2017年2月19日(日)主日礼拝説教
『水を飲ませてください』井上隆晶牧師
イザヤ55章1~7節、ヨハネ福音書4章4~15節

❶【神との出会い】
イエス様の名前が広まるにつれて、ファリサイ派の反抗が強くなってきたので、ユダヤを去って、再びガリラヤへ行くことにしサマリア地方を通られました。イスラエルの国というのは北にガリラヤ地方、真ん中にサマリア地方、南にユダヤ地方というように三つに分けられます。イエス様と弟子たちは北のガリラヤ地方出身です。サマリア地方にはユダヤ人と外国人との混血民族であるサマリア人が住んでいました。バビロンに移住させられなかったユダヤ人が生き延びるために地元の人たちと結婚しました。その人たちの子孫をサマリア人と呼びます。ユダヤ人たちは、彼らは純粋ではないという理由で差別していました。ユダヤ人とサマリア人は400年以上の間争いを続け、互いに交際することはありませんでした。そこでいつもユダヤからガリラヤに行く時は、サマリアを迂回して外国人の土地デカポリスを通って旅をしていました。しかし、この時は「サマリアを通らねばならなかった」(4節)と書かれています。理由があるようです。旅に疲れたイエス様は、シカルという町のヤコブの井戸のほとりに腰を下ろして休んでおられました。時刻はちょうど正午頃のことでした。そこへサマリアの婦人が水を汲みにやって来ました。水汲みは女性の仕事で、朝夕2回涼しい時に行われたのですが、昼の一番暑い時に水を汲みに来るような人は誰もいません。彼女が正午に来たのは、ご近所の婦人と顔を会わせたくなかったからです。それはこの後に出てくるように人目を避けて不道徳な生活をしていたからです。
イエス様は、この婦人に「水を飲ませてください」(8節)と声をかけました。村の井戸は村人たちの共同の財産(所有物)であって、他の村人や旅人が勝手に水を盗むことがないように、井戸には汲む道具を置いていませんでした。水はイスラエルにとっては命をつなぐ大切なものです。イスラエルには「平和と水はお金で買うものだ」という格言があるそうです。彼女はイエス様が自分に声をかけてこられたとき警戒しました。「なぜ男性が昼間に女性の私に声をかけて来るのだろう。なぜユダヤ人がサマリア人である自分に声をかけて来るのだろう。この人は一体何者なのだろう。自分を捕まえに来たのだろうか。自分が何者なのか知っているのだろうか。」と思ったと思います。そこで「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)と聞き返しました。これがサマリアの婦人とイエス様の最初の出会いでした。出会いにもいろいろあります。「ああ会ったことがある」という程度の一回だけの出会いから、毎日会うという出会いまで様々です。その人の一生を変えるような出会いもあります。彼女のイエス様との出会いは、彼女の生涯を変えてしまう出会いでした。あなたはイエス様とどんな出会いをしていますかと問われています。
●先日、島之内教会の帰りに心斎橋を歩いて戎橋まで来ました。周りの景色は一変し、別世界でした。今から36年前、私は妻と初めてこの橋で待ち合わせをし、その日には橋の端と端にいたので出会えず、翌日再び会うことになりました。人間の出会いって不思議です。出会うべくして会ったのだと思います。神様がそのように引き合わせたのだと思います。
私は、イエス様は最初からこの婦人と出合うために待っておられたのではないかと思うのです。彼女は私たちのひな型です。私の中の傷ついた部分、隠している部分、人目に触れられたくない恥ずかしい部分、私の罪と弱さの象徴です。ここにイエス様は会いに来られます。神様が自分を愛するには自分は醜すぎると私たちは思ってしまいますが、そうではないのです。神様に愛されるのに、綺麗になってからと思う必要はないのです。神様に愛されるのに条件は必要ありません。それに綺麗になるのは不可能なことです。まず神様に出会うことです。それが神の願いなのです。イエス様がサマリアの婦人を待っていたように、神様はあなたの先に行って、あなたと出会うために待っておられるのではないのでしょうか。それが井戸の傍らで起こったことに注目しましょう。井戸は人が出合う場でした。私たちにとってこの井戸とは教会を意味しています。だからイコン画家はヤコブの井戸を十字架の形に描きました。イエス様はあなたに出会いたくて今日もここで待っておられます。

