『時を知る』 井上隆晶牧師
ローマ13章11~12節、マタイ25章1~13節

❶【再臨がなければ】
淡路島に大塚国際美術館があり、そこにシスティ-ナ礼拝堂が再現してあります。ミケランジェロの描いた聖画を陶板に忠実に焼き付けたものです。その正面の祭壇画は「最後の審判」の絵になっています。普通は教会の後ろの壁画に最後の審判を書きました。礼拝を終わってこの世に出て行く者が、世の終わりには裁きがあることを警告するためです。最後の審判は、キリストが再びこの世に来られる再臨の時に行われます。聖書では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:31~33)とあります。日本基督教団ではあまり「再臨」のことを言いません。新しい讃美歌21では「再臨」「裁き」という項目が削除され、アドヴァントに入れられました。それは教団の信仰が、あまり再臨を考えなくなったということだと思います。
先日、イザヤ書を読んでいたら、バビロンが滅ぼされるという預言が書かれていました。「泣き叫べ、主の日が近づく。」(6節)、「見よ、主の日が来る。…そこから罪人を絶つために。」(9節)、「私は、世界をその悪のゆえに逆らう者をその罪のゆえに罰する。」(11節)。聖書の中に「その日」とか「主の日」という言葉がよく出て来ますが、二つの意味があります。一つは世の終わりの時であり、最後の審判の日のことです。もう一つは、歴史の中で何度も神が悪い者を裁かれる時です。ここでイザヤが預言している「主の日」というのは後者になります。神様が罰しないからといって甘く見ていると、必ず撃たれるというのです。何でも恵まれ、何でも赦され、何でもよしよしとされていれば人間は善人になるかというとそうではないのです。時に厳しく罰せられ、叱られ、矯正され、痛い思いをしなければ人間は自分の罪に気づくことはできません。結局、終わりの日、神の前に立つことが一番大きな問題にならなければなりません。そうでなければ倫理とか道徳とかの根拠がなくなってきます。殉教者が悲惨な死を恐れないで耐えたのも、戦時下に国賊と言われたりすることをあえて忍んで行ったのは、やはり「終わりの日」があるということを信じていたからです。戦争中、教会は国賊と言われることを非常に恐れて、日本のためになるキリスト教になろうとして点数稼ぎをせざるを得ませんでした。そうしないと教会が潰されたからです。教会が潰されてもかまわないと抵抗する覚悟は、終わりの日を目標としていなければ起きて来ません。悔しい時、私はこう思うようにしています。「主は生きておられる。主は見ておられ、聞いておられる。必ずいつか裁かれる。」その「終わりの日」をいつも目の前にして腹を立てないように生きたいと思います。

❷【10人の乙女の油とは?】
さて、今日読んだ10人のおとめのたとえも、キリストの再臨の時を目指して生きなければならないことを教えています。この10人の乙女とは、教会をさしており、「花婿」はキリストをさしています。この10人とも「ともし火」を持っていました。この「ともし火」というのは「信仰」を意味します。花婿が来るのが遅れたというのは「再臨が遅れている」ことを意味しています。その間にこの10人の乙女はみんな眠ってしまいました。これは肉体の死を意味すると思われます。「花婿だ、迎えに出なさい」という言葉で、10人のおとめは目を覚ましますが、それは死の眠りから覚めて、キリストの前に立つことを意味しています。5人の賢いおとめたちは「ともし火」と共に壺に油を入れて持っていたので、火は消えませんでしたが、5人の愚かなおとめたちは「ともし火」しかもっていなかったので、火が消えそうになります。油がなければ火は消えてしまいます。キリストの前で、彼女たちの信仰が暗くなることを意味しています。愚かなおとめたちは、油を分けてくれるように頼みますが、断られます。信仰は自分のものですから他人に分けてあげられないのです。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿であるキリストが到着して、用意の出来た賢い5人のおとめたちと共に婚宴の席に入り、天国の戸は閉められてしまいます。後で「ご主人様、ご主人様、開けて下さい」と言っても、主人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(12節)と言われ、中に入れてもらえませんでした。この世というのは油を用意する時であり、油はこの世でしか用意できないということなのです。ではこの油とは一体何でしょうか。私はこの油というのは「本当の信仰心」だと思っています。聖大グレゴリオスの説教を読んだ時に、彼は「ともし火は外から見えるが、壺の中の油は外からは見えない。」といっていました。10人とも、ともし火をもっているので、外からは信仰があるように見えるのです。ところが主人の前に来たら、本当は信仰が無いということがばれてしまったということだと思います。

