2017年1月22日(日)主日礼拝説教

『水がぶどう酒に』 フィリピ3章17~21節、ヨハネ福音書2章1~12節

❶【神には神のなさり方があり、時があることを知るべきである】
このカナの婚宴でイエス様は水をぶどう酒に変えるという最初の「しるし」を現しました。母マリアが、ぶどう酒がなくなったことを心配しているので、マリアはこの婚宴で何か重要なポジションにいたことが分かります。この婚宴は母マリアの姉妹のサロメの息子ヨハネ・マルコの婚宴だったようです。ですから母マリアはこの婚宴にお手伝いに行き、スタッフとして働いていました。パレスチナの婚宴は一週間続きます。その間は家を開放し、お祝いに来る人たちを接待しなければなりません。その接待用のぶどう酒がなくなってしまったのです。
そこでマリアはイエス様に「ぶどう酒がなくなりました。」(3節)と言いました。霊的な意味で、これは「マリアの祈り」だと思います。マリアはまずイエス様に相談し、イエス様に頼りました。身内だったから当然だという人もいるかもしれませんが、次の記事が祈りであることを教えています。イエス様は「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)と言われました。「婦人よ」というのは当時の習慣としては丁寧な言い方で、お母様というような意味です。「私とどんな関わりがあるのですか」は「そっとしておいてください。私にお任せください」という意味です。ですから「お母様、あなたはどうお考えであれ、私には私の考えがあります。私に任せて下さい。」という意味です。そこで母マリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)と言い、ぶどう酒を買いに行かせることもせず、宴会の世話役に相談することもしませんでした。母マリアはこの問題をイエス様にお委ねしたのです。だからこれは祈りなのです。相談なら、「あんたに相談してもらちが明かないから、自分で買いに行く」となるでしょう。このようにまず、イエス様に相談することからこの奇跡は始まるのです。
●淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生は、朝、目覚めてすぐに四つの祈りをされるそうです。第一は、今日のスケジュールが守られるように。第二は、御心にそった決断ができるように。第三は、どんなことが起こっても冷静に対処できるように。
第四に、家族や友人が守られるように。
この四つは簡単ですから。どなたでも真似ができると思います。実際にやってみられるといいでしょう。
しかしイエス様はすぐには祈りをきかれません。「わたしの時はまだ来ていません」といわれます。神の定めた時というものがあるのであって、私たちはその「神の時」を待たなければなりません。
●先日ある組織のリーダーの方から相談を受けました。その方は「良かれと思って職場の環境を充実させたのですが、従業員がそれに無関心で、なかなか利用してくれない、何か自分が独り相撲をしているようで寂しい」と言われました。物事が計画どおりに進まなかったり、仕事の成果が上がらなかったりすると、リーダーは「自分は指導力がなく無力だからではないか」と思ったり、「従業員の力不足なのではないか」と思ったりします。そして従業員に辛く当たってしまうことがあります。リーダーにとって必要なことは、自分の持っている良いヴィジョンを神からの物だと信じること、それが実現するための時を待つこと、その時を神様に委ねることです。自分の思い通りにならなくてもいいのです。神様の思い通りになればそれでいいのです。神には神のなさり方があり、なさる時があることを知り、信じ続けることが必要です。
●「摂理は、けっして急がないが、いつも間に合う。」(ヴェイヨ)