❷【もし、あなたが知っていたならば】
イエス様はサマリアの婦人に語ります。「もし、あなたが神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう。」(10節)ここでイエス様は婦人に対して、あなたは何も知らないのですといわれます。人間には二つの無知があります。一つは「神の賜物」、もう一つは「イエス・キリスト」です。人が神の元に来ないのは、神を知らず、神が下さるものがどれほど素晴らしいかを知らないからです。だから神以外のものに手を伸ばし、自分を救えないものに多額のお金と時間と命を使っているのです。このサマリアの婦人は自分を慰めてくれる人を求めていましたが、実は私たちも同じなのです。人間には神的なことは分からないのです。だから、神の方から人間のもとに来て低くなってお願いしているのです。普通は、病人が医者を求めるものです。しかし、ここでは医者であるキリストが、病人を捜し求めています。医者が患者のところに行き、病を教え、治療と薬を受けなさいと説得しています。神が来てあなたに頼んでいるのです。それでもあなたは「いいえ結構です」といいます。私たちの知性は悪魔の毒によって鈍くなり、感覚は麻痺して、価値のないものを求め、本物と偽物を見分ける力を失っているのです。あなたは本当にキリストを知っていますか、神がくださるものがどれほど素晴らしいかを知っていますか。
●牧師は直感で分かるのです。神を必死に求めている人、祈っている人、神の言葉を必死に読んでいる人は「ああ、この人は大丈夫だ」と思います。確かに信仰していてもいろんな不幸な出来事に出会い、病気にもなります。しかし神を求める人は、決して悪くならないということが直感で分かるのです。しかし聖書を読まず、祈らず、神を求めない人は何とも心もとなく、安心できません。その人が祈っているかどうか、聖書を読んでいるかどうかは顔を見たら分かります。信仰は必ず外に現れるからです。私の仕事は、神を求める人を造ることです。その点で私は成功したとはいえません。私は自分の子どもたちにさえ祈ること、聖書を読むことを教えることが出来ませんでした。教師として失格者です。でも、自分はこの生活を失いたくないのです。なぜなら神と交わるすばらしさを知っているからです。神の言葉には力があり、その人を必ず癒し強くすることが出来ます。

❸【生きた水】
さて「生きた水」という言葉を聞いて、この婦人はイエス様が別の井戸を持っているのではないか、または新鮮な水が溢れる誰も知らない水源を知っているのではないかと思いました。だから「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(11~12節)と聞きました。この地方にはこのヤコブの井戸しかないのです。これ以上の井戸があると聞いたことが有りません。あなたは一体どこからその水を手に入れるのですかというのです。するとイエス様は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」(13節)と言われます。「この水」とは、この世の物質を象徴しています。この世の物質は、いくらもっても人の欲望を満たすことはできません。
●93歳になる佐藤愛子さんが書いた「幸福とは何ぞや」という本を読んでみました。彼女はこんなことを書いていました。「私が子供を育てた頃は外出の時も家で立ち働く時もオンブと決まっていた。…そのうち日本人の脚が湾曲しているのはオンブのためだとか、赤子の胸を圧迫するから健康によくないなどと否定的見解が流れ、どっと入ってきたアメリカ文化と日本の経済成長があいまってオンブとネンネコは絶滅した。…九州の小さな町のホテルで、窓から赤いネンネコ姿の若い女が歩いていた。化粧気のない丸顔、両手に大きな風呂敷包みを掲げていた。盛り上がったネンネコの襟からわずかに白いものが見えるのは、赤ん坊がかぶっている帽子の先っちょだろう。赤子は深々とネンネコの中に沈んでいて、母も子も見るからにぬくぬくと温かそうだった。その時、私の中にしみじみとした、切ないような、いうにいえぬ感情が生まれた。いじらしいというか、懐かしいというか、羨ましいというか、それは代々の日本の女が通って来た伝統的ともいえる母親の姿だった。…そのネンネコ姿は若い母親だけに許された幸福の姿だ。幸福とはそんなものではないか?」
