『イエスは命のパン』 井上隆晶牧師
ヨハネ6章24~29節、ヨハネ6章51~59節

❶【永遠の命に至る食べ物のために働け】
5000人の給食の奇跡を体験した群集は、その奇跡を行われた湖の反対側にとどまり一晩を過ごしました。ところが、朝になってみるとイエス様がいないのに気づいて、イエス様を追いかけて舟に乗って湖を渡りカファルナウムまでやってきました。何という熱心さでしょう。「パパラッチ」という言葉があります。追っかけのことですが、それと同じです。そうやって自分を追いかけて来た群集にイエス様はこう言われました。「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(26節)
主は彼らが何を求めて、こんなに熱心になるかを良く知っておられました。彼らはイエス様を求めていたのではなく、イエス様がくれる食べ物を求めていたのです。やがて彼らは奇跡を行わず、食べ物をくれなくなったイエス様を見捨てました。この世の人は《この世》のものを手に入れるために何と熱心なことでしょうか。カルト宗教も熱心ですが、彼らが求めているものは天のものではなく、やはり地のものです。統一協会は以前毎週10億円を集めて、それで土地を買いあさり、地上に神の国が出来たと豪語していました。人は自分の魂の問題よりも、肉の問題にたいしてたいへん熱心です。イエス様は彼らに「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様のこと)があなたがたに与える食べ物である。」(27節)といわれました。これは私たちに対する言葉でもあります。私たちの労働はほとんど朽ちる食べ物のためだからです。家賃を払い、食べ物を買い、水光熱費を払い、教育を受け、趣味を行うために私たちは働きます。しかし、これらの食べ物は命を与えてくれないといいます。そうではなく永遠の命を与える食べ物のために働けと言われます。ここで言われる命を与える食べ物とは「神のことば」「聖体」「神のみ心を行うこと」です。そのために労働せよと言われます。これらを必死に求めることは労働だというのです。聖書を読み祈るのも労働、礼拝に来て聖体を食べるのも労働、神の言葉に従うのも労働です。しかし群集は「永遠の命に至る食べ物のために働け」と言われたので、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」(28節)と問いました。それに対して、イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29節)と言われました。神が遣わした者とは「イエス様」のことです。このイエス様を信じることが神の業であるといわれます。私たちが信者になったということは、神の業が私の上に行われたということなのです。そして引き続きイエス様を信じ続けることが神の業を行うことなのです。
❷【キリストが命であること】
この後群集は「では私たちがあなたを信じるためにモーセが荒野でマナを降らせたような何か奇跡を行って下さい」といいました。そこでイエス様は「マナを降らせたのは神様であり、自分こそが神が天から降らせた生きたマナ、真のパンである」といわれます。「わたしが命のパンである。」(35節)とイエス様はいわれました。ギリシャ語では「ホ(前置詞) アルトス(パン) テース(英語のis) ゾーエース(命)」となっています。「このパンは命である」という意味です。「この私が命である」「私こそ命を与えるパンである」という意味です。私たちは命という言葉を簡単に使っていますが、キリストからしてみれば、命というのは神だけであり、神から来た自分だけが命なのです。
●先週の朝の祈りの時にヨハネの8章を読みました。イエス様はユダヤの群集にいいました。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ8:21)「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、私はこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。」(ヨハネ8:23~24)あなたは自分のうちに罪をもっているので、あなたは罪に飲み込まれて死ぬというのです。罪は癌のようなもので人間と共生しながら、その寄生した人間を滅ぼします。最初は痛みを感じることはなく、やがて全身に転移し、内側からその人を破壊し、やがて死に至らせます。世の人は肉体の死が死だと思っています。アダムは「木の実を取って食べたら死ぬ」と言われて食べてもすぐには死にませんでした。しかし彼の魂がすぐに死にました。魂が死んだのでそれが肉体に移って来てやがて肉も腐ったのです。恐れるべきは肉体の死ではなく、魂の死です。人は戦争や災害や病によって肉の命が取られることを恐れます。しかし人は神が創造したものを破壊しても、消滅させることはできません。しかし罪はそれができます。罪こそ人を滅ぼします。この罪は人間のどんな善行でも、取り除くことが出来ないものです。放っておいたら必ず滅びます。止めることはできません。唯一の救いの道は天から来た罪と死を飲み込み破壊するキリストにつながることです。キリストだけが人の中にある罪を取り除くことが出来るからです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)といわれているからです。イエス様は群集に、この世に属し、下のものに属しているならあなたたちは罪のうちに死ぬといわれました。
