2017年1月1日(日)主日礼拝説教

『キリストとヘロデ』イザヤ65章17~20節、マタイ福音書2章13~23節

新年明けましておめでとうございます。2017年になりました。昨年もいろんなことがありました。アメリカ大統領選、世界各国でのイスラム国によるテロ事件、南シナ海問題、イギリスのEU離脱、リオオリンピック、熊本地震、相模原知的障碍者施設での事件、小池新知事誕生などなど。世界はどこに向かっているのでしょう。私たちはどのように生きればいいのでしょう。聖書からそれを聞きたいと思います。

❶【あなたは誰を自分の王としますか】
クリスマスは終わりましたが、実は始まったのです。クリスマスの出来事というのは、おめでたいことだけではありませんでした。イエス様が生まれたことによって、ベツレヘム周辺にいた罪のない2歳以下の子どもたちの命が無残にも失われました。これはヘロデ王が、自分とは別の王が生まれたことを恐れて、キリストを殺そうとしたからです。このヘロデという王は、ユダヤ人ではなくエドム人でした。ローマによってユダヤの王にしてもらった人間です。彼はものすごく疑い深い人で、自分の地位を脅かす可能性のある人たち(過去の王家の人たち、妻、姑、自分の3人の子供)を殺してしまいます。必死になって自分の地位や立場を守ろうとした人で、そのために周りの多くの人が犠牲になったのです。2歳以下の子どもが殺された理由は、東方から来た占星術の学者たちがエルサレムに着いた頃にはイエス様は既に2歳くらいになっていたからです。
光の登場によって闇はいっそうはっきりします。本物が現れたときには、偽物ははっきりしてしまいます。それだけイエス・キリストというお方が本物であるという証拠なのです。キリストの誕生によって人々は、はっきりと二つに分かれることになるのです。キリストに従う者と、別の者に従う者。キリストを王とする者と、別の者を王とする者。イエス様がベツレヘムに生まれることを祭司長たちや、律法学者たちは知っていましたが、彼らはイエス様の所に行きませんでした。ヘロデを恐れたからです。彼らは自分たちが生きるためにイエス様ではなくヘロデを選んだのです。福音書の最後に、もう一度イエス様は王様の姿で現れます。それはピラトの裁判の時です。兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手で彼を打ちました。イエス様は茨の冠をかぶり、葦の棒を王笏とし、紫の衣を着て群集の前に立ちました。王の姿です。ピラトは群集に尋ねます。「誰を釈放してほしいのか」ピラトがイエス様を釈放しようとすると、群集は言います。「私たちには、皇帝のほかに王はありません。」(ヨハネ19:15)
●先日、TVを見ていたら興味深いニュースを流していました。除夜の鐘を真夜中ではなく、昼間に行うお寺があるというのです。それは近所から「うるさい」という苦情がSNSに寄せられたからというのです。それだけではありません。同じように「うるさい」ということで、音のない静かな盆踊りをしたり、0157の影響で正月の餅つきも中止したり、小学校の組体操も、人権問題で中止したりしているというのです。それらをまとめてニュースでは「不寛容社会」と名づけていました。町の人々は「時代が変わったんだよ」と言っていましたが、変わったのは時代ではなく人間です。マンションの中に児童相談所を作ったり、保育所を作ったりすることを住民が反対している場所もあります。「子どもの声がうるさい、迷惑だ、誰か変な人が入って来るかもしれない」と、みんな自分の事だけを考えて、壁を造り、人を思いやる心を忘れてしまったのです。それだけ現代人の心が貧しくなっているということだと思います。それは宗教を失ったからです。自分が王になり、真の王を知らないからです。
王という字は、横の三本の線が「天、地、人」を表し、縦の線がそれをつなぐことによって「天、地、人を治める者」を意味するといいます。偽りの王は天、地、人を破壊しますが、真の王は天と地と人を生かします。あなたはどちらかの王を選ばなければなりません。イエスという王か、この世の王か。この世の王は自分の中にもいます。あなたがもし、必死になって自分の正しさや考え、自分の立場を守ろうとするならあなたの心の中にヘロデが生まれるのです。そのことによって周りの人が犠牲になります。キリストの前では降参しなければなりません。キリストを王とし、キリストの言葉を正しいとするなら、あなたの中のヘロデは死ぬのです。

