2016年12月25日(日)降誕祭主日礼拝説教

『恐れるな』ミカ書5章1~2、6節ルカ福音書2章8~20節、井上隆晶牧師

❶【恐れるな】
クリスマスおめでとうございます。この世に救い主イエス・キリストが生まれたことをお祝いする降誕祭です。以前この箇所から、「賛美する群れ」が生まれたことは奇跡であり、何も変わらない現実の世界の中に賛美しながら帰ろうというお話をしました。今日は別のお話しをしたいと思います。
皆さんは、夜空の星々をじっと見つめていたことがありますか。子どもたちがまだ小さかったころ、友人の家族と一緒に、しし座流星群を見に行ったことがあります。高槻の山の上まで行き、野原に寝そべって夜中じゅう、星が流れるのをじっと待っていました。イエス様が生まれた日も同じでした。羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていました。たぶん、ベツレヘムの郊外の丘に寝ころびながら、夜空を見上げて、天の星々を見ていたことでしょう。もともと星座というのはバビロニアの羊飼いたちが造ったと聞いたことがあります。じっと空に輝く星を見ていたらいろんな形に見えて来たのでしょう。羊飼いたちが星を見ていたら、一つの星の輝きがだんだん大きくなり、その光がどんどん近づいてきました。そして彼らの目の前に光り輝く天使となって現れました。その光は地上のいかなる光とも違う神の光でした。天使はいつも神の前にいるので、神の光を受けて輝いているからです。「天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:11)と書かれています。その天使が彼らの前に立ったということは、羊飼いたちは神の前に立つ経験をしたということなのです。想像してみてください。羊飼いたちは「非常に恐れた」(ルカ2:10)と書かれています。まともに顔を上げて見ることが出来なかったのではないでしょうか。そんな彼らは驚くべき言葉を耳にしました。天使の第一声は「恐れるな。」でした。この言葉が私の心にすーっと入って来たのです。神の前に立っても「恐れるな」というのです。なぜ恐れなくていいのでしょう。あなたはもう赦されているからです。あなたは神に愛されているからです。私たちは神をもう恐れなくてもいいのです。それがまずあなたに伝えたいことです。
私たちはいつも怖れでいっぱいです。罪を犯したら神に愛されないのではないか、聖霊は去ってしまうのではないか。立派になり、成果を上げなければ、神にも人にも認められないのではないか、叱られるのではないか、一人ぼっちになるのではないか、笑われるのではないか、誰にも愛されなくなるのではないか、などいろんな恐れが私たちの心の中にあります。それらをすべて打ち消すように天使は「恐れるな」といいます。この言葉はイエス様が弟子たちに今までも何度もいってきた言葉です。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:11)漁師のペトロを召命した時にいわれた言葉です。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」(マタイ14:27)海の上を歩くイエス様を見て弟子たちが恐れた時いわれた言葉です。「起きなさい。恐れることはない。」(マタイ17:7)山上でイエス様が変容した時、弟子たちは恐れていると、イエス様が近づき手を触れて言われた言葉です。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)、「恐れることはない。…かねていわれていたとおり復活なさったのだ。」(マタイ28:10)彼らは何度も「恐れるな」と言われ続けてきたのです。それなのに人間はすぐに恐れてしまいます。
