2017年2月26日(日)主日礼拝説教
『キリストを尋ね求めよ』井上隆晶牧師
イザヤ52章1~3節、マルコ福音書2章1~12節

明日から受難節、レントに入ります。復活祭までの50日間を聖書朗読と祈りに専念し、もう一度信仰の基本に帰り、神に出会う時を持ちたいと思います。今日のお話は「中風の男の癒し」と「罪を赦す権威」の二つの話が一つになったものですが、話しがややこしくなるため前半だけに絞ってお話をします。

❶【人間を見ないで、神を見ること】
1~2節「家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口のあたりまですきまもないほどになった。」イエス様がカファルナウムの(たぶんペトロの)家にいた時のことです。戸口まですきまもないほど、大勢の人が集まっていました。「集まる」はギリシア語では「シュン・アゴー」といい「シナゴーク(会堂)」と同じ言葉です。ですからこの家はイエス様を中心とした集まりである教会を象徴しています。
3節「四人の男が中風の人を運んできた。」イエス様がお話をしていると、四人の男性が中風の人を床に乗せて運んできました。「中風」とは、脳卒中などの脳血管障害の後遺症によって、身体にしびれや麻痺、言語障害などが出る病気です。この人はすべての人類の象徴です。体全体が麻痺し、自分の力では神のもとに行く力がありません。教父たちはこの病人を運んできた四人の男を、四つの福音記者になぞらえています。この四つの福音書は、幾世代にわたって多くの人をキリストの元に連れて行ったからです。しかし、それだけではなく、一人の人がキリストの元に来るまでに、四人の助けがあったというように解釈することもできます。カルトの救出の場合は、家族、脱会者、教会、弁護士です。精神障がい者の場合は、家族、同じ病の友人、医療従事者、教会です。この四人がチームを作って一人の人を癒します。
4節に「群衆にはばまれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。群集が壁となってイエス様の所へ行けないのです。人間を見て止まってしまったら、イエス様に辿り着くことはできません。多くの求道者や信者が教会を離れる理由は、神を見ないで人間を見るからです。
●先週の日曜日に塩谷直也先生の講演会を聞いてきました。青山学院大の宗教科の先生です。青学にはクリスチャン教師が16%だそうです。会議になると、「礼拝を辞めたらどうか、キリスト教精神をやめたらどうか」という意見が出るというのです。キリスト教を嫌がる先生たちもいるそうです。でもよく聞いてみると、キリスト教が嫌いなのではなくて、嫌いだったキリスト教徒がいたということのようです。「あの人にこんなことを言われた」「あの人の態度に腹が立つ」「あれでもクリスチャンか」という声がどこの教会に行ってもあります。未信者は聖書を読みません。だからキリスト教徒が未信者にとっての聖書なのです。責任は重いと思います。
しかしイエス様はそれを知っていても「道を開け、どいてあげなさい」と言われません。そこで彼らは屋根の上に登り、屋根を剥がして穴をあけ、病人を床ごとつりおろしました。よっぽど大きな穴を開けたのだと思います。イエス様は聖書の中に隠れておられ、ご自分が探されることを喜ばれます。人は簡単には神に、つまり真理に到達できません。多くの犠牲が必要です。しかし本当にイエス様を求める者は、どんな障害があっても求めます。神に出会う為には、横からではなく、真上から近づかねばなりません。聖書を自分の耳で聞き、目で読み、じかに神と交わらなければなりません。

