉が入っています。それが答えだと思い、入ってきた言葉を信じて安心するのです。
ソロモンは神に知恵を求めました。主はソロモンの願いをお喜びになりました。神の御心にかなうことを求めたので、それはすぐに与えられました。「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂のような広い心をお授けになった。」(列王記上5:9)とあります。そこで世界中の人がソロモンに与えられた知恵を聞くために集まってきました。ソロモンを見に来たのではありません。神に与えられた知恵を聞きに来たのです。ヤコブは「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコブ1:5)といっています。神はソロモンだけでなく、あなたにも与えてくれると約束をされました。だから大胆に神に求めましょう。私たちは何か最初からあきらめているところがあります。神の力も信じていないし、聖書の言葉も本気で信じていないことがあります。だから求めないし、祈らないのです。いつまでこの世に酔っているのですか。いつまで横になってまどろんでいるのですか。それではいけません。あなたはカナンの女のように求めたことがありますか、バルテマイのように声が出なくなるまで主の名を呼んだことがありますか、ザアカイのように主に会いたいと欲したことがありますか。聖書の中の救われた罪人たちに倣いましょう。アブラハムも75歳から出発したのです。夕方の5時になってから働き始めた労働者でも、同じ賃金をもらうことが出来たのです。遅すぎることはありません。今からでも彼らに倣いましょう。「主よ、信じる心をください」と祈り、主の名を呼びましょう。