2016年11月20日(日)主日礼拝説教

『永遠の命の収穫』 井上隆晶牧師
フィリピ3章3~11節、ヨハネ11章21~27節

❶【キリストに出会って変わる】
皆さんの中で、何かの出来事や、誰かに出会って人生が180度変わったという経験をした人がいると思います。聖書の中に出て来るパウロという人もそうでした。「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)といっています。パウロはとても熱心なユダヤ教のグループ(ファリサイ派)に属していました。しかし彼は、今までの人生でとても考えられないことを体験したのです。それは復活したキリストに出会ったのです。それが彼の人生を180度変えてしまいました。彼が今まで大切にしていたもの、自分の人生で誇りに思っていたもの、それが5節から~6節に書かれています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、…」それは一言でいれば、生まれ、国籍、学歴、信仰、正しさです。何が出来るか、何を持っているかということです。これは今もこの世の人が誇っていることです。でもそれらの自慢していたことがまことに馬鹿馬鹿しいものに見えてきたというのです。
●イザヤ書27章に最後の審判のことが書かれています。「私を砦と頼む者は、私と和解するがよい。」(イザヤ27:5)神の強さを知った者は、神に降伏し、神と和解しなさいというのです。神と和解するということは、対等な和解ではありません。今、NHK大河ドラマで「真田丸」をやっています。大阪冬の陣で、徳川方と大坂方が和睦をします。徳川が出した条件は、大阪城の外堀を埋め、二の丸三の丸を壊せということでした。それを大坂方は受け入れるのです。和解や和睦というのは条件が出され、双方がそれを受け入れて成立します。しかし神の場合には、神が圧倒的な勝利をされたのであって、私たちは完全に負けたのです。つまり神の戒めを守れなかったのです。昔は戦争に負けた者は処刑されました。そんな私たちにキリストは手を差し伸べて、お前の罪についてはとがめないから、私の家来になれといわれたのです。私は生かされたのです。それが「私と和解するがよい。」という意味です。いつまでも背伸びをして神と張り合うなというのです。何か立派な業績を残して神と人に受け入れられよう、認めてもらおうとする生き方をやめなさい。もう神に降参しなさいというのです。
パウロはキリスト教徒を迫害している最中にキリストに出会い、目が見えなくなりました。そしてキリストの声を聞きました。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」(使徒26:14)とげのある棒を蹴ったら自分が怪我をします。神に喧嘩をうって勝てるわけがありません。パウロはキリストに降伏したのです。「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)といっています。イエス・キリストという方があまりにもすばらしいとパウロは言っています。太陽を見つめたら、他の全てのものが見えなくなるのと同じです。キリストを知った人は、他のものに目がいかなくなるのです。

