『この世の国と神の国』 井上隆晶牧師
マルコ福音書1章12~15節、ダニエル9章20~24節

❶【神の国とこの世の国】
今日はこの世の国と神の国というお話をしましょう。イエス様の伝道の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。イエス様の教えは「神の国」の教えであり、復活してからも40日にわたって神の国について話された(使徒1:3)と書かれています。聖書では、神の国、天国、楽園、パラダイス、第三の天などいろんな表現がなされていますが同じだと思って下さい。ユダヤ人には「天の国」といい、外国人には「神の国」と言い換えて書かれています。国というのはギリシャ語で「バシレイア」といい、「支配、王」という意味もあります。
●4世紀の教父アウグスティヌスは説教の中で「今日、この世に地上の国があり、また、そこには天上の国もある。これら二つの国(地上の国と天上の国、根こそぎ引き抜かれるべき国と永遠に植えられるべき国)は、それぞれに旅人である市民を持っている。この世においては、二つの国民は混じり合っている。」「一方の国は永遠の平和を目的としておりエルサレムと呼ばれ、他方の国は地上的な平和を喜びとしており、バビロンと呼ばれる。」といっています。
先日、村山盛忠先生が「なぜわたしの名前を尋ねるのか。わたしの名前は不思議です。」という話をして下さいました。神様は御自分のことを「不思議」といわれました。神様が不思議なら、神様の国は「不思議の国」であり、神様のなさることは「不思議な業」ということになります。そして聖書では神は隠れておられると書かれています。神様が隠れているということは、神様の国も隠れていることになります。神様のなさること、神様の言葉の意味も隠されているのです。でも時に、神様はある人に、御自分の望む方法で姿を現し、神の国をチラリと見せ、御自分の秘密を教えられることがあります。この世の中に神の国は隠れていると思って下さい。
イザヤ書の2章に、世の終わりに「神の国」が現れるということが預言されています。「終わりの日、その日」が来ると、国々の争いを神が裁き、武器が捨てられ戦争が無くなると書かれています。それと共に「滅びるべきこの世」の特徴が書かれています。「この国は銀と金とに満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す。人間が卑しめられ、人は誰も低くされる。」(イザヤ2:7~9)これがまさにこの世の姿です。人間が物のように扱われ、役に立たない者、病人や障がい者は殺されます。こんな国がいつまでも続くわけがありません。だからこそ、イエス様は主の祈りの中で「御国が来ますように。御こころが天に行われるように、地にも行われるように祈りなさい」と祈りなさいと言われたのです。やがて隠れている神の国が現れ、この世の国は神に引き渡されます。

❷【神の国はどんな姿なのか】
神の国はどのような形で来るのでしょうか。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)と言われました。ピラトの前で審判された時も「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」(ヨハネ18:36)といわれました。パウロは「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17)と言っています。
●私たちの天国のイメージというのは、どんなものでしょう。夏に長野に帰り、上田にある別所温泉に行きました。「花屋」という有形文化財に指定されている大正時代に宮大工によって造られた大正ロマン溢れる旅館で、6500坪あります。部屋が広いこと。三部屋と廊下がついていました。温泉に入り、上品でおいしい料理を食べたら「ああ天国だ」と感じました。これが地上で味わえる天国感です。良い家に住み、おいしい料理を食べ、好きな人と一緒にいるのが天国だと感じます。
でもパウロは「神の国は、飲み食いではない」といっています。皆さんは何か足りないということを感じたことはありませんか。住む家もある、食べる物も困らない、危険もそうない。自分の願いは叶えられたのに、何か満たされないという心です。2週間、集会がありませんでした。しかし日々の生活に戻り、礼拝堂で祈りをささげた時、何ともいえない満たされた心になりました。神の国の平和とはそういうものなのです。この世の物で満たすのではなく、聖霊によって満たされるもの、神に従う生活を送ることから来る満足感なのです。「神の国」とは「神の支配」という意味だといいました。心を神様(聖霊)に支配される、神の言葉に支配される、神の愛に支配されるとき、私たちの中に神の国ができるのです。それは心の中に出来る平和、喜び、神に従って生きているという満足感と確信です。

