2017年1月15日(日)主日礼拝説教

『これはわたしの愛する子』 ローマ6章4~11節、マタイ福音書3章11~17節

❶【キリストの謙遜さ】
1月になると世界中で水の中に十字架を静める聖水式が行われます。その十字架を取るために水の中に飛び込む映像が流れます。私はこの聖水式が好きです。聖堂で水をかけられると、自分が洗礼を受けた日を思い出し、新しい気持ちになりますし、本能的に何か新しいことが始まるのではないかという期待に心が躍るのです。私が洗礼を受けたのは1981年12月19日のクリスマス、私が23歳の時でした。妻と一緒に洗礼を受けました。今日はイエス様の洗礼の箇所からお話ししたいと思います。洗礼者ヨハネは、大洗礼運動をしました。普通ユダヤ教徒は洗礼を受けませんが、ヨハネはどの人も悔い改めて洗礼を受ければならないといって「悔い改めの洗礼」を伝えました。民衆はもしかしたらヨハネがメシアではないかと思っていたので、ついに神の国が来ると思い、全国からぞくぞくと荒野にいるヨハネのところに来て罪を告白し、洗礼を受けたのです。その群衆に向かってヨハネは言います。「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来られる方は、私よりも優れている。私はその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11)ヨハネは自分の「水の洗礼」とは違う、新しい「聖霊と火の洗礼」が始まるということを言っています。「聖霊と火の洗礼」とは何でしょう。よく聖霊派(ペンテコステ派)が「水のバプテスマ」だけでは不十分で、異言を語ったり、奇跡を行ったり、はっきりと神を体験する「聖霊のバプテスマ」がないと駄目だと言いますが、本当でしょうか。イエス様の洗礼からそれを学びたいと思うのです。
イエス様はヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川にいる彼の所にやってきました。ヨハネは自分の前に現れたイエス様を見て驚き、最初洗礼を授けるのを辞退しようとして言います。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)そんなヨハネに対してイエス様はこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)イエス様は「我々」といわれました。イエス様には罪がないのに、自分も罪人の一人だといわれたのです。つまり完全に、罪人の側に自分を置き、罪人の方に降ってきて下さったのです。降誕祭は神が人となった祝いですが、洗礼祭は神が罪人となって下さったことを祝う祭りです。キリストは罪人ではありませんが、罪人の友となってくださり、罪人と共にいてくださるということなのです。私はここを読む度に深い感動を覚えます。
●イザヤ42:1~4に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ…。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、…暗くなることも、傷つき果てることもない。」という言葉があります。「わたしの僕、わたしが支える者」というのはメシアのことです。ユダヤ教ではメシアは何人もいて、ここではペルシャのクロス王の事をさしていますが、キリスト教にとってのメシアは唯一なので、イエス様の事をさしています。マタイはイエス様が奇跡を行っても、黙っているように命じたことについて、ここを引用し、イエス様こそメシアであるといっています。(マタイ12:17)3節に「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とあります。「人間は考える葦である」とパスカルはいいましたが、ここでも傷ついた葦とは弱い人間をさしています。葦は中が空洞なのでポキッとすぐに折れてしまいます。人間も同じです。しっかり自立できず、心がすぐに折れます。暗くなってゆく灯心とはランプの芯が短くなって、その灯が弱く消えそうなことをいいます。すぐに挫折し、心が折れ、信仰が消えそうな、くすぶっている信者のことです。そういった罪人たち、どうしようもない人たちをメシアは見捨てないというのです。しかもメシアは「暗くなることも、傷つき果てることもない」とあります。暗い人と一緒に居たら、周りが暗くなります。しかしメシアはいつも明るいというのです。絶望的な事件ばかり起こってもメシアはいつも希望を持っているというのです。人に傷つけられても、倒されても起き上がるというのです。イエス様ってそんな方だったようです。私はここを読んだ時、すごいなあと思いました。

❷【キリストによる新しい洗礼=秘跡】
ただ罪人と共にいてくださるだけなら、共に食事をするだけでも良かったのです。なぜイエス様は洗礼にこだわられたのでしょう。それは御自分の中でヨハネの古い洗礼を終わらせ、新しい洗礼の秘跡を立てるためでした。キリストに触れた古い洗礼は、新しい洗礼へと変容したのです。ヨハネは水の洗礼を行いました。聖書では水は裁きの道具として出て来ます。ノアの洪水によって悪人を滅ぼし、紅海によってエジプト軍を滅ぼしました。ですから水は死を意味します。でも死んだままでは駄目です。生きなければなりません。そこで聖霊が人を復活させるために降ってきます。「火」は罪を焼き、心を照らすからいわれたのでしょう。ペンテコステのイメージだと思います。イエス様は水による洗礼と、聖霊と火による洗礼の二つを合致されたのです。水によって古い人を葬り去り、同時に聖霊によって新しい人を創造します。人間が本当に死ぬことなく、この世から復活するために、キリストは洗礼の秘跡(サクラメント)を制定したのです。秘跡というのは神が定めた、恵みを人間に与える手段です。洗礼の秘跡の中で、キリストに起こった死と復活が私たち人間に転嫁されるのです。パウロはこう伝えています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが…死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。…私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:4、8)キリストは本当に死にましたが、私たちは死にあやかるのです。でも本当に死んだことになり、裁きは終わるのです。キリストは本当に復活したのですが、私たちも復活にあやかるのです。「あやかる(肖る)」とは、その人を真似て同じものを得るという意味です。死と復活を得ることなのです。