❷【僕になること】
そこに、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてありました。聖書で7は完全数であり、6は不完全数を表しています。六つの石の水がめはユダヤ人が食事の前に手や足を洗うという宗教的清めのために用いていたものです。これは律法の不完全さを象徴しています。「2~3メトレテス入り」とは80ℓ~120ℓです。イエス様は召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい。」というと、彼らはかめの縁まで水を満たしました。(7節)一つの甕に2リットル入りのペットボトルだと、40本~60本です。それが6つの水がめです。240本~360本になります。水道からではなく井戸から汲むのですから何度も往復をしなければなりません。大変な重労働です。ぶどう酒がなくなったのですから、水などをせっせと汲んでいる暇があったら、ぶどう酒を買いに行ったほうが早いと思います。なぜ僕たちはこんな馬鹿なことが出来たのでしょうか。「これが一体何になるのだろう」と彼らは考えなかったのでしょうか。でもそれが僕になるということです。
神様は時に、目の前の問題とは関係ないことをしなさいと命じます。自分の目標とすることとは、まったく違うことをさせられることもあります。私たちは不安になりこんなことをしていて大丈夫なのだろうかと思ってしまいます。しかし問題のことは考えなくていいのです。なぜなら神はその問題を良く知っておられるからです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(マタイ6:8)ですから、ただ神がしなさいといって、あなたに与えた仕事をすればいいのです。召し使いたちはかめの縁まで水を満たしました。もうこれ以上できないというところまで従ったのです。その時、神の栄光が現れたのです。
婚宴の最中にブドウ酒がなくなるということは、何を意味しているのでしょう。「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」(詩編104:15)という詩編の言葉がありますが、私たちの人生の中で喜びを与えてくれるものが無くなってしまうということを象徴しています。人生の中で、自分が健康であるとか、家庭が円満であるとか、仕事がうまくいくとか、そういうことで私たちは喜びを感じます。それがちょっと狂ってくると、不安になったり、悩んだり、悲しんだりしてしまいます。しかしこのぶどう酒が無くなることを通して、人間が造った以上の最上のぶどう酒がイエス様によって創り出され、それによって神様の栄光が現れました。だから私たちはどんな時にも、私たちの人生の中にイエス様をお迎えすることが大事なのです。この世で、私たちを喜ばせるものが無くなったからと言ってもそれで恐れたり、不安になったりしてはいけません。その時、イエス様はもっと良いものを用意して待っていて下さるということなのです。
●ジョージ・ダナーさんはラルシュ共同体(知的障がい者施設)のリーダーでした。彼はカナダで15年働きましたが、妻の出身地であるヨーロッパに行くことを決め、家族と共に、北フランスの人口が150人ほどしかいない村のラルシュにやってきました。その共同体は問題がありました。ハンディーをもったメンバーの親たちと共同体との間に対立があり、アシスタント同士にも対立があり、1年以上勤めた人は19歳の女性一人だけでした。後はみんなダナーさんが来るというので、その直前に送り込まれた人でした。アシスタントたちは「私は6カ月契約できました。契約が終わったら帰ります。」「一年契約で来ました。一年たったら帰ります。」と皆いうのです。ダナーさんはフランス語がしゃべれません。彼は眠れなくなり、無力感を感じ、朝起きても共同体に出勤できなくなりました。出勤して事務所に座っていても、仕事になりません。文章もかけず、電話が鳴っても取りません。彼は深い孤独感を感じました。しかしこういう絶望の中で静かに何かが始まっていました。ジャン・バニエが知的ハンディをもったラファエルとフィリップと暮らし始めたことがラルシュの始まりだったのですが、このラファエルがもう65歳くらいになっており、この共同体にいました。彼は、電話に出ないダナーさんをじっと見つめ、近づいてきて彼の頭にキスをしました。そして何も言わないでコーヒーを入れに行きました。クリスタルはじっとダナーさんを見つけ、「ジョージ、大丈夫、うまくいくから」と言いました。マリー・コレットはダナーさんを見ると、近づいてきて抱きしめ「ねえ、わたしのジョージ」といいます。リリエはダナーさんを見ると「あなたのこととっても好きよ」と言います。ダナーさんは自分がどんなに苦しんでいるのかを、共同体のみんなに話したことはありませんでした。でもみんな分かっていたのです。「私は自分のプライドや自信がどんどん奪われてゆくような時期を過ごしていました。しかし同じ時期に、私は自分の深い所で命が養われていく体験をしたのです。…みんなにとって私がフランス語が出来ないことはまったく問題ではなかった。…その仲間たちにとって大切なことは何か、それは私が毎日毎日彼らと一緒にいるということだったのです。…私は有能なリーダーになるという理想をもってやってきました。しかし今私はまったく無能になった。しかし、そこで初めて私は、あるがままでそこにいるということに招かれたのです。彼らが示した優しさと励ましの表現を通して、絶望ともろさのただ中で、私は愛される価値があると気づかされたのです。」1年が過ぎ、ここから去って行きたいと言っていたアシスタントたちは全員留まっていました。彼らの中のほとんどがその後10年以上この共同体で暮らしました。「私が彼らを担ぐ以上に、彼らが私を担いで歩いてくれました。」
ダナーさんは、自分の理想とははるかに違う所に行かされました。そこで彼は、自信と喜びを失うような経験をしましたが、それを通して神様はもっと良いものを彼に与えて下さったのです。

❸【神はあなたを用いて、隣人を満たして下さる】
「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」(8節)僕たちは思わなかったでしょうか。この忙しい時に、水なんか持って行って怒られたらどうしよう。でも書いてありませんが、主はこう言われると思います。「それでいいのです。それを持っていきなさい。それが相手の所に届いた頃には、相手の必要を十分に満たすことでしょう。あなたは水をぶどう酒に変えることはできないでしょう。人の必要を満たすのは神である私がします。あなたは、ただ自分が出来る精一杯のことをすれば良いのです。あなたが今、することは、汲んだ水を持ってゆくことです。」世話役はぶどう酒に変わった水の味見をして、花婿にいいました。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(10節)
神様があなたにしなさいと命じられることは、どんなことでしょう。私は特別なことではないと思うのです。神の言葉は天から聞こえてくるわけではありません。しかしあなたの目の前に「あなたがしなさい」と託されたことはたくさんあります。あなたにできるからです。ある人は、他人からしてほしいと頼まれた仕事でしょう、ある人は平凡な日々の家庭での仕事かもしれません。でもそれに心を込めて、誠実に行うことが、水を汲むことだと思います。

●先ほどのジョージ・ダナーさんはこういいます。「私は、小さいころ、宗教というのは毎日の生活とは関係ない、毎日の生活から離れたものだと感じていました。神父さんやシスターを見ていると、何か別の世界の人だと感じた。だから時々、彼らの所へ行き、その世界の中でちょっと過ごしますが、またそこから出て来て、自分の世界に戻る感じでしょうか。小さなとき、そんな風に感じたのです。神様がこの世界におられる、私と一緒におられるなんて、考えもしなかったのです。…愛するということは、何かとんでもないことを成し遂げることではないのです。愛するということは、日常の当たり前のことを、心を込めて、親切に、誠実に行うことです。それこそが、聖人、聖なる者になる道なのです。」
私たちの人生は神の栄光を現す場です。神は私と共におられ、私を通して何かをされようと思っています。だからまず、神に祈り、神から言葉を聞いて、この世の現場に出るのです。私が神から言葉を汲み取り、汲み取った言葉を人に持ってゆく時、何か不思議だけれどもそれがそこで変化し、その人たちを満たすことを期待しています。