2016年11月27日(日)主日礼拝説教

『人の子は来る』 井上隆晶牧師
イザヤ30章15~21節、マタイ24章36~44節

今日からキリスト教の暦で待降節という期節に入ります。クリスマスまでの四週間を、イエス様をお迎えする準備の時として守ります。25日の金曜日の朝のお祈りの後に礼拝堂の飾りつけをしました。説教台のカバーも青にし、私の祭服も紫色になりました。この待降節というのは「冬のレント(受難節)」といって、古くは信者が自分自身を深く顧みる禁欲と節制の時とされていました。だから典礼色が紫になっているのです。やがてこの期節は、むしろ喜びと楽しさにあふれて、イエス様のお生まれを思い起こす時となり、それと同時に、再びやってくる「再臨のキリスト」を待望する時となっていきました。こうしたいろんな意味をもつアドヴェントの期間の過ごし方について今日はお話したいと思います。

❶【待降節の迎え方】
待降節はラテン語でアドヴェントゥスといいますが、その意味は「到来する」という意味です。イエス様が2000年前にこの世界に到来したことと、再び到来される(再臨)ことを記憶します。先週の木曜日「聖書に学ぶ会」の話です。
・「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたが、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や、霊によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(エフェソ3:3~5)
創世記でアダムが罪を犯し、この世界の中に死と崩壊を招き、自らも崩壊していった時、神は既に人間と世界の救いの計画を立てておられました(創世記3:15)つまりアダムを罪と破壊へと誘った悪魔が、やがてメシアによって砕かれ死ぬという計画です。その計画はイエス様の十字架と復活によって成就しました。弟子たちは最初、イエス様の十字架と復活の意味が分かりませんでしたが、パウロに神はその意味を教えられました。パウロはその神の計画を啓示によって知らされた時、驚いたことでしょう。今まで彼が読んできた旧約聖書がすべてつながり、ばらばらだったパズルが組み合わされて全体が見えてくるように謎が解けたからです。山の上から遠くを見渡すことが出来るように、この世界の将来が見えてきたのです。K姉が東京の集会で、ユダヤ教からキリスト教に改宗された方の話を聞かれたそうです。彼がいうには、ユダヤ人は新約聖書を読まないので、未だにイエス様によって救いが完成したことを知らないらしいのです。歴史が止まったままなのです。しかし新約聖書を読めば、すべての時代はこのキリストに向かうようにできており、神はそのように導かれたことが分かります。キリストの到来は歴史の中心的な事実であり、歴史の要です。イエス様が2000年前にこの世界に来てから、世界の歴史はオセロのように180度変わったのです。キリストは来て、この古い世界を十字架につけて終わらせ、新しい世界を創造されたのです。ご自分の中で神と人を一体にし、神と人は家族となり、十字架の上で古い体を破壊し、三日目に死ぬことのない新しい体を造られました。人の罪はキリストの十字架で贖われ、人の死はキリストの復活によって終わったのです。
クリスマスは12月25日です。それは昔、太陽神アポロンのお祭りの日でした。日本ではこの時期に「冬至の祭り」があります。その日を境に日が長くなります。冬は太陽が死ぬ季節です。太陽の力が弱くなるので植物も死にます。しかしこの日から太陽が強くなってくるのです。それゆえ植物も命を吹き返します。12月25日は、この太陽が強くなることを祝った祭りだったのですが、それを教会はキリストの誕生日にしてしまいました。本当のキリストの誕生日は4月くらいだと言われていますが、神学的な意味での誕生日にしたのです。キリストの到来によって死は終わり、命が始まって行くのだという事を伝えたかったのです。しかし人々は言います。キリストが来て世界は救われた、新しくなったというけれども現実の世界はぜんぜん変わっていないではないかと。益々悪くなるではないかと。
●昔、「全国子ども電話相談室」というラジオ番組を聞いたことが有ります。一人の男の子がこんな質問をしました。「12月に冬至があって、それを過ぎると昼がだんだん長くなるのに、どうして1月や2月の方が、12月より寒いのですか。」その質問に対して専門家の先生はこう答えました。「それはね、地球という星はたいへん大きいものだから、冬至を過ぎて、昼の時間が長くなっても、全部が暖まるまでにはとても長い時間が必要だからなんだよ。」
人間の世界も、あまりにも大きく複雑なので、キリストが来ても、すべてが新しくなるまでは長い歴史が必要なのです。真冬のような重く、冷え切った世界の中で、それに押しつぶされたり、押し流されたりすることなく、それに耐え、絶望と抵抗しながら、やがて世界が神の愛で暖かくなることを信じるように聖書は語っているのです。私たちは将来に対して希望をもっています。

