2016年11月6日(日)主日礼拝説教

『神の光に照らされて』 井上隆晶牧師
エフェソ5:8~14、ヨハネ9:1~12

❶【悪人探しをする人間の愚かさ】
イエス様は通りすがりにある盲人の人をご覧になりました。通りすがりというと、何か軽く聞こえますが、イエス様はすべての町々を巡回されて神様の救いを語っているのですから、この町を通った時に、その道沿いにいた「生まれながらの盲人」を照らされたということなのです。空海の言葉に「光明遍照」というのがあります。光はあまねく照らすという意味です。太陽はすべてのものを照らします。イエス様を太陽だと思って下さい。イエス様は善人も悪人も、病気の人も罪人もどんな人も照らします。弟子たちがイエス様に聞きます。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか。」(ヨハネ9:2)誰のせいで目が見えなくなったのかという質問は原因と結果、因果応報の考え方です。科学の世界ならそれは意味がありますが、罪に対しては意味を持ちません。科学なら原因を突き止めれば治療ができます。機械でも肉体でも「ああここが悪いな、これを取り除けば治るだろう。ここを調整し、修理すれば動くだろうなど。」しかし罪の問題に対しては原因を突き止めてもどうにもならないのです。仮にこの人の罪のせいでこうなったと悪人を見つけたとしましょう。その後、どうするのですか。その人を殺すのですか。この盲人の両親が罪を犯したから彼が盲人になったとしましょう。では両親はその罪をやめられますか。出来ないでしょう。だから悪人探しをしても意味がないのです。それは責任転嫁という悪魔の発想です。アダムが罪を犯した時、最初にしたのがそれです。
イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)と言われました。イエス様は罪がないといったのではありません。罪を犯したから視覚障がいになったのではないといったのです。では「神の業がこの人に現れるため」とはどういう意味でしょう。それはちょうど、穴が開いた障子から、光が入って来るようなものです。または地面で窪んだ所に、天からの雨水がたまりやすいようなものです。破れや弱さによって、そこに神の光が降り注いだ時に、神の業が見えるようになるということなのです。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。誰も働くことの出来ない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハネ9:4~5)「お遣わしになった方」とは神のことです。私たちは神の業を日のあるうちに行わなければならないといわれます。「私は」ではなく「私たちは」と言われています。イエス様だけが神の業を行うのではなく、あなたも神の業を行わなければならないのです。私たちはキリストという太陽に照らされているうちに、その光があなたを照らしている内に、神の業を行わなければなりません。いくら障子に穴が開いても、向こうから光が照らしてくれなければ、光は入って来ないのです。光が去れば、いくらあなたの人生に穴が開いても、何も入ってきません。「夜が来る」のです。しかし人は、夜は決して来ないと思い込んでいます。いつも神が自分を照らしてくれると思い込んでいます。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」(ヨハネ12:35)
●イエス様はユダヤ人たちに「なぜわからないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ」(ヨハネ8:43)といわれました。私はこれと同じ経験をしたことがあります。カルトの説得です。聖書の言葉をいくら説明しても、彼らは受け入れません。はっきりと書かれているのに、未信者の家族でも「ほんとうだここにはっきり書かれている」と言っているのに、それを信じません。耳では聞こえているのですが、自分の事だと受け入れません。神の言葉を受け入れなければ、悪魔の言葉が入ってきて、その人はどんどん惑わされます。「主は彼らの間に迷わす霊を送られた。」(イザヤ18:14)と書かれているからです。「聞く」ことが入り口です。人の話を聞かない、人の忠告を聞かない人も同じです。
暗闇に飲み込まれた人を何人か知っています。信仰を失い、礼拝に来れなくなった人を知っています。神の光を失えば、その人は闇に必ず飲み込まれます。

❷【教会(シロアム)に行くと見えるようになる】
イエス様は泥を彼の目に塗りました。その昔、イエス様はその同じ手でアダムを土から創造されました。その手が今、土をこねて、人間の目に塗るのです。人間の再創造を意味しています。そして彼に「シロアムの池に行って洗いなさい」(7節)と命じられます。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であるという注釈が加えられています。何かを悟れということでしょう。「遣わされた者」とはイエス様のことですから、イエス様の所に行って洗えとは、教会に行けということであり、洗礼を意味しています。事実、イコンは十字架の形の泉にしています。彼は言われたとおりシロアムの池に行って洗い、目が見えるようになりました。つまり教会に行って見えるようになったということです。何度も「見えるようになって帰って来た」(7、11、15節)と書かれています。私たちも以前は闇の中にいました。自分の人生の意味も知らず、なぜ生まれてきたのかも知らず、どこへ行くのかも知りませんでした。また神もどんな方なのか知りませんでした。私たちは天からの光で照らされたのです。そこで見えるようになったのです。カルトにいた人たちも闇の中にいました。その時、自分のしていることが分からず、間違った神を信じていました。しかし神の言葉を聴き、神に照らされて自分が間違っていたことを知り、本当の神を知ることができるようになったのです。
アダムの目は本来、何を見るために創造されたのでしょうか。神を見、神の顔を仰ぎ見るためでした。その昔、アダムがエデンの園を歩いていた時、神の顔を仰ぎ見ていました。しかし罪を犯した時、彼は神の顔を避けて神を見なくなりました。彼は光である神から顔を背けたので、闇の中に生きるようになったのです。そして偶像を見、闇を見て生きていました。しかし、神を知った人は神を見る生き方に変わりました。そうやってモーセは顔と顔を合わせて神を見たので、その顔が光り輝きました。エリヤは天からの炎の馬車を見、エリシャは師であるエリヤが天に昇るのを見ました。ヨシュアは天使長を見、エゼキエルは車輪の姿のケルビムを見ました。イザヤは神殿で祈っている時、神の衣が神殿いっぱいに垂れているのを見ました。最初の殉教者ステファノは天が開け、イエス様が父なる神の右に立っておられるのを見ました。このように神の光に照らされた人は、神を見るのです。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る。」(マタイ5:8)
●家の窓は、その家にとって目のようなものです。窓を通して外の光が部屋の中に入ります。だから窓がなければ家は真っ暗です。もし窓が雨戸で覆われているなら、どうやって光はその部屋の中に入ることが出来るでしょう。同様に目は人の窓です。もしあなたの目がこの世の何かで覆われているなら、またあなたが神以外の何かをいつも見ているなら、どうやって神の光はあなたの中に入るでしょう。目を神に向けなければ、神からの光はあなたの中に入って来ないのです。目を神に向ける、聖書に向ける、イコンに向ける人は、神的な光が入ってきます。だから見えるようになるのです。

