『十字架のキリストによって』 井上隆晶牧師
詩編147篇1~11節、ガラテヤ2章11~16節、6章14節

❶【救いは継続しなければならないものであること】
初代教会のリーダーはペトロだと思っている人が多いと思いますが、そうではなくイエス様の兄弟のヤコブという人でした。ヤコブはエルサレムにあるユダヤ人キリスト教会の監督(主教)でした。さてご存じのように、ユダヤ人は外国人と挨拶をすることも、外国人を家に入れることも、共に食事をすることもしませんでした。そんな彼らが外国人も救われるのだと信じるようになるためには、多くの経験と時間が必要でした。
ペトロがアンティオキアに来た時のことでした。アンティオキアは最初に外国人キリスト教会が出来た所です。ペトロは以前、律法を知らない外国人の上にも聖霊が降り、イエス様を信じるのを見ました。そこでペトロは外国人ともつき合い、一緒に食事をするようになりました。ところが、そんなペトロの所に、エルサレム教会のヤコブの所から律法を守らないと救われないと主張するユダヤ人キリスト教徒が来たのです。そこでペトロは彼らの目を気にし、彼らを恐れて、外国人とつき合うことをやめてしまったのです。聖書にこう書かれています。「さて、ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしたからです。」(ガラテヤ2:11~12)ペトロは無学な漁師です。12使徒とはいえ、学歴のある頭の良い、地位の高いユダヤ人キリスト教徒が来れば、引け目を感じ、自分に自信がなくなってしまったのだと思います。そして人を恐れる自分が再び出て来てしまうのです。これがペトロの弱さでした。この気持ちはわかるような気がします。人間は一度回心して、そのまままっすぐに成長するわけではありません。元に戻ったり、同じ過ちを何度も繰り返したりして、徐々に成長していきます。その人の弱さというのは急に強くなるのではありません。救いというのは一度救われたからそれでもう大丈夫というものではなく、生涯にわたるものなのです。私たちは救われつつあるのであり、救いを確かにしなければなりません。回心は人生の中で一度だけするものではなく、死ぬまで何度でもしなければなりません。パウロでさえもイエス様から外国人への使徒として任命されてから、17年後にエルサレムに上って使徒たちに遭い「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」意見を求めたとあります。(ガラテヤ2:2)17年間も自分の使命に悩みながら伝道したのです。だから決して怖がることはありません。救いは徐々に成長してゆく過程なのです。ルターの言葉を借りれば「この生活は信仰厚い生活ではない。信仰厚くなってゆく過程なのである。健康なのではない。健康になってゆくのである。」のです。

❷【パウロの強さの秘訣】そんなペトロに、パウロは面と向かって非難しました。よく「第三者委員会」という言葉を聞きます。冷静に偏らず、物事を見るための委員会です。当事者同士になると利害関係や、人情に流されてしまうので問題点をぼかしてしまいます。だから第三者の方がいいのです。パウロはどうしてこのように強いのでしょうか。一つの理由はパウロという人は啓示を受けて外国人への使徒になりました。いってみれば本流ではありません。亜流です。一匹狼で群れません。だから強いのだと思います。群れる人や、派閥に入っている人は、どうしても人に気に入られようとして弱くなります。「キリストの十字架によって救われる」と言ったのはパウロです。こんなことをいう人は誰もいないのです。彼の正しさを証明してくれるのはキリストだけです。祈りと体験が彼を強くしたのだと思います。正しい生き方をする為には孤立することを恐れてはできません。どんなに先輩であったとしても、また親しい間柄であったとしても真理のためには、たもとを分かつ覚悟がなければなりません。神と人との関係が、人と人との関係より上になければなりません。
二つ目の理由は、彼がキリスト教の迫害者であったからです。正しいと思って迫害してきたのに、それが間違っていたのです。自分が一番誇りに思っていたものを、もう誇れなくなりました。さらに彼はステファノを殺すという「殺人」の罪を犯しました。義人を殺したのです。取り返しがつかない罪を犯したのです。人生が破れてしまい、誇れるものは何もなくなったのです。こんな自分が救われるとするなら、キリストの力以外にないのです。そんな自分の事を彼はこう言っています。「私にとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見なすようになったのです。…キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを糞土のように思っています。」(フィリピ3:7、8)自分というものに絶望しなければ、キリストの十字架のありがたみは分かりません。自分が何かを誇っているうちは、十字架の福音は入りません。
●禅宗の言葉に「柄のとれた壊れたひしゃくと、底の抜けた桶」ということばがあります。ちゃんと柄もつき水もこぼれないひしゃくや、しっかりと底のついた桶にたとえられるような人間は、ろくな者ではないという意味です。私たちは、本当は底が抜けてしまった者であり、水が洩れているような器なのだということが本当に分かった時、キリストの有り難さが本当に分かり、その時こそ、真のキリスト信者になれるのだと思います。私たちは罪のかたまりです。誰も自分を救うことも、癒すことも、清くすることもできません。人間の力では無理なのだから、キリストが人となって来てくださったのだと思います。