❸【召し使いになること】
愚かなおとめたちは「ご主人様、ご主人様、開けて下さい」といい、主人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(12節)と答えています。「主人」という言葉がキーワードになります。愚かな5人のおとめは主人である神様から「あなたのことは知らない」と言われました。どういう人が神に知られ、どういう人が知られていないのでしょうか。それは、神様を本当に主人にしてきたかどうかということだと思います。
バビロンが神に捨てられたのも、自分が神の僕、道具であることを忘れ、高ぶって自分を神(主人)のようにしたからです。イザヤ14:13にこうかかれています。「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、…いと高き者のようになろう。」イエス様がいかに父なる神様の意志を求め、それを大切になされたかを、聖書から知ることが出来ます。「御心のままになりますように」。人や身内が何といっても動きません。父なる神様がしなさいと言わない限り、動かず奇跡も何もなさいませんでした。自分の栄光を求めず、出世を考えず、この世を救おうとも思いませんでした。どのように自分が用いられても、父の意志に従うことだけを求められました。
私たちに命じられている父なる神の意志(御心)はたくさん聖書の中に書かれています。まず十戒がそうですし、イエス様の行動のすべてが戒めなのです。「イエス様ならどうするかな」と考えるのです。私たちへの戒めは神を愛することと、人を愛することです。例えば、教会へ神が遣わされた兄弟姉妹たちは、キリストの身体であり、キリストが愛している者たちです。「兄弟を裁いてはいけない」とパウロは言っています。自分が好きか嫌いかで兄弟姉妹を見たらいけないのです。パウロは「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。」(ローマ14:4)と言っています。私たち信者はどんな人も、キリストの召し使いなのです。主人は唯一人、イエス・キリストだけです。「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」(マタイ23:8)といわれているからです。召し使いは主人のものであり、自分のものではないのです。私たちが兄弟を裁いた時、それは主人のものを裁くことになります。兄弟を買い取ったのは、私ではなくキリストなのです。私が犠牲になったのでも、命を捨てて兄弟を救ったのでもないのです。「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。」(詩編145:14)とあります。どれだけ主人が兄弟姉妹を支えようとし、起こそうと努力をしているのかを知らないのですか。あなたが兄弟姉妹を裁き、倒れたらどうするのですか。あなたは主人の敵となるのです。兄弟を裁く人は、自分が召し使いであることを忘れ、自分を主人にしています。「あの人がいるから教会に行かない」と言って、主人のものを悪く言う者は、いつか主人が帰って来られた時に、叱られることでしょう。
●「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉が「葉隠」という武士道の在り方を説いた本の中に書いてあります。死ぬことを勧めているのではありません。続きがあり、「そのように考えた方が仕事が全うでき、自由になれる」と書いてあります。また「行動する時は死に物狂いで、無我夢中でやれ」とも書いています。卓球の水谷選手は集中していると周りの声が聞こえず、球の音だけしか聞こえないと言っていました。私たちは何かに取り組むとき、雑念が出て来ます。「人にどう見られているのか」「体の調子が悪くなったらどうしよう」など。そして雑念に負けて集中できないので、キリストの言葉が消えてしまうのです。淡々とやる人は、他のことを考えない人です。キリストの言葉を聞いたらそれに集中し、無我夢中でやることが召し使いとしての姿なのだと思います。

❹【聖書を読むこと】
主人の思いは聖書に書いてありますから、聖書を読まないと主人の思いからだんだんとずれていきます。頭に中に誰の言葉があるかです。「神の言葉」がなければ、あなたの中にある言葉は「自分の言葉か、他人の言葉」でしょう。神の言葉はすべて「~しなさい」という命令形です。「~したらいいね」ではないのです。神の言葉を、主人の命令だと思って聞かなければなりません。それが神を神とするということです。神の言葉も聞きたい言葉もあれば、聞きたくない言葉もあります。心地よい言葉は誰でも聞きたいのです。でもそうではないものもあります。でもその言葉から目を反らしたらいけません。聞きたくない言葉を聞くのが召し使いでしょう。召し使いというのは、行きたくない所に行き、したくないことをし、主人に従う者だからです。主人の思いを大切にし、絶えず主人の思いを尋ね、それを昼も夜も口ずさみ、その言葉に従おうとした僕は必ず主人に覚えられ「あなたのことを知っている」と言ってもらえるでしょう。一方、主人の思いを大切にせず、主人の思いを尋ねず、それを聞いても無視し、自分勝手に信仰した者は主人から「あなたのことは知らない」と言われるでしょう。あなたが神様を主人にしなかったからです。あなたがしたようにされるだけなのです。イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。眠る人は、何も見ません。神の戒めを見て生きようとしないのです。しかし「目を覚ます」人は、しっかりと神の戒めを目に入れて生きる人です。

❺【神様を主人としよう】
神様を主人として生きるということは、十戒の第一の戒め「あなたは私をおいてほかに神があってはならない」という戒めを守ることなのです。それはまた、主の祈りの最初の祈り「御名が崇められますように(聖とされますように)」という祈りを実践することなのです。この戒めはとても難しいものです。神様が主人ではなく、自分が主人となってしまうからです。しかし私たちの人生の主人は神様なのです。藤木正三牧師がこんなことを書いています。
●人生には思いもかけないこと(病気、不幸、災害、事件、事故)が起こって予定が狂わせられるということがよくあります。そういう場合、私たちはそれを思いがけなく歩かせられるわき道のように考え、悔やみ、つぶやき、そこを歩むことを気に入れようとしないものです。しかし、その思いがけないわき道こそが実は歩むべく定められていた人生の本道なのであり、逆に本道と予想しておいたほうが、自分勝手にそう思い込んでいたに過ぎなかったものであったのです。…人生の主人とは自分自身ではないのです。思いがけないことに出会って、そこに招きを読みとり、そこで招いておられる人生の主人を仰いでこそ、人生なのです。
思いがけない出来事や、思いがけない人に出会っても、それを受入れることが僕になることです。そしてそこで神である主人を仰ぎ、私に何をしなさいというのですかと尋ねるのです。それこそが僕の生き方です。一生かかって、私たちは神の僕、召し使いになりたいと思います。