『キリストの所へ来る者』 井上隆晶牧師
エフェソ1章4~9節、ヨハネ6章37~40節

❶【キリスト教徒になることは神の選びであり定めであること】
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ2:4~5)ここには驚くべきことが書かれています。天地が創造される前に、神は私たちを愛したと、あります。私は天地が創造される時には存在していませんでした。存在していない者をどうやって愛されるのでしょう。家を建てる時にはまず設計図を作ります。家はまだ存在していないのですが、頭の中にはイメージが既にあり、それに従って建てられるのです。それと同様に、私の存在はまだなかったのですが、神の頭の中には既に将来の私のイメージがあったということなのです。そして、私たちを聖なる者、汚れのない者にしようとキリストと共に選び、キリストによって神の子にしたというのです。故にあなたがキリスト教徒になったのには、神の永遠の計画であって、神が選び、神の子にしようと定めて下さったからこそ、あなたは信仰を持つことが出来たのです。
●先日、ヨハネの福音書を読んでいる時にこんな箇所がありました。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることが出来ない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ7:34、36)と二回も書かれています。イエス様がユダヤ人に向かって言った言葉です。あなたがたはいくら神を捜しても見つけられず、天国にも行けないというのです。太陽が雲に隠れるように、神様は隠れるからです。神は御自分が現わそうと思う者に姿を現し、教えようと思う者に御自分のことを教えます。「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11:27)誰にでもではないのです。だからカルトの人は非常に熱心に神を求めましたが、けっして正しい神を見つけることは出来ませんでした。文鮮明をメシアとし、神を限界ある者、弱い者としてしか認識できませんでした。人間には自分の力では神を知ることは出来ないし、天国に行くこともできないのです。神が近づいて来られて姿を現し、教え、神が手を取って連れて行ってくれるのでなければ誰も天国には行けないのです。いくら知ろうとしても知ることが出来ない、いくら行こうと思っても行くことが出来ない人が大勢いるのです。その中で、あなたがたキリスト者たちは神を知らせてもらい、天国に招かれたのです。この恵みがどれほど大きいのかを知らないのですか。神の選びをないがしろにし、軽んじてはいけません。大切なチケットが手に入ったら、けっして失わないように気をつけるでしょう。選びを軽く見る者は、その選びは他者に移されてしまうでしょう。
●人々は、信仰とはただ営々として精進する教育と同じようなものと考えているかもしれないが、そうではなく、信者とは創られた以前の選びに還る者である。我々が真に救われるには、神に選ばれたる者としての「種」であることをよく知らねばならぬ。…この種こそ甦りの種である。…選ばれていることがわかるには、なかなか時を要する。自分の事にしてそうであるから、まして他人のことにおいてをやである。我々は他人を裁くことは出来ない。予定については軽率な言葉を決してしてはならない。現在悪魔のような相をしている者でも、永遠の世では天使になるかもしれない。…一体、人は運命づけられているものがあって、ある個人にとっても何年かの間は、迷わざるを得ない堕落の期間があるが、天使に定められている者は、途中で躓いて罪を犯すが、遂には神の御許に来らざるを得ぬ定めを持っているのである。…すべて宗教的な人は生まれついているものであって、聖の根源はここにある。…召命とは、創世の前にある神の召しによるものであって、単に職分に関するものではなく、生まれて来た全体が神に召されているということである。即ち、召命とは初めに定められた運命に帰ることであって、信者はここに来なければならぬ。」(逢坂元吉郎説教集より)

❷【教会に来ることのできる人というのは】
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところへ来る。」(ヨハネ6:37)、「わたしの父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることは出来ない。」(ヨハネ6:43)
よく入りやすい教会、オープンな教会でなければならないといいます。しかし某教会はオープンにし過ぎて俗的な教会になってしまいました。人間の小手先の業で、人は信者にはなりません。神の聖霊の導きでなるものです。いくら教会が綺麗で、すばらしいパイプオルガンが鳴っていても、いくら教会がオープンになっても信者にならない人はなりません。反対に、いくら教会が路地にあって分かりにくく、小さく貧しくても、本当に求める人は教会へ来るものだと思います。み言葉によれば、父が引き寄せた人は教会へ、キリストのもとへ何があっても来るのです。カルトに入っていても、必ず来る。何年遠回りしても、堕落している期間が長くても、必ず帰ってくるのです。しかし父が引き寄せてくださらなければ、どんなに熱心で敬虔でも教会には来ないのです。人は自分の力で教会に来ているのではありません。ここに来ている人は、来る前に父なる神が選び、働いているからです。本当にこの人がキリストのものなのかどうかは、教会に来ているかどうかで分かるのです。神様が人を教会に送る意味はどこにあるかというと、「わたしに与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:39)「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(同6:44)と何度も復活させること、永遠の命を与えることが父の意志であり、そのために彼らをキリストのもとへ送ったのだということが書かれています。信仰生活の目標は復活、永遠の命です。