❷【復活が人生の目標になった】
皆さんの人生の目標は何ですか。若い時は目標がなかなか見つからない時もあります。人生の目標を持つということは人間にとって大切なことです。
●癌で闘病中の小林麻央さんのブログにこんなことが書かれていました。「素晴らしい先生方との出会いに心を動かされています。その先生に言われたのです。『癌の陰に隠れないで』時間の経過とともに、癌患者というアイデンティティーが私の心や生活を大きく支配してしまっていたことに気がつきました。元気になったら、元の自分や生活に戻れるのだから、それまでは、誰にも知らせず、心配をかけず、見つからず…と思ってきました。…癌であることが突然公になり、環境はぐるぐる動き出しました。そこでこれまで以上に病気の陰に隠れようとして心や生活をさらに小さく狭いものにしてしまいました。…私は力強く歩んだ女性でありたいから、子供たちにとって強い母でありたいから、…陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました。…一度きりの人生なので、なりたい自分になろうと決意できたことはうれしいです。」
小林麻央さんの担当医は「癌の陰に隠れないで」といいました。麻央さんはその言葉で、病気を治すことだけが目標となり、病気の恐れに支配され、どんどん自分の心や生活が狭くなっていたことに気づいたのです。でも彼女は本当の自分を取り戻しました。偉いと思います。
●先日も、教会員が骨折して入院した体験談を話してくれました。同じように骨折して入院している相部屋の人が「自分は病人だから」と言って、リハビリに行く時にも、パジャマのまま化粧もしないで行くというのです。しかし彼女は「骨折は病気じゃあない」といって、きちんと服を着、化粧をしてリハビリに行きました。彼女は病院にいても自分の生活をしたのです。それを聞いて別の教会員が「私は大勢の高齢者や病人を見てきたけれど、人生に目標をもって生きている人は強い。目標がない人は病気になるとその中に隠れてしまう。」といっておられました。
結婚が目標の人は、結婚したら目標を失います。仕事が目標の人はリストラされたり、退職したりしたら目標を失います。子育てが目標の人は、子供が巣立ちしたら目標を失います。健康を維持することが目標の人は、病気になったら失うでしょう。そうではなく人生の最初から最後まで持つことの出来る目標が必要です。パウロの人生目標は、今までは立派なユダヤ教徒になることでした。神と人に受け入れられ、認めてもらうために頑張ることが彼の目標でした。でも何も頑張れなくなった自分を神は受け入れてくれたのです。もう神に認めてもらうために頑張る必要はないのです。今度は自分のような者を認め、愛し、受け入れてくださったキリストのために命を使うことが彼の目標になったのです。何かが出来る自分、何かを持っている自分を誇るのではなく、無力な自分を愛してくださるキリストを誇る者となったのです。これがキリスト教倫理の基本です。命を貰い、罪が赦された者は、その主人のために生涯を尽くすのです。
「わたしはキリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10~11)とあります。「わたしはキリストとその復活の力を知り」とありますから、彼は知っています。キリストを知っており、その復活の力を知っています。知っているからこそ、その復活の力がどうしても欲しくなったのです。自分がいくら律法を守って頑張っても変われず、喜びと命と力が溢れてこなかったからです。現代のキリスト教徒たちが、なぜこの世に執着し、祈らず、礼拝も大事にしないのかは、その復活の力を体験したことも、見たこともないからです。だからあまり欲しいと思わないのです。食べたことがないもの、見たことがないものを人は欲しいとは思いません。そこに教会の弱さがあります。私は正教会に行って今まで知らなかったキリスト教をそこで見ました。それは初代教会から流れている復活信仰でした。これこそキリスト教だと思いました。
パウロの人生の目標は、キリストと同じように復活することに変わりました。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」(フィリピ3:21)キリスト教徒の人生の目標は、キリストと同じように復活することであり、キリストの体に変容することです。そして永遠に生きる者となり神の国を受け継ぐことです。さらにこの世にあっては神と共に生き、この世から復活の命の香りを周りの人に漂わせることにあります。私たちは生きるにしても、死ぬにしても神をこの世に現す者なのです。なぜならあなたが神とつながっているからです。世の人はつながっていません。神をこの世に現すのはあなたしかいないのですよ。

