『深い淵の底から』 井上隆晶牧師
詩編130:1~8、Ⅱコリント4:6~14

❶【深い淵の底から神を呼べ】
この詩編は七つの悔い改めの詩編の中の一つに数えられており、ルターはこれを「パウロの詩編」と呼んで、とても愛唱し、ここから讃美歌も造ったそうです。ジョン・ウエスレーは、救いの確信が得られなかった時に、この詩編によって回心に導かれたといいます。この歌が作られたのは旧約時代のネヘミヤの時代前後といわれていますから、バビロンから解放されるBC586年前後ごろの作といわれています。懺悔の祈祷文として、個人で祈ったり、公同礼拝で唱えられたりしたようです。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」(1節)英語では「ⅠCry to you,O Lord、」です。この著者は今「深い淵の底」にいます。淵というのは川の深い所です。色が濃い所です。ここから「抜け出ることの困難な境遇」という意味にも用いられ、よく「悲しみの淵」とかに使われます。ここでは底なしの淵の意味であって、一度落ちてしまったら最後、どんなにもがこうが、這い上がる足がかりもなく、底知れない不安と暗黒の中にぐいぐい引き込まれてゆくような所です。そういった絶望ともいえる状態の中から、この詩人は神を呼んでいるのです。私が驚くのは、彼が深い淵の底から神の名を呼んでいるという点です。私が深い淵の底に落ちた時、はたして神を呼べるであろうか、絶望して呼ぶのをやめるのではないだろうかと思うのです。
●「生涯、私は主を呼ぼう」(詩編116:2)「命あるものの地にある限り、私は主の御前に歩み続けよう」(詩編116:9)という詩編があります。若い時には熱心に主を呼んだけれども、最近は「主よ」という言葉も出て来ないという人がいます。昔はあれほど熱心に集会に来ていたのに、今はなぜと思う人もいます。生涯、主から離れないで主を呼ぶことの大切さを思います。信仰生活は継続しなければなりません。
「あなたは私の魂を死から、私の目を涙から、私の足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。」(詩編116:9)とあります。悪魔からの誘惑は二つあります。一つは神に対する希望と信頼を失わせることです。神に期待しても何も変わらなかったと、神に絶望させ、信仰を失わせるのです。こうやって神を呼ばなくなります。もう一つは、この世の虜にすることです。イザヤは「私の民はなすすべも知らぬまま捕らわれてゆく。」(イザヤ5:13)と言っています。イザヤの時代、人々は自分の罪を省みることをせず、朝から濃い酒を飲んで、夜更けまで酔っぱらっていたと書かれています。バビロンは突然やって来るのではありません。徐々にその人に迫り、支配していきます。バビロンという国に捕らわれるまでもなく、この世の楽しみに徐々に捕らわれてゆくのです。それがもうバビロンに捕らえられていることと同じなのです。自分の罪と格闘し、神に祈ることを辞めてしまい、この世の楽しみの中に逃げてしまうのです。そして神を呼ばなくなるのです。パウロは「悪を憎め」(ローマ12:9)と言っていますが、私たちは罪や悪を憎んでいません。結構、愛しています。「~まあ悪いことを止められればいいし、止められなくてもいいし」と思っています。現代の教会は罪をはっきり教えなくなりました。「~は悪である」とはっきり言わなくなりました。その弱さに乗じて悪魔が働いていると思うことがあります。
この詩編を書いた詩人は、バビロンで書いています。バビロンの誘惑の中で神の名を呼んでいるのです。
私はこの世が嫌になり、信仰に希望が持てなくなり、自信を失い、気力も無くなり、この世の楽しみに逃げようかと思う時、礼拝堂に来て、いつものように祈祷に立つと徐々に元の自分に戻ってゆくのを感じることが出来ます。神を呼ぶということは簡単なことです。本当に「呼ぶ」だけでいいのです。でもその簡単なことがなかなか出来ないのです。人はなかなか神を呼びません。
物事が上手くいっている時には気がつきませんが、人間というのは簡単に絶望の淵に落ちるものです。人間は弱い者だからです。うっかりしている内にすぐに足を滑らせます。病気になると特にそうでしょう。でもそんな闇のような時、自分ではどうすることもできない時、罪を犯してしまってもう駄目だと思うような時にも、主を呼ぶのです。自分の力では上に這い上がることは出来ませんが、キリストは必ずその深い淵の底まで来てくださり、あなたを上に引き上げて下さいます。キリストは以前も地獄の底まで来て下さった方です。地獄を知っているのです。地獄を知っているということは、人の罪や病、悲惨さ、人間の醜さ、弱さ、悲しさ、はかなさ、死を知っているということです。深い淵の底まで降りて来て下さる方は、私を背負われます。私を背負うとは、私の罪も病も汚れも自分のものとして背負うということです。そしてキリストは私と同じような醜い姿になられます。私の病を担い、私の傷を担い、私の汚れをもらったからです。これが救いなのです。だからこそ「赦しはあなたのもとにあり」「豊かな贖いも主のもとに」なのです。そこに希望があります。