❷【闇の中で神の言葉を聞け】
この待降節をどのように過ごせばよいのでしょうか。アメリカでトランプが勝利し、アメリカは一体どこに向かっているのだろうかと思います。政治家に絶望した民衆は、自分たちを導いてくれるカリスマ的な指導者を求めているようです。
●心理学者の河合隼雄さんが子どもの頃に読んだ一つのエピソードを書いています。「何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまいました。あわてて帰りかけましたが、潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角が分からなくなり、そのうちに暗闇になってしまいました。都合の悪いことに月も出ていません。必死になってともし火(松明)をかかげて方角を知ろうとしますが見当がつきません。そのうち、一同の中の知恵のある人が、灯を消せと言いました。不思議に思いつつ気迫におされて消して見るとあたりは真っ暗闇になりました。しかし、だんだん目が慣れてくると、まったくの闇だと思っていたのに、遠くの方に浜の明かりのための、そちらの方がぼうーと明るく見えてきました。そこで帰るべき方角がわかり無事に帰ってきたというのです。」
この話は、現代の私たちに十分通用するお話です。不安にかられてそれぞれの灯(知識や判断)を灯してうろうろする人に対して、自分の灯を消してしばらくの間は闇に耐えなければならないけれども、そのうちに必ず光が見えてくるということを教えているのです。闇は怖いものなので、なかなか人は自分の持っている灯を消そうとはしません。時には、油が尽きて灯が自然に消えるまで待たなければならない時もありますし、急を要する時には、灯を取り上げて海に投げ入れてしまうという荒療治をしなければならない時もあるでしょう。
旧約聖書のイザヤ書に、エルサレムの町がアッシリア軍に包囲されたという出来事が書かれています。指導者や民は恐れ、うろたえ、エジプトに援軍を頼もうとしました。神よりエジプトの方が頼りになると思ったのです。そんな中、預言者イザヤは民にこう叫びました。「お前たちは立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ30:15)しかし多くの群集は「そうしてはいられない。」といって馬に乗ってエジプトに逃げて行ったのです。イザヤは「あなたの耳は背後から語られる言葉を聞く。これが行くべき道だ。ここを歩け、右に行け、左に行けと。」(イザヤ30:21)といいます。後ろから「~さん」といって声をかけられたら足が止まりませんか。神様はそのように歴史を歩む私たちの後ろから声をかけます。その声を聞いて、歩みを止めるのです。そして軌道修正をするのです。それが礼拝です。

悪魔はこの世の闇をどんどん大きく、深く、濃い物であるかのように思わせようとします。そして闇が世界を覆ってしまうのではないかという恐怖を与えます。人類は自分たちが作り出した光で、何とかこの闇を追い払ったと錯覚しましたが最近はこの闇に対抗できなくなってきています。あなたの知恵で何とかなるような闇ではないのです。あなた知識では必ず闇に飲み込まれます。神から来た光であるキリストがこの闇を滅ぼします。この光は決して消えない光だからです。
今日の聖書の箇所で、イエス様は再臨の時はいつだか誰も知らないのだから、目を覚まして待ちなさいと言われました。ノアの時、人々は救われる人と、滅びる人に分けられてしまいました。それと同じように、再臨の時にも人々は二つに分けられてしまうというのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである。」(マタイ24:42)目を覚ますとは、神を信頼して、その約束の言葉にとどまることです。眠る人は夜眠ります。夜とは光のない時です。神という光に照らされない者は、闇に支配され信仰が眠ってしまいます。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。」(43節)泥棒とは悪魔のことです。悪魔は夜やってきます。神がいない時にやってくるのです。「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。」(マタイ13:18)だから、いつも神の言葉という灯をともして目を覚ますのです。神の言葉こそ「まことの光、まことの灯」です。エリアが聞いた神の言葉は「細い言葉」でした。耳を澄まさないと聞こえないようなかすかな言葉でした。同様に、神の言葉という灯も暗闇の中で目を凝らさないと見えない灯なのです。この世の光の方が強く魅力的に見えます。トランプとか安倍とかいう光が何とも頼もしく見えるのです。だからこそまず自分の光を消して、静かに神の言葉を聞くのです。それが目を覚まして生きる生き方です。
ところで、神様を本当に信頼しても大丈夫でしょうか。イザヤ30:1に「彼らは謀を立てるが、私によるのではない。盟約の杯を交わすが、私の霊によるのではない。」という言葉を読みました。イスラエルは神を頼らず、エジプトと契約を結びました。神と共に謀り、神の霊と同盟を交わせというのです。主は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束をしてくれました。でも、私たちは目の前の状況が上手くいかなくなると、神は約束を果たす力がないのではないか、また、私たちの罪や弱さのゆえに、私から離れてしまったのではないかと思ってしまいます。神の約束というのはそんなに軽いものでしょうか。人間は自分が簡単に約束を破るので、神も同じように約束を破るのではないかと思っています。そんな神でしょうか。そうではないと思います。
●及川信という人がクリスマスについてこんなことを書いていました。「世の中のクリスマスは甘すぎる。…皆、古い自分を喜ばせすぎる。聖書を読めば、クリスマスとは神ご自身が危険な旅に一歩を踏み出したことである。神様がその在り方を変えたのだし、御子も十字架への歩みを始めたのである。…その御子をわが身に迎えるクリスマスが、家族や恋人、あるいは友人たちが会って楽しむだけであるはずがないではないか。」
アドヴェントという言葉からアドベンチャーという言葉が生まれました。冒険という意味です。アドヴェントは神様の冒険なのです。神が人となってこの世に来たという事は、神様の相当な決心と覚悟なのです。神様がその在り方を変える決心をしたのです。だから神は本気です。本気で私たちとこの世界を救おうと決心されたのです。私たちは神と契約を結びました。それが洗礼であり、聖餐です。この後、聖餐式で「新しい契約の杯」を飲みます。神は私と契約更新をします。だから必ず、約束を果たされるでしょう。私たちは神を信頼していいのです。
イスラエルの民は長い間、救い主を待っていました。そして高齢の祭司ザカリアに洗礼者ヨハネが生まれたのです。それはやがて救い主がやってくるしるしでした。もう間もなくメシアが来るという期待にわくわくして老人たちは胸が躍ったことでしょう。私たちにも既にしるしが与えられています。この地に教会があり、私たち信じる者が起こされていることです。主は必ずこの地を完成するために来られることでしょう。この世界は神のものなのですから。私たちは出来る限りをして、後は気を楽にして、安心して待っていたらいいのです。