2017年1月8日(日)主日礼拝説教

『今日救いを見た』 詩編92篇8~16節、ルカ福音書2章22~38節

1月6日はキリスト教の暦で「公現日(祭)」といって、昔はこの日にキリストの誕生、東方の学者たちの礼拝、洗礼などを一緒に記憶していました。「公現」というのはキリストが公にこの世に姿を現したという意味です。東方正教会では今でもこの日がクリスマス礼拝です。そこで今日は、降誕の最後のお話であるイエス様が神殿に献げられた箇所からお話します。イエス様は生まれて40日後に、初めて神殿に連れて行かれました。日本でも生後30日前後に「宮参り」という行事があります。(氏子になる行事らしいですが…)教会でも幼児祝福式(献児式)といわれている式を行い、産婦の無事な出産を感謝し、幼児の健やかな成長を祈る式をします。ここでも出産後のマリアに清めの儀式をするためと、幼子イエス様を神様にお献げするために行われました。この夫婦は貧しかったので山鳩二羽を捧げたようです。この主の奉献祭は「迎接祭」ともいわれ、2月2日と定まっています。

❶【神殿に主を連れて来たマリア】
この日、イエス様は初めて神殿に来ました。天にある真の神殿の写し、父なる神に最も近い場所、故郷である天に最も近い場所に来たのです。
さて、洗礼を受けた私たちも新しい神殿となりました。パウロは「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)と書いています。イエス様も「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛し、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14:23)と言っておられます。だから私たちは新しい神殿、神の住まいなのです。外に見えている肉体の弱さや欠点によってそのように見えなくても、事実そうなのです。私の中に神はおられます。内なる神と、外なる神が共鳴して響き合うのです。まるでイエス様を宿したマリアがやってきて挨拶した時、エリサベツの胎内にいたヨハネがおどって喜んだのと同じです。聖書が読まれて「神の声」が聞こえた時、自分の中に住んでおられる三位一体の神様が喜ばれるのです。マリアが神殿にイエス様を連れてきたのと同じ様に、私は今日皆さんの所にイエス様を連れて行きます。私が聖書を朗読する時、御言葉を語る時、祈る時、聖餐のパンとブドウ酒を与える時、母なる教会は新しい神殿である皆さんにイエス様を連れてくるのです。神殿が建物だけで、中身がなかったらおかしいでしょう。神殿の主人は神様です。私たちの心の中にイエス様を受け入れることは、神殿の中にその主人である神様が入るのと同じなのです。今日も、イエス様は皆さんの所に来ます。イエス様は神殿である皆さんの所に入りたいのです。皆さんがイエス様の家だからです。さあ、皆さんもシメオンのように両手でイエス様を抱きましょう。

❷【救いを待ち望む民、聖霊を受けた民】
エルサレムにシメオンという人がいました。彼は信仰が篤く「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25)とあります。クリスマスは待ち望む人たちでいっぱいです。ザカリアとエリサベツ、マリアとヨセフ、シメオンとアンナ、彼らはイスラエルの慰められるのを待っていました。彼らは待ち望む民であるイスラエルを象徴しています。詩編130に「私は主に望みをおき、私の魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。」(5~7)とあります。神を待ち望むのは聖書全体を流れるテーマです。しかしイスラエルのすべての人が待っていたのではありません。僅かの人が待っていただけでした。それを「残りの民」といいます。「私は柔和にして謙る民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。」(ゼファニア3:12口語訳)とあります。ここに出て来る人たちは待ち望む民、残りの民の末裔です。
この待つということを現代人はとても苦手とします。それは無駄な時間なのではないかと思ってしまいます。待つことは何も生み出せないと思っています。そうやってすぐに動き出します。動くのが正しい時もあります。しかし神に関しては正しくありません。神が必ず動く時があります。神が動かないのに、自分だけ動いても良い結果は出ません。なぜ神はこんなに長く待たせるのでしょう。アブラハムは約束の子どもを授かるまで25年待ちました。ヨセフは牢屋の中で約2年間待たされました。モーセは偉大な事業をするためにシナイで40年間待たされました。それは待つことに意味がないからではなく意味があるからではないのでしょうか。待つことが何も生み出せないのではなく、待つことによって何かが生まれるからではないでしょうか。
●私はこの教会に来て、人がいなかった時、朝も夕も7年間祈って待ちました。待たされたのです。その7年間は無駄だったのでしょうか。何も生み出さなかったのでしょうか。違います。人に何と言われても恐れない勇気が生まれました。キリストに対する確信が生まれました。聖霊が満ちて来る時間が必要だったのです。それが満ちた時奇跡が生まれました。この7年の待たされる時がなければ、今の私はなかったでしょう。病気の人は回復の時を待たされます。いくら焦っても、体は思うようになりません。その待たされる時は、何かを生み出す時なのです。前に飛ぶには後ろに引っ張らなければなりません。高く積むためには、基礎と土台をしっかり据えなければなりません。何事にも意味があるのです。

