2016年11月13日(日)主日礼拝説教

『良い羊飼い』 井上隆晶牧師
フィリピ1:3~6、ヨハネ10:7~15

❶【イエス様はまことの羊飼い】
イエス様は自分のことを良い羊飼といわれました。旧約聖書でも神様は羊飼いに譬えられました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)、「あなたはモーセとアロンの手を通して、羊の群れのようにご自分の民を導かれました。」(詩編77:21)「主は私たちの神、私たちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。」(詩編95:7)などほかにもたくさん書かれています。また、メシアもまた羊飼いに譬えられました。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いていかれる。」(イザヤ40:11)。民の指導者たちも羊飼いとして言われています。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」(エゼキエル34:2)
10章は9章の続きであり、原文では切れ目がありません。だから9章の続きのお話なのです。ここでは生まれながらの盲人を追い出したファリサイ人たちを、羊を食い荒らす強盗、盗人、偽りの牧者として言われています。それに対して、追い出された人を見つけ出し、神の国という囲いの中に入れてくださったイエス様は良い羊飼いとして言われています。
「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」(10:1~3)放牧から帰って来た羊は夜になると、囲いの中に入れられました。門番は羊飼いだけをその中に入れ、偽りの羊飼いは入れません。そこで偽り者は、門から入らないで囲いを乗り越えてきます。イエス様だけが神様から立てられた正当な羊飼いであるというのです。「主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。…私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱ったものを強くする。…私は彼らの為に一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。」(エゼキエル34:11~12、16、23)この預言されている一人の牧者というのが、イエス様なのです。ここを読んだ時に、ああこうやってザアカイもマタイもバルトロマイも多くの貧しい人や病人、障がい者たちもイエス様に探してもらって、天国の囲いの中に入れてもらったんだと思いました。これは私たちもそうであり、神自らが私を尋ね求め、探されたのです。

❷【羊は羊飼いの声を知っていて、彼についてゆく】
「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、ついて行く。しかしほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(ヨハネ10:3~5)
●羊というのは集団行動をする動物で、先日もTVで面白い映像を流していました。放牧から家に帰るのに、一匹の羊が道を間違えると、すべての羊がそれについて行ってしまうのです。しかし後から来た5~6匹の羊が立ち止まり、遠く離れてしまった何十匹の群れに「めえー」と鳴くと、すべての群れがUターンしてなだれのように帰ってきました。羊というのは声を聞き分けるのです。
パレスチナでは羊飼いは羊に名前をつけて呼びます。その体の特徴などで、「耳黒」とか「栗毛足」とかいう名前をつけるそうです。羊飼いは自分の羊の名前と特徴を全部知っています。同様に、イエス様は私たち一人ひとりの個性や弱さや良い所を全部知っておられます。全てを知っていて受け入れ、赦し、愛していてくださるというのはうれしいことです。羊は自分の羊飼いの声には反応しますが、他人が呼んでもついて行かないといいます。私たちがイエス様の羊かどうかの判別方法は、キリストの言葉を聞いてついて行くかどうかです。偽のメシア、偽りの預言者や教祖や霊媒師たちのいうことは聞かないということです。キリストの声を聞いて、彼について行く者が彼の羊です。キリストの声は、私を創造された方の声であって、私たちの本性はそれを聞いて覚えているのです。私たちはその言葉で創造されたからです。
●先日私は、礼拝を長く休んでいる人にこう言いました。「安息日を守れと主は言われました。神の言葉ですよ。あなたは神の言葉が怖くないのですか。私は怖いです。礼拝を休むなんてそんな怖いことようしません。あなたは何か月、天と交わっていないのですか。天と交わらなければ地だけとなり、崩壊し、どこまでも落ちてゆきますよ。地を見ていても絶望します。希望を持ちたかったら天と交わる以外にないでしょ。この世の人は地の人の前に立ち、地の言葉を聞き、地のことを話し、地に手を伸ばすけれど、私たちは朝毎に、神の前に立ち、神の言葉を聴き、神の言葉をこの口で朗読し、天からの聖霊の息吹を吸い、天のものをどんどん地である自分の中に取り入れます。そうすると地である自分が、天的化するのです。人生の最後には必ず差が開きます。いくらこの世が変わることを待ったって平安は来ないよ。どんな状況でも、自分の心が天になっているほうが、いいでしょう。」

●佐藤雅文牧師は『祈祷の生涯』という本の中でこう言っています。
「祈祷の楽しさは、われらを天に結び付け、天よりの能力がわれらに流れきて、われらの地上の旅を天的化させるところにある。地上に住まいつつ、天の生涯を送るその原因となるのはただ祈祷あるのみである。…聖霊は常に新鮮さをもたらす特色がある。祈祷はこの新鮮さをもたらす聖霊を受ける唯一の方法である。多く祈る人は独特の新鮮さが漂っている。ぶどうは新芽にのみ果実を結ぶ。祈祷によって新鮮な空気が教会に漂う時、そこから新しい聖なる業が芽生えるであろう。」
人間はいろんな都合や、事情があるでしょう。嫌いな人や自分に合わない人もいるでしょう。でも最後は、神の言葉を畏れて聞いているかどうかだけです。本当に聖書を神の言葉として聞いたかどうかだけなのです。それによってあなたが神を神としているかが分かり、あなたが本当に神の羊かどうか分かります。「神に従う人は必ず実を結ぶ。」(詩編58:12)とあります。あなたの宝のあるところにあなたの心もあります。