❸【神様が前もって準備している善い業を行おう】
「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備しておいてくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちはその善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)
「神が前もって準備しておいてくださった善い業」を行わせるために私たちは創造されたとあります。つまり、私たちには創造された目的があるということです。神様は私たちを創造する前から、この人には「これこれをさせよう」という神様が前もって準備している善い業があるというのです。この「準備された善い業」を「使命」と言い換えることが出来るでしょう。つまり、どんな人間にも生まれて来た目的があり、この世での使命をもって生まれてくるということです。神様は一人一人にその人にふさわしい神の準備した善い業と、それを遂行するための賜物をくださいました。今の人は、自分が何のために生まれてきたのかを知りません。この世に生まれてきて何をしたらいいのかも迷います。それを見つけられた人は幸いだと思います。
私の場合はキリスト教の伝道者、牧師になることです。そしてプロテスタントの中にあって、古代教会のすばらしい宝を伝えるという使命があると思っています。また、精神障がい者を受け入れ、彼らと共に歩むという善い業を神様が用意して下さったと思っています。それは長年の中で導かれてきたことです。使命はすぐには分かりませんが、祈っている人、神に従おうとしている人には、神が教えてくださいます。自分の使命を知るためには、「神様、私は何をするべきでしょうか、教えてください」と祈ることです。そして神様があなたに遣わされた人の言葉を聞き、あなたの助けを必要としている人について行き、神様が開いて下さった門に入るのです。そうすれば何をしたらいいのかが教えられます。
パウロの場合は目が見えなくなって、イエス様の声を聞きました。「起きて町へ入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(使徒9:6)そうやって人に手を引かれ、町に入って行き、祈って待っていたら、アナニアというキリストの弟子が来てパウロに洗礼を授け、目を見えるようにしてくれました。そしてこういったのです。「私たちの先祖の神があなたをお選びになった。それは御心を悟らせ、あの正しい方(イエス)に会わせて、その口からの声を聞かすためです。あなたは見聞きしたことについて、すべてに人に対してその方(イエス)の証人となる者だからです。」(使徒22:14)パウロは自分がイエス様によって異邦人伝道者として選ばれたことを知りました。
自分の思いではなく、神の思いを求めることが大事です。造られた物はすべて目的をもって造られています。コップは飲み物を入れるという目的があり、ペンは書くという目的のために造られました。物が間違った目的のために用いられるなら、それは効果を発揮することが出来ません。神が準備して下さった善い業を行う人は、創造目的を全うするのですから自分を生かすことができます。Yさんはミャンマーに行って、病や戦争で障がいを負った多くの人たちに裁縫や縫製を教えるという業を使命としています。だから生き生きしています。私たちすべてのクリスチャンのために準備されている最大の善い業とは、キリストを信じること、礼拝でしょう。「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19)とあるからです。
●植木亜紀子さんはわずか11歳で、白血病で天に召されました。この子は召される前、最後の一年間、教会学校に通いました。半年ほどで洗礼を受け「天の神様、私を神の子にしてくださってありがとうございます。足の痛い時や、検査の時もイエス様を思っているとがまんができます」という祈りが残されています。受洗後も何回も入院されました。人生でただ一度のクリスマスに出席して感激したそうです。翌三月、「イエス様連れてって」と同じ言葉で二度、主を呼び、御両親に「ごめんね」と言い、平安なうちに召されました。彼女の手紙にこんな一節があります。「私は入院しているお友達のこともお祈りしています。暇があればなるべく遊びに行って慰めています。私はそれ以外なにもしてあげられないので、一生懸命お祈りして遊びに行ってあげることが、イエス様から授かった、一番さいしょの仕事だと思っています。」彼女は11歳で亡くなりますが、残された自分の人生の時間を、使命を与えられた人の目で見直し、歩み直しました。
天地が創造される前に、神は私たちを愛し、キリスト信者になることが定まっていたとするなら、私たちはこの世から神の国へ行くのではなく、実は神の国からこの世へ遣わされて来たのではないかと思うのです。今日の午後に澤田望実ちゃんの幼児祝福式をします。なぜ、子供は輝いているのでしょう。子どもは天使のようです。人間はすべて生まれてきた時には天使の面影を持っています。それは神様の側にいたのでその香りと光を身に浴びていたからではないのでしょうか。しかしこの世に来て目で汚れた物を見、耳で汚れたことを聞いている内に、天の香りが消え、俗的になるのです。しかし、時が来て私たちはキリストに出会いました。頭であるキリストに出会った時、無性に引かれたのも、私たちがもともと彼の体だったからです。私たちは自分の天の故郷に出会ったのです。キリストは私を見つけ、洗い、聖めてくれました。ご自分の体だったからです。人それぞれに使命や仕事は違います。亜紀子さんは短い命という定めで生まれて来ましたが、残りの時間をキリストの仕事を精一杯しました。偉いと思います。私たちは自分の出生の秘密を知りました。嬉しく思います。私たちもこの世にあらかじめ用意されている神の業をしていきたいと思います。