●先日、心なごむ会であるお母さんのお証しを聞きました。その方の息子さんは発達障害でシンナー依存です。友達の気を引くために父親の財布からお金を取って物を買い、皆に配っていました。叱ると家を飛び出し、家族が探し回るということを繰り返していました。14歳からシンナーを吸うようになり、30歳まで吸っていました。吸わないのは病院に入院している時だけでした。母親は本人に黙って夜中にこっそりとシンナーの一斗缶を草むらに捨てに行きました。でも捨てたと思ったのに、次の日にはまた一斗缶が部屋にあるというのです。「おかん、教えたろか」といって、シンナーが置いてあるトラックの荷台のシートを剥がして見せてくれるというのです。塗料屋から盗んでくるのです。タクシーに乗って夜中に帰って来ます。夜中に大声でわめき、近所迷惑になるから母親はタクシー代を払いに行きました。夜中の物音で近所の家の窓が開くというのです。病院に行けば「お母さん、まだそんなことをしてるんですか。」と怒られます。母親は自助グループに休まずに通いました。息子さんは10年間ものすごい数の精神病院に入院し、病院では依存症はやめられないというのに気がつきます。彼は泣くだけ泣いた時、「生きていていいんだよ」という不思議な声を聞いたといいます。彼は「俺は生かされているんだと」という思いに変わりました。それまでは「俺だけがどうしてこんな目に遭うんだ」と文句をいって生きてきましたが、その時から彼は変わりました。本人を見た時、母親は一目で息子が変わったことがわかったそうです。そして普通の人として見なければいけないという思いに母親も変わりました。「私もあの人も大切な人。私も大切。私を一番大切にしなければならないと思えるようになった。以前は上から目線で息子を見ていた。でもあの人は、あの人なりにいい所がいっぱいあるのに気が付いた。息子のことはもう口出ししません。あの人はあの人、自分は自分だと思うと腹が立たなくなった。今まで苦しかったが、このことに気づくためだった。」最後にお母さんは面白いことを言っていました。「悲しい悲しいと思っている人は不幸になります。感謝しないといけません。朝、目が覚めたら、上に住んではる方に祈って、一日精一杯生きる。夜は、また感謝しますと祈る。上にいる人は見てまっせ。」彼らはクリスチャンではありません。でも何と見事に神に出会い、自立したことでしょう。彼らは神様のことを「ハイヤーパワー」と呼んでいます。そして息子さんは今、依存症の回復のために若者のグループを立ち上げ、世界にまで出かけて活動しています。
神に出会った人は、必ず神の大きな愛を体験します。すると隣人との距離を正しく取れるようになり、自立することが出来るようになるのです。アググスティヌスは「人間はどんな偽りの愛にも、ひきずられるほど愛に飢えている」と言いましたが、本当の愛だけが人を自由にし、その人を救ってくれるのです。誰に愛されるかが人の生涯を決定します。そうでないと「愛されたい」という恐れに支配され、人間関係がぐちゃぐちゃになるのです。神との関係が出来た人は、人との関係もきちんとできるのです。
●渡辺和子シスターがこんなことを書いていました。「あなたは、他の誰かにならなくてもいいのですよ。あなたしか送れないあなたの人生に、自分しかつけられないあなたの足跡をつけて生きなさい。」
私たちは人と自分を比較し、「ああなれなければ駄目だ」と思っています。私たちはどうしても条件付きで自分を愛しています。条件に合う自分の時は、自分を受入れますが、そうでない時には受け入れたくありません。自分を愛するとは、条件抜きで、どんな自分でも価値あるものとして大切にすることです。人は本当に愛されることによって、自分を好きになります。それは神によって初めて実現します。神の愛は無条件だからです。あなたが立派だから愛するのではありません。駄目なあなたも変わらぬ愛で愛されます。その愛は太陽のようなもので変わりません。愛を知った人は心にゆとりが出来ます。馬鹿な自分を愛せる人は、他人の言葉や評価を怖がりません。そんな自分でも神様が愛していることを知っているからです。

❷【今日救い主がお生まれになった】
天使は羊飼いにいいました。「私は、民全体に与えられる大きな喜びを伝える。今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」私は今年、この言葉が聖堂で読まれた時、不思議な感動を覚えました。イエス様は本当にこの世に来て下さいました。ついにこの日が来たのです。これは単なる誕生ではありません。降誕です。神が天から降って人となって生まれた日です。讃美歌268番で「あめつちのあるじ、世にあらわる、造られしものは、動き歌え。」と賛美したように、今日、天地を創造された神が、地にあらわれました。讃美歌262番「神の時満ちて、おとめに宿り、人となりたる神のみことば。」「死すべき人を生かすために、御子は生まれぬ。まぶねの中に。」讃美歌259番「永遠なる神の言葉、肉となりにし、この良き日、迎えまつれ、人なる主イエスを。来たりて拝め、来たりて拝め、いざ共に。」讃美歌っていうのはいいですね。見事ですね。簡単な言葉で的確に今日の出来事を伝えています。