❸【光に照らされて人は光となる】
エフェソ5:14に「全てのものは光にさらされて明らかにされます。明らかにされたものはみな光となるのです。」とあります。この光も神の光です。具体的にはみ言葉や聖霊のことです。光に照らすと、闇の中に隠れているものがすっかり見えます。人は誰でも闇の部分を持っています。認めたくない部分、隠れている部分です。神の光に照らされると私たちは自分の罪が明らかにされます。だから人は光を嫌がります。しかし光に照らされた人は光に変えられます。
●伊深の正眼寺の住職で梶浦逸外(かじうらいつがい)という老師がいました。「私は困ったとき、シメタと言うんです」というのが、この老師の口癖でした。色紙には「窮則変、変則通」(きわまれば、すなわち変じ、変ずれば、すなわち通ず)という言葉を書くのを常としていました。自分が変われば、どんな困った状況でも通じるというのです。
スタンフォード大学で心理学講義をしているケリー・マクゴニガル先生は授業で学生にこう教えています。「成長型マインドセット」と「固定型マインドセット」という考え方があります。「固定型マインドセット」は能力、知性、才能は決まっており、変わらないという考えです。そのような考え方をする人は挫折をすると、自分には素質がないと諦め、失敗や苦労を避ける人生になるというのです。一方「成長型マインドセット」の人は、困難を耐え、仕事に意味を見出し、長期的に成長するといいます。失敗しても、自分の能力不足でもないし、すべての終わりでもありません。失敗は学びのプロセスです。対処法を見つけ出すためのきっかけに過ぎないのです。

最近、教会の礼拝に来る人が減っています。なぜだろうか?聖霊は私を去ったのだろうか、私はサウルや祭司エリのように退けられるのだろうかとずっと神に祈っていました。朝、聖堂に来て、いつものように聖書を読み、祈っていると神からの光に照らされてだんだんと見えて来たのです。次の御言葉が入りました。「私は、深い慈しみをいただいてあなたの家に入ります。」(詩編5:8)なぜ「深い慈しみをいただいて」神殿に入るのだろうと心が留まりました。神の家に入れるのは神の憐れみがあったからです。当然ではなかったのです。神の家で奉仕できるのも当然ではなかったのです。働かせてもらえるだけで感謝なのです。牧師が出来ることは神の恵みでした。私をこの教会に遣わされたのは神です。牧師として立てたのも神です。助ける人を送って下さったのも神様。求道者を送って下さったのもすべて神でした。自分でしたのでもなく、自分が熱心だったからでもなく、自分の人柄が良かったからではないのです。すべては神が今日のようにして下さったのです。だから何も誇ってはいけなかったのです。それなのに私は高慢でした。出来ることをさせていただくだけなのです。それに気づきました。神の言葉で、私は変えられたのです。神に照らされることは何とすばらしいことでしょう。
神が私たちにしてくださった恵みがどれほどすばらしいものなのか、私たちに与えられる天の祝福がどれほど栄光に満ちたものなのかが見えていますか。サマリアの女に対してイエス様はこう言われました。「もしあなたが神の賜物を知っており、また水を飲ませて下さいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼んだことだろう。」(ヨハネ4:10)でも彼女は自分が全能の神、自分の創造主と話をしているのだということを知りません。またイエス様が与えてくれる賜物がどれほどの価値があるのかが見えていません。彼女が見ているのは肉のイエスという旅人であり、地上の水だけです。これと同じことが今も私たちの上に起こっています。私たちは神秘に気づきません。自分が誰の前に立っているのか、洗礼によって自分の上に何が起こったのか、自分が何になったのかが見えていません。また聖堂に来て、聖書を読み、祈ることを通していただく天の宝のが見えていません。だからそれほど祈祷に熱心ではないのです。黄金の延べ板を上げますといえば、皆さんはこぞって礼拝堂に来るでしょう。

「主を仰ぎ見る人は光と輝き、恥ずかしめに顔を伏せることはない。」(詩編34:6)私たちは神から来た光で照らされ、神を見る目に変えられたのです。来世では毎日、この目で神を仰ぎ見ることでしょう。私たちは本来の姿に戻ったのです。どうかこの目を神を見る為にもっと用いて下さい。一週間に一度だけ聖書や祈祷書を見るのなら、あなたは7日間のうち、神を2時間だけ見るのです。後の何百時間は何を見ていますか?光のあるうちに、光を自分の中に入れましょう。