❸【キリストの十字架によってのみ救われる】ガラテヤ教会の信徒たちは、イエス様を信じていたのに、ユダヤ人キリスト教徒がやってきて「イエス様を信じるだけでは駄目で、割礼を受けなければ救われない」と言われ、再び律法に戻ろうとしてしまいました。信仰が長く、聖書を良く知っている先輩の信者に言われれば自信がなくなったのでしょう。また、自分の姿や行いを見たら、何とも頼りなく、本当に救われているのかなと思ってしまったのでしょう。パウロは12使徒ではないし、本当にこの人の言っていることは正しいのかと疑ったのだと思います。パウロはそれが悔しくて仕方がないのです。私もそんな思いをしたことがあります。「この人のやっているキリスト教は、変なキリスト教だ。異端ではないのか。自分勝手に祈祷文を作って聖餐をやっている、まるで井上教だ。」と先日も言われました。彼の手紙を読むと、律法を行うことで救われるのか、十字架のキリストによって救われるのかをずっと議論しています。パウロは徹底的にこれにこだわります。パウロは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤ2:16)と言っています。私たちも肉を誇る誘惑にさらされます。キリスト教指導者は強く、指導力があり、人を助け、教え、与え、何かの偉業を残さなければならないという肉の誇りです。そしてキリストの十字架が薄くなってきて、人間の業を立て始めるのです。しかし、救いは十字架です。誰もがつまずくものです。十字架だけでは何とも心もとなく感じるものです。
●2週間ほど前になりますが、祈祷会の時に、イザヤ書を読んでいて次の箇所に心に留まったのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ9:5)。クリスマスにイエス様の誕生の預言の箇所として良く読まれる場所です。救いというのは神様のされた出来事です。教えではありません。しかし私たちの多くはキリスト教の勉強をすることによって、またイエス様の教えを学ぶことによって救われると思っています。このことはイエス様も指摘しています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしの所へ来ようとしない。」(ヨハネ5:39~40)昔も今も変わらず人は聖書を研究して救われると思っています。なぜ、聖書が金装なのでしょうか。それは神の言葉だからです。この中に神の言葉が入っている、この中に神が語った言葉が記録されて保存されていると本気で思ってください。これは恐るべきことです。聖書は、神様のされた出来事が書いてあるのです。教えなら仏教の方が分かり易く、いいことをいっています。教えでは決して人は救われません。教えで救われるくらいなら、イエス様は十字架にかかる必要はありませんでした。神が人となって、本当に十字架にかかって肉が裂かれ、血が流されて死んだのです。林完赫牧師の説教を聴いても思いました。「ああ、本当にこの方は十字架にかかって死んだんだ。それで私の罪は赦されたのだ」と、とてもリアルなものなのです。このキリストの十字架の死によって人の罪が消えたのです。この一人の人、この「ひとりのみどりご」によって世は救われるのです。これは教えではありません。教えなら理解する必要がありますが、出来事は理解することとは違います。ただその出来事を受け入れ、信じるかどうかです。信じることなら、どんな子供でも、無学な者でも、漁師や農夫にでもできるのです。

❹【この世は死に、新しい世界は既に始まっている】
「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。…割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:14~15)驚くべき言葉です。この十字架によってこの世は磔にされた、つまりこの世はもう死んだというのです。そして私たちもこの世に対して死んだというのです。
「イエス様は御自分の体を十字架に釘づけにし、この世も共に釘づけた」という祈祷文があります。キリストの肉体がこの世の象徴だからです。この古い世はキリストと共に十字架に釘づけられ終わった、死んだのです。そしてキリストの復活と共に、新しい世界が始まったのです。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(マタイ24:29)という再臨の預言の箇所を、教父たちは十字架の場面であると解釈しています。これは明らかに世の終わりの姿です。2000年前に、あの十字架の上でこの世の終わりが始まり、やがていつか完全に終わりが来ます。それと同時に2000年前のキリストの復活によって新しい世界が始まり、やがて完成するというのです。もしそうなら、古い世界、終わって行く世界にしがみつく者は愚か者です。肉体に割礼を施す者や、この世の物を誇る者は、終わって行く古い世界にしがみついているのであって、パウロには馬鹿馬鹿しく見えたのです。私たちは新しい世界に生きるために、キリストによって新しく創造された者なのです。キリスト教徒というのは、この新しい世界に選ばれ、招かれたのです。
週報に病気について、苦難について、昔の人の言葉を載せました。病気が治ることを祈ることは良いことですが、病気は神が下さった恵みで、魂を謙虚にし、魂が神に近づくことを助けます。肉体も神のものですから、粗雑に扱うのではなく、この世の医学の治療で修復することは善いことです。しかし、それは神の国の準備のために時間がかかるので、修復するのであって、この世の肉体にあまりにも執着してはなりません。忘れてはならないことは古い世界はもう死んだ、終わったということです。必要以上にこの世にしがみついてはならないということなのです。古い世界はやがて新しい世界に変容します。だから新しい世界に住む準備をするのです。