●私たちが待つためには、信じる力が必要です。教会から離れた人たちが何人もいます。彼らが帰って来るのを私たちは待ちますが、待つのが辛くなる時があります。「もうあの人は信仰を失ったのではないか、教会には来ないのではないか、神様を忘れてしまったのだ、待っていても無駄ではないか」と信じられなくなるのです。Nさんから電話が来ました。お連れ合いさんが教会に行くのを反対し、言葉のDVで何時間も責めるというのです。Nさんは「私はクリスチャンなのだからクリスマスに教会に行くのは当然だ」と言ったというのです。それを聞いて、ああこの人は信仰を失っていないのだ、教会に行きたいのに行けないのだ、と思いました。そして神様が助けて下さるように祈ろうと思いました。
相手の思いが分かれば信じられるのです。神の思いは聖書に出て来ます。だから神の言葉を読まなければ、神の思いが分からなくなり信じられなくなるのです。だから聖書を読み続けることが必要です。待ち望んだ人たちは最初に何らかの言葉を聞いています。ザカリアは「恐れることはない。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」(ルカ1:13)、マリアには「恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む。」(ルカ1:30)、ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(マタイ1:20)、シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」(ルカ2:26)という言葉を聞きました。彼らは注意して聞き、聞いたことを心に留め、忘れないように思い巡らしました。だから信じられたのです。
また、信じるためには祈らなければなりません。祈りとは神との交わり、対話です。祈っていると神の言葉を聞くだけでなく、聖霊がやってきてその人の上にとどまります。ユダヤ人の思想家シモーヌ・ヴェイユは「期待しながら忍耐強く待つことは、霊的生活の土台である。」といっています。神殿の中に多くの人がいたのに、彼ら以外にイエス様のことが分かりませんでした。なぜなら多くの人は、神と交わること、祈ることを止めてしまったからです。祈りをやめた人からは聖霊が去ります。聖霊が去れば、神の子が来ても分からないのです。シメオンがイエス様を分かったのも、彼の上に聖霊がとどまっていたからです。「シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入ってきたとき」(27節)とあります。鉄と磁石が同じ性質なので引き合うように、聖霊もイエス様も同じ神なので、互いに引き合うのです。聖霊をもつことがどれだけ大切かということがお分かりですか。聖霊は私たちを《本当の命であるキリスト》のもとへ導いてくれます。聖霊がとどまっている人は、永遠の命へ導かれるのです。つまり死なないのです。私たちは死へ向かって生きているのではありません。命に向かって生きているのです。聖霊は、この世ではキリストの体である教会へ皆さんを導き、来世では神の国と、キリスト本体へと皆さんを導きます。聖霊はこの歴史を超えて、皆さんを導いていきます。

❸【私はこの目で救いを見た!】
シメオンは幼子イエスを腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29~32)彼は「私はもうこれで安心して死ねる」といったのです。これはヌンク・ディミティスといわれ、晩課で毎日歌われるようになりました。晩の祈りというのは、寝る前の祈りです。つまり死の準備の祈りなのです。シメオンやアンナといった老人たちは旧約聖書を象徴しています。長かった旧約の時代は今、歳をとり終わろうとしています。そこへ新約聖書の象徴であるイエス様が現れました。旧約聖書と新約聖書はこうして出会い、旧約は自分の使命を終えて新約にバトンタッチしていきます。こうして旧約は新約によって完成します。また、老人シメオンは死の象徴です。一方幼子イエス様は命の象徴です。老人シメオンは、幼子イエス様をその手に抱きました。今、死は永遠の命を抱き、死は再び命に接ぎ木されて生き返ったのです。

私は最初、イエス様が神殿に献げられた物語を今日は話しますといいました。「両親は幼子のために律法の規定どおりいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」(ルカ2:27)とあります。クリスマスの時も思いました。この子は最初から生きるためではなく、死ぬために生まれたのだなあと。それがはっきりしたのが今日の物語なのです。「いけにえを献げようとして」とあります。イエス様は全世界の人の為のいけにえなのです。主の奉献は、この子の上に将来起こることの予象となっているのです。だからシメオンは最後にマリアに預言します。「この子は、…反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」(ルカ2:34~35)何というすごい預言でしょう。祝福されるために神殿に来たのに、この子を待ち受けていたのは「いけにえ」になるという「定め」でした。「定められている」という言葉が二回も出て来ます。死ぬことがこの子の定めなのです。この小さい赤ん坊が将来、自分の罪を負って死ぬことがシメオンには見えたのです。
●朝子がまだ1歳の頃、寝ながらビードロを口に咥えて遊んでいた時、口の中でビードロが割れて、怪我をしました。私たちはその危険性に気がつかなかったのです。急いで割れたビードロと破片を口から出し、泣き叫ぶ朝子をひっくり返して口の中を洗い、救急車を呼んだことがあります。あの時、私の心の中に浮かんだ思いは「ああ、どうしようこの子を傷つけてしまった。死んだらどうしよう。両親たちに何て言って詫びたらいいだろうか。」という思いでした。幸い、レントゲンでも何もありませんでした。大切に育てて来た子を傷つけたという思いは、ショックでした。
想像してみてください。傷もなく汚れもない幼な子が、傷だらけで汚れた私の罪を負うのです。生まれたての清い望実ちゃんの上に、あなたの罪、汚れ、傷を載せられますか?あなたは堪えられますか?この幼子イエスの上に、私の汚れが移されるのです。私たちは自分で自分を傷つけ、汚しました。これは自分のせいです。でもなぜこの私の罪、傷、汚れをこの子が負わねばならんのですか。でもこの子しかいないのです。あなたの罪、汚れ、傷を負えるのはこの子だけなのです。それがこの方の定めなのです。そうやって私たちは罪の鎖、死の奴隷から解放されるのです。この小さい赤ん坊が将来、自分の罪を負って死ぬことがシメオンには見えたのです。この子によって自分は呪いから解放されるのが見えたのです。だからシメオンは「私はこの目で救いを見た!」と声高らかに宣言したのです。あなたもイエスの中にあなたの救いを見なさい!そして声高らかにいいましょう。「私はこの目で救いを見た!」