❸【イエス様は天国への門である】
「わたしは羊の門である。」(7節)「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(9節)今度は、イエス様は自分のことを「羊の門」といわれました。ここではイエス様という門を通りなさいといわれています。キリストこそ父なる神に至る門、天国の門です。私たちはキリストという門を通らなければ天国に入れません。「わたしを通って入る」とは、キリストと一体になることです。キリストと一体になって死に、一体になって復活することです。これは洗礼を象徴しています。洗礼は天国への入門です。
●「彼がわれわれを父なる神のもとへ導く時には、自らを「門」と呼び、われわれを守られる時には「羊飼い」と呼ばれる。」(4世紀ヨハンネス・クリュソストモス)
●「肩の上に群れ全体をのせておられるよい羊飼いよ。あなたはどこで群れを飼っておられるのですか。事実、あの一匹の羊は、あなたが肩の上にのせてくださった全人類です。憩いの場を私に示してください。休息の水を私に知らせてください。豊かな牧草へ私を導いてください。私の名を呼んでください。あなたの声によって、私に永遠の命を与えてください。」(4世紀ニッサのグレゴリオス)
先日、イザヤ書25章を読みました。これはイザヤの黙示録と言われ、世の終わりの預言が書かれています。「万軍の主は、この山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。…主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布…を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。…主の御手はこの山の上にとどまる。」(イザヤ25:6~8、10)この山とはどこでしょう。エルサレムであり、今は新しきエルサレムといわれる教会を指しています。エルサレムの岩のドームは、その昔アブラハムが息子イサクを献げたモリヤの山です。同様にキリストが献げられた場所、ゴルゴタの丘の上に聖墳墓教会が立てられました。すなわち教会が山であり、キリストのパンとブドウ酒が献げられるこの祭壇が山なのです。この祭壇で、神はキリストの肉と血を供されます。この山で無知という覆いは取り除かれ、死は終わります。ここに門があります。この門を通って聖書が朗読され神の奥義が知らされ、この門を通って皆さんは聖体を食べます。まさにこの門こそキリストなのです。この門を通って私たちは豊かな牧草を見つけます。それは神の言葉であり、聖体です。これこそ人に命を与えるものです。キリストは私たちを教会という緑の牧場につれて行きます。そこには命があります。

❹【羊のために命を捨てる羊飼い】
「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10~11節)
盗人(偽メシア、偽預言者、カルト)の特徴ははっきりしています。人間を破壊することです。良心を破壊し、理性と自由意志と知性を歪ませます。やがて精神に破たんを来して自死する者もいます。家庭を破壊し、人間同士の信頼関係を破壊し、神と人間の関係を破壊します。彼らは神の為、あなたの為と言いますが、本当は自分の利益のためです。しかしイエス様はそうではありません。人が生きるために、破壊されたものを回復し、修復し、二つのものを一つにするために来られました。イエス様は羊である人間に命を与えるために来ました。「豊かに受ける」とあります。単に受けるだけではありません。両手で受け取っても溢れてしまうほどに豊かな命を受けるのです。豊かすぎて死が飲み込まれてしまいます。私たちはキリストによってこの豊かな命をもらうのです。「羊のために命を捨てる」とは十字架のことをいっています。この豊かな命は、キリストが十字架にかかり、自分の命を献げることにより与えられました。十字架は、私たちに豊かな赦しと命をくれます。本当のメシアとは、人間のために命を捨てるからです。良い羊飼いがどんどん小さくなって、貧しくなって、反対に羊はどんどん大きく成長し、豊かになります。羊が大きく成長し、元気になり、生き生きとすることが羊飼いはうれしいのです。自分が死んでも羊に生きてほしいのです。だから、私たちは生きねばなりません。
●先日、クリスチャンのパチンコ依存症のAさんの話を聞きました。気がつけば家が一軒買えるくらいのお金をパチンコにつぎ込んでいたそうです。妻に「頼むから死んでほしい」と言われて目が覚め、翌日教会の牧師に「助けてほしい」と言いました。牧師は彼に「あなたは末期です」と告げ、専門医に行くこと、家族会議を開くこと、GA(自助グループ)に行くことを命じます。自助グループに行った彼は仲間から「あなたは1%の回復する家族になるかもしれない」と言われました。彼がなぜかと問うと仲間は「あなたは教会に行っているから」と答えたというのです。GAに通い、自分の辛さを告白している内にパチンコをしたいという気持ちが小さくなっていったそうです。妻も夫を責めなくなりました。GAの帰り道、妻が「私たちって不思議な仲ね。あんなに憎んでいたのに、今は憎しみがない。」と言ったというのです。彼は最後に「自分は絶えず成長したい」と言っていました。
本当にキリストに助けを求める人は、地獄からでも救われるのだと思いました。私はキリストの力と命を信じたいのです。人間はどんなに落ちても立ち直り、救われ、変われるのです。