●「子供の頃はどうしてあんなにお正月がくるのが嬉しかったのだろう。…お正月は何があっても機嫌よくしていなければならないのである。…いつもは笑ったら損、という顔で家族を見下しているおじいさまも、この日はいかめしい顔をゆるめているし、…女の子は晴れ着を着せてもらう。それを着て「ふく笑い」をする。…それを見て皆で大いに笑う。子供にとっては天国だった。…子供は新しく買って貰った下駄が嬉しくてたまらない。あまり嬉しいので隣のおばさんに見せたくなる。あらまあ、いいねえ、可愛い下駄だねえと、おばさんは一所懸命にほめる。ささやかな正月のめでたさ。その頃の日本の庶民の暮らしは、質素でつつましいものだった。…今やお正月は特別の日ではなくなったのである。貧しいからではなく、豊かになったので人は殊更に着飾らなくなったのか。…」
何気ない文章なんですが、懐かしいなあと感じます。私たちは豊かさと交換に人間の「情」を失ったのではないかと思います。何という心の貧しさでしょう。現代人は前進したのではなく、後退したのではないのでしょうか。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る。」(14節)と主は言われます。キリストが与える水とは聖霊のことです。聖霊が人の中にやってくると「泉」となって湧き上がり、絶えず人を潤し、永遠の命と喜びを与えてくれるというのです。彼女は最初、自分の周りの環境が変わることを願いましたがイエス様の答えは違いました。「どこに行っても同じであなたの渇きは癒されないよ、あなたが変わりなさい」というものでした。イエス様の下さる水源、つまり「聖霊の泉」を内に持つ人は、周りの環境に左右されなくなるのです。聖句をよく見て下さい。主導権は人間ではなく泉にあります。泉が人に命を与えます。泉が人に元気を与えます。そしてその泉がやがてその人を復活させるのです。泉から湧き出る水というのは常に新鮮で、質は変わりません。同じようにこの聖霊の泉はいつも同じ癒し、同じ命、同じ満足感を与えてくれます。このヤコブの井戸とは、旧約の象徴です。多くの人が今まで旧約聖書という井戸から救いについて信仰や知識を汲み上げてきたのですが限界がありました。なぜなら本当に汲む道具を持っていなかったからです。しかしイエス様は汲む物を持っています。その道具の名は聖霊といいます。私たちは今、聖霊という柄杓で、旧約・新約聖書という二つの井戸から生きた水である教えを汲みます。この井戸は毎日、私にここちよい水を飲ませ、私の魂を潤してくださいます。感謝です。私の小さな体は愛と赦しで満ち溢れます。
サマリアの婦人は「その水をください」といいました。イエス様との会話によって、つまり聖書を読むことによって、彼女の中に聖なる憧れが生まれたのにお気づきでしょうか。聖書は人間の中に眠っている「良い憧れ」を目覚めさせる力を持っています。救いの第一は、聖書を読む、礼拝に出る、神と交わることです。救いの第二は、神がくださる物を期待して望むことです。欲しいと思いさえすれば人間は救われます。
●戦時中、満州の熱河省(ねっかしょう・現在の中国河北省)で主の御用にあたっていたある婦人伝道師がいました。彼女は栄養失調から失明し、たった一人のわが子は引揚船の中で死んでしまいました。命以外すべてを失ったのです。盲目の彼女は一人引揚船の甲板の手すりにもたれてわが子の死を悲しんでいましたが、やがていつの間にか「数えてみよ主の恵み」という讃美歌を歌っていたというのです。そして彼女は再び、主の僕として立ち上がることが出来るようになったのです。過去の恵みを数えているうちに、滅ぶほかなかった自分が、イエス・キリストの贖いによって救われたという何よりも大きな恵みに気づいたのです。
人生に投げやりになり、孤立し、恐れと不安と無力さと絶望の中にいる人を立ち直らせたのはキリストとの交わりでした。私たちもこの天からの水を求めましょう。まず聖書を読み始めましょう。神様と対話をしましょう。そこからすべてが始まり、すべてが変わるのです。