「言(神)は肉となって、私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)とヨハネはいいました。原語は「そして」という言葉がついています。「そしてついに、言は肉となった」とヨハネは感動して言います。なぜ、「言は人となった」といわないで「言は肉となった」というのでしょう。「肉」とは地に属する、限界に満ちた、移り行き、死を負って生きるものを指します。当時の人々は「神の現れ」を一般的なこととして受け入れていました。しかし、それは天にいる神が、地上に姿を現すことでした。当時の教会において盛んであったグノーシス的キリスト教は、神が肉になるということなど、決してあってはならないことでした。肉は汚れであり、腐敗だからです。しかし教会は宣言します。天と地が、霊と肉が、永遠と時間が、命と死が、無限と有限がキリストの中で一つに結ばれました。こうして地に朽ちて行く私たちは天に引き上げられました。私たちの肉の弱さ、醜さ、汚れ、病、限界を悲しんではなりません。イエス様がこの世に来たのは、あなたを救うためです。イエス様が来たということは、神の国が来たということです。天国の門が地上で開いたということです。人間の誕生と死を含む、人間のすべてを神が担い、共に分かち合われたのです。それは神の全てを人間に分け与える為です。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)という聖書の言葉がそれをよく伝えています。
●私は最近、何が起こってもあんまり動揺しなくなりました。以前は一度に10人くらい信者さんが来なくなると落ち込み、恐れと不安に支配されました。そのような出来事は周期的に何度でもやってきました。その度に「またか!」と恐れで満たされました。今年もやってきました。でも今回は違ったのです。何か私の中で恐れが消えたのです。私を通して神は働いておられることを信じよう。教会のことも、この世のこともすべては神様が何とかなさるだろう。最初から私の弱さや欠点をすべて知っていて神が雇われたのだから、全責任は神がもってくださるだろう。いちいち目先のことで悩み、落ち込むのはもうよそう。そんな周りの出来事で自分の人生を暗くするより、喜んで生きよう。自分を大切にし、幸せになろう。礼拝できることを楽しみ、神の愛をいっぱい受けて気楽に生きよう、と思えるようになったのです。私の中に巣くっていた恐れが一つ消えたのだと思います。
アメリカの神学者ピールという人は「主にある気楽さ」という言葉を使っていますが、まさにその通りです。
天使は今日、皆さんにいいます。恐れてはいけません。自分の家族が信者でないからと恐れてはいけません。あなたが家族のために祈れば、彼らの罪は解かれます。教会にはその力が備わっています。信仰を持つことは選びなのです。選ばれてない人に腹を立ててはなりません。あなたの祈りによって家族が天に引き上げられることを疑ってはなりません。この世とその支配者を恐れてはいけません。彼らは私たちを酷使しますが、何もできません。合わせてやりなさい。この世の物を奪われても、決して奪えない命をあなたは持っているのです。死を恐れてはいけません。キリストの体となったあなたを死は支配できないからです。あなたは誰に愛され、誰の体であるかを思い出しなさい。自分の未来を恐れてはいけません。天国の前払い金としてすでにあなたは聖霊を受けています。聖霊はその証印であって、あなたには「キリストのもの」という署名がされているのです。やがてあなたは残りのもの、神の国、完全な体、永遠の命を必ずいただくことになります。キリストのものに誰も手を出せません。神を恐れてはいけません。神を、神の約束を信じ、希望をもってこの世をお気軽に生きなさい。