❷【キリストが見ているのは、あなたの求める姿】
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(5節)とあります。イエス様はこの四人(寝ている病人を含めると五人)の信仰を見たとありますが、ここでは彼らは何も語らず、いかなる信仰告白もしていません。彼らは近づくという行動をしただけです。つまりイエス様の所に何とかして来るということが信仰なのです。病気のまま、寝たままでもいいからキリストの所に来ることを信仰といいます。
イエス様はその人に「子よ、あなたの罪は赦される」といわれました。苦労して本当にキリストに出会った人は驚くべきことを耳にします。それは赦しの宣言です。イエス様はその人の罪を聞きません。どんな罪を犯したのか、その過ちの種類や数を問いただしません。そこには興味がないからです。イエス様が見ておられるのは、その人が自分の所に必死になって近づこうとしている姿です。その必死な姿を見ておられます。罪とは「的をはずす」という意味です。神という的をそれて生きること、つまり神を必要としない、神を求めない、神に聞かない生き方を罪といいます。この病人の罪が赦されたのは、彼がキリストを求め、キリストを必要とし、どうしてもキリストに会いたいと望み、実行したからです。その行動すべてがすでに赦しなのです。罪深いこの世は「罪」(神の方に向かないこと)よりも「過失」(その人の失敗や弱さ)ばかりが強調されます。神の家に帰ることよりも、良い人になることが強調されるのです。
●塩谷直也先生が面白いことをいっておられました。自分は昔、十字架というのは高い山の上にあると思っていて、一生懸命その山に登ろうと努力したというのです。しかし何度やっても駄目で、転がり落ちてしまうのです。しかしある日、あきらめて倒れている自分の横に十字架が立っているのに気がついたというのです。これを「祝福された敗北」と先生は表現されました。C.Sルイスは「人間はもっとも神から離れた時に神に近い」といいました。自分の無力さを知って、本当に神を必要としている人が最も神に近いのです。

❸【床を担いで歩きなさい】
この病人はイエス様に病気を癒してもらうためにやってきました。しかし、ここで「病の癒し」よりも「罪の赦し、すなわち救い」が先になされたことが重要です。私たちはこの順序を重んじます。多くの人は教会に心と体の癒しを求めてやってきます。そして癒されたらもう教会へは来ません。多くの人が求めるのは神ではなく、神がくれるものです。祈りもそうです。欲しい物、かなえてほしい事柄ばかりを祈る人がいます。しかし本来、祈りというのは「神の御顔を尋ね求める」(詩編27:8)ことです。最初人は願いをします。それは別にいいのです。しかしその願いがかなえられない時、神の意志を聞きたくなるのです。「なぜですか」と。そして神に出会った人は納得するのです。詩編にも「わたしの魂が慕うのは主よ、あなたなのです。…あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります。」(詩編86:4~5)とあります。神を求めない人は、神が願いをかなえてくれない時、他の偶像に走ります。私たちは主人を知っているのです。この方以外に神はなく、主人はいないのですから、主を呼び求めなければなりません。神を求める者は、神から赦しと命を貰います。神のくれる物だけを求める者は、神から赦しと命を貰えません。だからこの5人は神がくれるものではなく、神自身を求めたことが分かるのです。神は人に「もの」だけではなく「救い」を与えたいと願っています。救いとは神に向かって生きることです。神に向いて生きていなければ、いくら肉体の病が癒されたところで、彼は死んでいるのと同じだからです。しかし、神に向いて生きている者は、たとえ肉体の病が癒されなくても、生きているのです。

イエス様はこの人に「起き上がりなさい。床を担いで家に帰りなさい。」(11節)と命じられました。すると彼はすぐに起き上がり床を担いで歩きだしました。同じような言葉が、ベトザタの池の病人にも言われています。古代の祈祷書の中にこのように書かれていました。
●「主よ、池は病人を癒すことができませんでした。あなたの言葉が彼を新しくしたからです。長年の病であっても関係ありませんでした。あなたの声のすみやかな働きが現れたからです。病人は担いきれない重荷を降ろして、床という荷を負いました。神の大きな憐れみを証するためです。」
祈祷文が教える、人間が「担いきれない重荷」とは何でしょう。それは罪と死という重荷です。それをキリストの十字架のもとに降ろすのです。それについてもう悩まなくていいのです。キリストが負うからです。あなたはただ「床」だけを担ぎなさいというのです。床とは病気です。肉体の限界です。この人の病気が癒されたのは、病気と罪を関連づける人がいるから、この人に罪がないことを証しする必要があったからです。今度、この人が病気になっても安心して病むことでしょう。あなたは病気でも罪はないよ。こんなに私を求めているのだから、あなたはもう救われているよと主は言わると思います。肉体の老化、病、ボケは仕方ないですね。これは負って生きてゆきましょう。キリストは私たちがキリスト自身を求めるのを待っておられます。キリストを求める生活自体が救いなのです。このレントの時、キリストを求め、出会える時となれますように祈ります。