❷【悪は必ず消滅し、善が残る】
クリスマスの時、イエス様はこの世に生まれました。するとさっそくヘロデによる迫害が始まりました。それと同様に、私たちが聖書を読み、礼拝をすると、信仰(イエス様)が私たちの中に生まれるのです。するとすぐにその信仰を殺そうとする悪魔の力が私たちに全力で襲いかかってくるのです。信仰は赤ちゃんのように小さく弱く見えます。それらを殺そうとする世の力は強く見えます。しかしその小さな命を守ってくれた多くの人がいたことが分かります。マリアにヨセフ、犠牲になった幼子たち、その子の親たちです。この小さなイエスを生かすために、いかに多くの人が苦労をし、涙を流したことでしょうか。私たちが今日、このように信仰が出来るのも、多くの人があなたを愛し、あなたを助け、あなたのために祈り、あなたの失敗を赦し、犠牲になってくれたからなのです。多くの人の犠牲の上にあなたは信仰しているのだということを忘れないようにしましょう。
それにしても神様は人間の手に小さなイエス様を任せて不安ではなかったのでしょうか。イエス様は殺されそうになっても、とことん逃げ回ります。エジプトに逃げ、ヘロデが死ぬまでそこにいました。父なる神様は、ご自分の独り子であるイエス様が迫害されても、すぐに手を下してヘロデを滅ぼすことは決してしませんでした。ただ、逃げるように指示し、そのために必要な助け手を与えました。神様が悪に追いかけられて逃げ回っています。何で聖書の中に出てくる神様はこんなに弱いのだろうと思います。それは今の時代も同じです。神はこの世界に本当におられるのか、なぜ悪を滅ぼしてくれないのか、神に期待してもいいのだろうかと私たちは思ってしまいます。でも神様はこれらの物語から、悪は自滅するから放っておきなさいと言っているのです。どんなにこの世に悪が満ちても、善を滅ぼすことが出来ない、信仰を滅ぼすことは決して出来ない、ということを聖書は言おうとしています。聖書をよく見て下さい。「ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(15)、「ヘロデが死ぬと」(19)、「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(20)、と繰り返し「ヘロデは死んだ」と言われています。ヘロデは必ず死にます。悪は必ず消えるのです。そして最後には信仰と善と命が残るのです。これが世界はどこに向かっているかの答えです。だから希望を持ちましょう。ただあなたの中に宿ったイエス様の命、イエス様への信仰を大切にしましょう。この命は墓の中に閉じ込められても、そこから出てきた命、決して殺すことの出来ない命です。この信仰はどんな闇の中でも輝くことのできる信仰です。この信仰と命を宝のように守りなさい。これがあなたを生かし、希望を与えてくれます。

❸【どのように一年を生きたらいいのか】
ではこの一年、どのように生きたらいいのでしょう。第一に、礼拝を大事にすることです。ある本に「イエス様が生まれてから、教会は2000回クリスマスを守ってきた」と書いてありました。たったそれだけ!と思いました。一人の人なら長くて80回くらいでしょうか。私などまだ35回しか祝っていません。そんなに守れませんよ。だからこそ一回一回を大切にしたいのです。
パウロは「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今私たちは生きていると言えるのです。」(1テサロニケ3:8)と言っています。主にしっかり結ばれるのは礼拝の時です。礼拝をすると生きるのです。礼拝すると不思議と新鮮な気持ちになります。それは命をもらうからです。そうでないと希望と気力と喜びを失います。礼拝は私たちにとって命のようなものです。礼拝をしないと死ぬ、苦しくなる、礼拝をしないと力が出て来ないのです。すべての原点は礼拝にあります。自分の力や感情に頼る信仰をしてはなりません。一時的に感動すれば心も高揚し、気分はよくなります。しかし感情は変化します。同じ状態を保つことは出来ないのです。自分の中から一切良いものは出ないと覚悟してください。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコブ1:17)。良い物は上から、神から来るのです。自分を賢いと思ってはなりません。
「木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」という言葉があります。斧とは自分自身のことです。自分自身が錆びていたら、木も切れません。自分をまず磨くことです。人は天から与えられなければ何も持つことは出来ません。まず神と交わり、それからこの世に遣わされたいと思います。

第二に、自分の出来ることをたんたんとしなさいということです。
●「明日世界が滅びる(終わる)としても、今日私はリンゴの木を植える」という言葉を聴いたことがありますか。マルティン・ルターの言葉です。明日世界の終わりが来ようとも、人生の幕が閉じようとも、最後まで為すべきことを精一杯やるということです。明日ぜんぶ消えてなくなっちゃうなら、リンゴの木を植えても無駄ではないかと考えるのが普通でしょう。この世が全てならそうでしょう。しかしキリスト教徒には神の国が待っています。神の国で貰える栄光、栄誉を思えば無駄なことは何一つありません。
ジョン・ウエスリも同じことを言っています。ある人がウエスリに「あなたが明日の晩12時に死ぬと決まったら、どんな用意をしますか」と尋ねました。彼は「やはり今決めている通りのことをするだけです。今夜と明朝はグラウセスターで説教し、そこから馬に乗ってチウクスバリーに行き午後に説教し、夜は信者たちと会い、友人のマーティン君のところに泊まり、その家族とお話してから、神様に祈り、10時に寝て、翌朝栄の国に目覚めるだけです。」といいました。
私たちもそのように生きたいと思います。今年もそんなに大きなことはできないかも知れません。計画を立ててもその通りにいかないこともたびたびです。昨年もそうでした。しかし神様が用いてくだされば、何かすばらしい業をすることが出来るでしょう。なぜなら良い業は、人間が自分でするものではなく、神様が用意して下さるものであり、させてもらうものだからです。私たちは「神様のしもべ」なのですから、神様に用いてもらうためにもしっかりと準備しておきたいと思うのです。2016年流行語大賞は「神ってる」でした。「神がかっている」の略語です。クリスチャンが「神がかって」いなければ一体、誰が「神がかって」いるのでしょう。神ってる都島教会、神ってる牧師、神ってる皆さんでありますように祈ります。