❸【良い実を結ぶための具体的な方法】
今日は収穫感謝祭です。秋になると、木々は紅葉し、田畑は黄金の実りをつけます。この世の植物は実をつけるのですが、私たち人間も良い実を結ぶように教えられているのです。
詩編の65は私の好きな詩編の一つですが、収穫感謝を歌った歌です。「あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。」(詩編65:10)「芽生えたものを祝福してくださるからです。」(詩編65:11)「あなたは地に臨んで水を与え」と書かれています。臨んでというのは「来て」ということです。雨は天からのものです。だから昔の人は天にいる神が地に思いを向けて雨を降らして下さると思っていました。現代人はそのようには考えません。海の水が蒸発して雲を造り、それが山や寒気にぶつかって雨を降らすのであって、下の水が上に上がって、また降って来ると考えます。何とも色気のない考え方です。また、「芽生えたものを祝福してくださる」とあります。大地は新芽を芽生えさせますが、それに上からの雨と太陽の光がなければ成長しないのです。信仰も同じです。私たちの肉から信仰の芽は生まれますが、天からの神の祝福を受けなければ成長しません。芽だけでは駄目なのです。芽プラス上からの祝福です。すなわち聖霊の照らし、御言葉を聞かなければ、それらに照らされなければ信仰の芽は干からびてしまいます。信者の中に、信仰が干からびている人がいます。神様は自然界を神様のイコン(像・イメージ)としてお造りになりました。自然は神がどのような方であり、救いとはどのようなものであるかを教えてくれているのです。地と天が交わってこそ、初めて植物の実は結ぶのです。
依存症になる人の特徴は、①日々の生活が充実していない。②人生に目標がない。③今の生活が地に足がついていない。④空しさを覚えている。⑤自尊感情が低い。というものです。しかし空しさというのは悪いものではありません。それがあるので私たちは神を求めたのです。私たちの心の空しさというのは、この世の物をいくら持ってきても満たされず、神のもとに帰った時に満たされるように創造されているからです。では神に出会った者は一生満たされるかというとそうでもありません。信仰を持っても空しさがあります。心の充実感とか満足というのは神と交わっている時に与えられる状態なのであって、交わりをやめれば途端に消えてしまうものなのです。礼拝堂から一歩外に出、時間がたつと、再び心は空しくなるのです。信仰とか平和とか心の満足というものは貯蓄することが出来ません。私たちは絶えず神と交わることを続けなければなりません。しかし何度も神と交わる者には、心の中に神の溝(神の水路)、聖霊の歩かれた溝、御言葉の溝ができるのです。溝というのは同じ所を何度も水が流れてこそできるものです。一日やそこらで溝は出来ません。今までの何十年に亘る悪い生活や悪い習慣、悪い言葉、記憶による溝が既に出来上がっています。だからそれらの上に上書きしなければなりません。それには修道院の祈りが最適です。同じ祈りを何度も繰り返すこと、同じ御言葉を何度も聞き続けることは非常に効果があります。その言葉を聞くと、体が覚えており、早く喜びと満足という段階に到達できます。主の祈りを一日に何度もするのです。祈祷文の祈りを何度も繰り返すのです。

●ある雑誌の中にこんな話が載っていました。「ユダヤ教の物語によると、神様はこの地上の植物の葉っぱの一枚一枚に天使を送って「大きくなれ、大きくなれ」とささやかせると言います。イエス様は「天の父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい。」と言われました。私たちも成長しなさいと呼ばれているのです。成長への道は天国へ着くまで、終わることのない道です。私たちの成長の道はまっすぐではありません。同じ過ちを繰り返しながらぐるぐると回り続けたり、上に行ったと思ったら、あっという間にどん底に落ちたりしながら成長します。まず大切なのは成長する必要に気づくことです。自分は強くて、正しいと思わないことです。自分を正しいと思う限り、その人の成長も、他の人と一緒に生きるための成長もありません。結婚を考えている人に私はこう言います。「あなたが自分を正しい人間だと思っているなら、結婚生活はあきらめてください。結婚生活は、互いの弱さや限界を担い合う生活です。これこそが豊かさの本当の意味です。」
アルコール依存の人が再飲酒をしてしまうことがよくあります。そんな時、本人は自信やプライドを失い、家族を裏切ったという自責の念が強くなり、合わす顔がないと言います。また、家族も裏切られて希望を失い、もう協力しなくなります。そして病院にも、自助グループにも行かなくなります。心の病の勉強会の講師である精神保健福祉士の西川先生が勤めておられるクリニックの医師たちは「飲んだ時こそクリニック」と言われるそうです。教会も同じなのです。「罪を犯した時こそ教会へ」なのです。教会は自助グループです。強い人は来なくていいけれど、弱いからこそ来なければならず、必要なのです。AAの自助グループに通う人が「いつまでたてば卒業できるのですか」といいますが、教会という自助グループは死ぬまでなのです。成長を辞めることは後退を意味し、地に埋没してしまうのです。私たちには神様という天からの助け手(援助者)がいるのです。すばらしいスタッフがいるのです。だからこの神に委ねる限り必ず成長し、実を結びます。イエス様の言葉を聞き、完全を目指して、死ぬまで成長してゆきましょう。