❸【人間の力を超えた神の恵み=洗礼】
洗礼というと、ほとんどの人は自分が悔い改めて変わること(人間の力)だと思っていて、神の業(サクラメント)だと思っていないのです。イエス様は、ニコデモに言われました。「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。」(ヨハネ3:5~6)水と霊というのは洗礼のことです。「肉」とは人間の力、人間の業です。「霊」とは「聖霊」のことです。キリスト教信仰を、自分でがんばる宗教のように思っている人がいたら大きな間違いです。そういう人の信仰生活を見ていると、熱心なのですが、何か堅苦しい感じがして、やがてその人も続かなくなります。イエス様はニコデモに「あなたは自分の欲望をなくしたり、自分の思いを小さくしたりするような修養によって、神に近づき、神が共にいるような生活ができると思っているが、大間違いである。」と言われたのです。自分で生きるのではなくて、神に生かされることなのです。
●詩編103:11に「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。」という言葉があります。地よりも天の方が上にあります。それと同じ様に、神の業の方が人間を超えているというのです。神が人よりも低くなることは決してありません。人間がする業よりも、神がする業の方が大きいことを忘れてはなりません。

●水野源三さんは小学校4年生の時に赤痢に感染し、高熱のために脳性小児マヒとなって四肢の自由を奪われ、声が出なくなりました。キリスト教に触れたのは小児マヒになって間もなくのことです。町の教会の宮尾牧師から1950年に受洗しました。彼はこんな詩を書いています。
「自分の力では動けない、生きられないと気づいた瞬間に、私をしっかりささえていてくださったキリストの愛の御腕がはっきり見えて来た。」
星野富弘さんはこんな詩を書いています。
「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ。私のように動けない者が動けないでいるのに忍耐など必要だろうか。そう気づいた時、私の体をギリギリに縛りつけていた「忍耐」という刺のはえた縄が“フッ”と解けたような気がした。」
星野さんが膀胱結石になり、手術をする話があります。「整形外科から泌尿器科の病棟に移動し、手術前の質問をうけた。生年月日、職業、けがをした日、そして「特別な宗教をおもちですか」という最後の質問があった。「キリスト教です」と応えてしまった。教会にいったことはなく、聖書も半分も読んでいないのに、「宗教は何か」と問われて「別にありません」とはどうしても言えなかった。私は自分がどこに向かっていくのか、何に向かっていけばよいか分からなかった。その不安がまったく知らない人のいる泌尿器科に移ってさらに大きくなり、おしつぶされそうになりながら、私は心のより所を求めていた。そんな私の耳もとを時々、風のようにささやいていくことばがあった。「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」。それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架に書かれてあった言葉だった。不思議なほどに覚えていたその言葉を、おそるおそる開いた聖書の中に見つけたとき、私がまだ健康でなにも知らないで飛び回っていた頃から、すでに、私にこの言葉を与えてくれていた神様の心を知ったような気がした。…この言葉に従ってみたいと思った。クリスチャンと言える資格は何も持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くに行きたいと思った。
この二人に共通なのは動けないということです。何もできないのです。頼れるのは神様だけなのです。それが洗礼の意味なのです。神様の約束にすがるだけです。そこでは人間の頑張りはゼロであり、神の恵みが100%です。
●先日、YWCA聖書を学ぶ会に新しい方が来られました。以前、八尾福音自由教会に行っており、婦人会にも入っていたのですが、熱心な奉仕に疲れてしまって今は行っていないというのです。私はその方に言いました。「キリスト教というのは私たちが神様のために何か立派なことをすることではなくて、神様が私たちのためにしてくださったことを喜ぶ宗教です。私たちは罪を犯してしまうから教会に来ているのですよ。罪を犯さなかったら教会に来なくていいのです。罪を犯してしまうことを諦めなさい。最後の審判の時、罪が問いただされたら『お父さん、ごめんなさい』と言ってその手にしがみつきなさい。」すると彼女はいいました。「それだけでいいんですか。」私は言いました。「ほかに何かできますか。それしかできないでしょ。私たちは自分の力では罪をやめることは出来ないのです。」すると彼女は私に言いました。「何か肩が軽くなりました。」
自分の力で生きることをやめ、キリストによって生かしてもらおうと思った時、聖霊はその人を新しく創造するのです。秘跡(サクラメント)とは人間の業を超えているのです。洗礼を受けたからといって人が変わるわけでもなく、悪い心や思いがきれいになくなるわけでもなく、罪を犯さなくなるのでもないのです。でも、神様が人間の所まで降りてきて罪人である私たちに合わせてくださって、「あなたがどれだけ変われなくてもあなたはこの秘跡を通して、もう神の子なのだよ」と言って下さるのです。キリストが立てた、この新しい洗礼によって人間の死と再生が行われたのです。皆さんは本当に神の子であり、神様はあなたの親になったのです。神様が親なら、子は親と同じ命をもっているはずです。だから私たちは神の命をもっています。だからあなたは死なないのです。あなたはキリストの体となり、神様とキリストの家族になったのです。皆さんがキリストの体なら、あなたは決して死にません。キリストが死なないからです。皆さんがキリストの体なら皆さんの本国は天にあります。皆さんがキリストの体ならキリストと同じことができます。病気を癒し、悪霊を追い出し、神の国を伝えることができるのです。洗礼ってすごいですね。