❷【神は罪を赦して下さる方である】
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(3~4節)
口語訳では「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目を留められるならば、主よ、誰が立つことができましょうか。しかしあなたには赦しがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。」となっています。「心に留める」は、英語では「record」で「記録する」です。「目を留める」というのは「見張られる」という意味で、罪人として見張られるという意味になります。反対に「目を反らす」となると「赦される」という意味になります。神様に私たちの罪を覚えられていたら、罪を記録されていたら、誰も神の前に立つことは出来ません。しかし神が赦される方なので、あなたは人に恐れられ、尊敬されるのですという意味です。この詩人の深い淵というのは、罪による淵であるということが分かります。
●ホンマでっか!TVで「人は寛容な人を尊敬する」という記事を聞いたことがあります。リーダーとして重要なことは、目下の人に寛容であること。人が一番恐れるのは、強い者が寛容であること。下の人間は、そういう人に畏怖の念を抱くといいます。寛容じゃない人はリーダーとして成り立たないのです。1000社に及ぶ大企業のトップを調査した結果、全員に共通した特徴は、目立たないで謙虚であること。大企業のトップは引っ張るタイプの人は少なく、目立たずに謙虚な人が多いということでした。目立ちたく無いけど、重要な場面で実力を出す人物に対して、人はリーダーシップを感じるそうです。
神様がすばらしいのは、その全能の力や栄光の輝きだけではありません。自分を弱い者に合わせることができるというその力と自由さです。人の弱さを思いやることが出来、それを負うことが出来るという強さです。

❸【主に希望を置くこと、土の器であっても】
「私は主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。」(5~7節)
ここから7節まで「望み」という言葉が5回も出て来ます。また「待つ」という言葉も5回出て来ます。この詩人は、赦されるのを信じて待ち、イスラエルの民にも信じて待てと呼びかけています。自分でもどうにもならない罪をゆるしてくださる神を待ち望もうというのです。自分に期待し、希望をいだいてはいけません。希望は神に、キリストに抱くのです。神様なら必ず何とかして下さる。キリストなら必ず何とかして下さると信じて待つのです。信仰というのは神に期待し、神に望みをおき、神が動いて下さることを待つことです。
「豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。」(7~8節)「贖い」という言葉が2回出て来ます。「贖う」というのは「罪のつぐないをする。埋め合わせをする。負債を払う」という意味です。イスラエルのすべての罪が贖われ、それが消えることを、この詩人は待っているのです。これは救い主を待望する詩編です。そしてそれはイエス・キリストを通して実現したのです。この詩編がパウロの詩編といわれるのは、そういった理由からです。神のことばが肉となったのがイエス・キリストであり、そのイエス様が十字架の上から「あなたの罪はゆるされました」と宣言して下さいました。あなたは贖われたのです。キリストがあなたの罪の犠牲となったからです。

先程、パウロの手紙を読みました。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。ところで、私たちはこのような宝を土の器に納めています。この並みはずれて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるために。」(Ⅱコリント4:6~7)神が私の闇の中に輝いてくれなければ、キリストを知ることは出来ませんでした。土(朽ちてゆく肉)の中に神の宝が入ってくださるのです。外側はどうでもいいのです。問題は中身です。中にキリストが入っているかどうかです。土は所詮、土です。どんなに頑張っても、磨いても土は土です。でも、こんな土の中に入って下さる神がおられる。こんな汚れた者を嫌がらずに入って下さる主がおられる。それが尊いのです。人は外の器を嘆きます。自分は学歴がない、自分の人生は不幸でいっぱいだ。障がいがある。これでは嫌だ、といいます。しかしいくら高価な器でも、中に泥が入っていたらだめです。土の器であっても、そこにキリストという宝が入っているなら、そばらしい人生になるのです。
●同志社大学神学部に村上という先生がいました。将来の同志社を担う人として期待されていましたが、太平洋戦争末期に召集され、樺太で終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで伐採作業に従事しました。わらの入った黒パン、水のようなスープ、腐りかけた塩ニシン、それもほんのわずかの食事でした。捕虜となった人たちは互いに食べ物を奪い合いました。その中で、村上先生は毎日髭を剃り、服をととのえ、毎日騒がしい中で静かに聖書を読んでいました。ノルマが達成できずに食糧を減らされた人に、彼は黙って自分の分を分けてやりました。階級は二等兵でしたが、しだいに人々の驚きは尊敬に変わり、愛されるようになりました。しかし伐採している時に、木の下敷きになり亡くなってしまいました。引き揚げの日が来て、仲間たちは自分の物は何一つ持たず、皆で手分けして彼の遺品を奥さんに届けたそうです。それは聖書、讃美歌、神学書だったといいます。
その先生の、外の器、土の器は壊れてしまいましたが、その中のキリストという宝が放つ光とはこんなにもすばらしいものなのです。私たちの中に来て下さったキリストを誇りましょう。深い淵の底にまで降りてきて下さった方を誇りましょう。どんな時も、この主を呼びたいと思います。