イエス様こそ「命」なのです。この世の中に命はありません。だからこの世の命を大事にしようというこの世の考え方は分かりますが、それは神の目から見れば、朽ちてゆく命を必死に守ろうとしている人間の悲しい姿なのです。いくら守っても腐るものは腐ります。しかし、腐るものでも、本物の命につながれば腐りません。本物の命というものを人間は知らず、悟りません。これは大きな罪です。朝の祈りの時に、名前を上げて祈っていると、それをひしひしと感じるのです。多くの人が教会に来て去って行きました。人は自分の肉の命を実に大切にしますが、人の肉の命は自分を救うことはできません。キリストの命を失えば何にもなりません。いくらこの世の物を集めても、それはあなたを生かすことは出来ないからです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の徳があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:27)キリストが来られた時、忍耐強くキリストの命を求めた者は、必ずその報いに与るでしょう。皆さんには本物の命であるキリストと教会を大切にしてほしいのです。

❸【まことの食べ物、まことの飲み物】
この後、イエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ6:53~55)と言われました。これは明らかに聖餐の時のパンとブドウ酒を意味しているのが分かります。イエス様はパンについて「これはあなたがたのために与えられる私の体である」といわれ、ブドウ酒について「これはあなたがたのために流される血である」と言われたからです。聖餐を受けなければ、命はなく、復活できないと言っているのです。ゆえに、教会は初代教会から毎日「パン裂き」と呼ばれる聖餐をし、代々の教会も毎週これを行っているのです。まことの食べ物、飲み物だから、毎日取ったのです。宗教改革者でさえ、このパンとブドウ酒について、これはただのパンとブドウ酒であって、キリストの体と血ではないとは言いませんでした。(ツィングリのみが単なる象徴であって、キリストの体と血ではないといいました。)
●これについて4世紀のエルサレムのキュリロスは聖墳墓教会でこう説教しました。「パンについてキリストご自身が、はっきりと『わたしの体である』と仰せになったのですから、誰があえてこのことを疑うことができるでしょうか。またキリストご自身が『これはわたしの血である』と仰せになったのですから、誰がそれを疑い、キリストの血ではないと言うことができるでしょうか。…パンの形のもとにあなたに与えられるのはキリストの体であり、葡萄酒の形のもとにあなたに与えられるのはキリストの血です。かつて、キリストはユダヤ人と話しておられた時、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」と言われました。ユダヤ人たちはこの言葉を霊的に理解できなかったので、イエスが人の肉を食べるように促していると考え、つまずきました。…供えのパンは旧約時代にもありましたが、それは旧約のこととして終止符を打たれました。新約においては、天のパンと救いの杯があります。それらは人の魂と体を聖化するものです。ですから、このパンと葡萄酒を、単なるパンと葡萄酒とみなしてはなりません。主が言われたように、それはキリストの体と血であるからです。…あなたはこれらのことを教えられ、パンに見え、パンの味がしても、パンではなくキリストの体であり、葡萄酒に見え、葡萄酒の味がしても、葡萄酒ではなくキリストの血であることを確信しなさい。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)といわれました。これを相互内在といいます。聖餐を食べると、キリストがいつも私の内にいてくださるというのです。神の命はこの世にはありません。そのままで私たちの中に入ることも出来ません。そこでキリストが天の神でありながら、受肉して地上の肉体と一体になって、神人キリストとして地に現れたように、地上の産物であるパンとブドウ酒に聖霊が降り、キリストの言葉によって、神人キリストがここに誕生し、私たちの中に入るという方法が取られたのです。パンとブドウ酒の姿で入って来たキリストによって、私たちは彼と一体になることが出来るのです。
愛する時、人は相手の世界に入りたい、一緒にいたい、一体になりたいと願うものです。また、喜びを分け合いっこするものです。神は人間と共にいたい、恵みを分け合いたいと願い、この世に人となって来たのです。それがイエス様です。
●一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。死期も近いある夜のこと、消灯時間が過ぎても寝つかれないでいるその子のために、若い看護師が本を読んでやりました。やがて静かな寝息をたて始めた子供、しかしその看護師は、なおも三十分近くベッドサイドにいたといいます。子供の死後、母親はこう語りました。「あの子がその夜、ふと、うす目をあけてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためにだけ本を読んでくれる人が多いのに、ほんとうにうれしかった』と言っておりました。」
キリストは用事のためだけにこの世に来たのではありませんでした。子供を寝かせるやいなや去って行く人としてではなく、子供と共にいる時間を大切にした人でした。救いのためなら三十年間をナザレで過ごすことはなかったでしょう。「赦す」という神の言葉を手渡すだけでよかったかもしれないのに、愛するゆえにキリストは人と共に住み、生活し、恵みを分かち合ったのです。そして自分の体と血を聖餐(聖体)としていつまでも人々の中に与え、一体になることによって命を与え続けようとしておられるのです。共にいる恵みを感謝したいと思います。
ザー・テレサは「分からないままでもいいから、とにかく聖体を食べ続けなさい。そうすればやがて分かっている。」といわれました。だからキリストを食べ続けましょう。キリストと共に生き、キリストによって生かしてもらいましょう。