❸【神の国は行くところではない。来るものである。】
イエス様は神であり、父なる神に完全に従っておられる方ですから、神の国自身ということができます。「神の国は近づいた。」というのは、イエス様があなたのところに近づいて来られましたということなのです。ヨハネの福音書の2章35節以下にイエス様が弟子たちに出会った時の話がのっています。「ピリポに出会って」というように「会って」とか「出会った」という言葉が5回も出て来ます。出会いというのは、その人の一生を変えてしまうものです。出会いというのは用意されているものです。こんな人と出合いたいと思ってもそううまくはいきません。
●私は大学の時、クリスチャンの友人と出合い、彼によって教会に連れて行かれました。万里子さんと出合い、統一協会から逃げ出すことが出来ました。中島牧師と出合い、牧師になる決心をしました。川谷牧師、有澤牧師、軽込牧師に出会わなければ自信をもつこともなく、教区の仕事をすることもなかったでしょう。松平神父と出合い、正教会の世界を知りました。他の人では駄目だったでしょう。これらの人を自分で集めて、隣に置くことが出来ますか?決してできません。自分を超えているのですから、神様によって用意されたものなのです。出会いによって私の一生は変わったのです。
聖書では、弟子というのは自分でなるのではなく、多くはイエス様に呼ばれたからです。「来なさい」「従いなさい」といわれたのです。マタイは税務署に座っている時に呼ばれました。ペトロは網を洗っている時に呼ばれました。最初はイエス様の方から動いたのです。むこうから来た、むこうから関わってきたのです。イエス様が近づいてきたということは、天国が近づいて来たということなのです。天国というのは私たちが努力して入るような所ではないということです。入れないのです。だから天国の方から来たということなのです。私たちは天国が来てくれたのだという考え方をしません。天国に行くものだと思っています。罪ある者は、決して行くことはできません。来てくれなければ、手を取って導いてくれなければ決して行けないのです。死ぬのが怖いとか、この世を去りたくないとか云う人は、来世が既に来ているということを知らないのです。私たちがイエス様との交わりをするということは、天国の交わりをするということになります。この世を終わってから天国に行くのではなくて、この世の中に、天国が入ってきているということなのです。別な言い方をしたら、この世から天国へという下から上への世界ではないということです。向こうから来ているのですから、上から下への世界なのです。神の国がこの世の中に来ている(重なっている)という考えは、物理学で証明されているようです。
●先日、大阪女学院中学の礼拝に行き、終わった後H校長と話をしました。校長は大変興味深いお話をしてくださいました。今、科学者たちは科学の力で奇跡や超常現象を解明しようとしているらしいのです。信仰者よりも、科学者の方が奇跡を信じているというのです。私たちは四次元の世界で生きています。四次元というのは「縦、横、高さ、時間」です。縦は線です。縦横で平面になり、高さが加わって立体になり、時間が加わると過去、現在、未来になります。この世界までしか人間は理解できないのです。しかし物理の世界では11次元まであるといわれています。私たち人間に理解できるのは「縦、横、高さ、時間」の四次元までですが、残りの七次元は人間には理解できないけれどもあるというのです。例えば、芋虫は「縦と横」という平面の世界しか知らないので、このまま這って行けば落ちるということが分かりません。人間は上から見ることができる(高さという立体の世界を知っている)ので、落ちるということが分かるというのです。だから別の世界があるというのです。神様は人間には七つの次元を隠しているけれども、ある人(預言者・先見者)には未来を見れる能力を与えこの世に警告を与えるのです。校長は、物理を通して聖書のいっていることは本当なんだと信じられるようになったと証ししてくれました。そしてこうも言われました。最近の若い先生は「本当に信じているのか分からない」。
だから神の国はあるのです。この世が全てではないのです。神様は何でも見ておられ、未来まで知っているので、私たちに言葉を与えて命を与えようとしておられるのです。

❹【天国は来て、わたしたちの間に宿られた】
マルコ1章13節に「イエスは四十日間そこ(荒野)にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあります。荒野とはこの世のことです。イエス様はこの世にとどまられます。この世には悪魔(野獣)がいますが、同時にキリストもおられます。キリストと共に天使たちもいます。この世の終わりまでこの私たちと一緒にとどまってくださいます。ヨハネの1:14に「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」とあります。言とはイエス様のことです。宿るとは「テントを張って生活を始める」という意味です。神は人となって、私たちと共に生活を始められたというのです。何が慰めかといって、この悪魔のいる世界に、キリストが共にいてくださるということです。この世の中に、神の国がとどまってくださるということです。私たちを一人ぼっちにしないということです。ここに希望と慰めがあります。
●大塚野百合という人の「真実を追って」という書物の中に次のようなことが書かれてありました。「ある夏の日、御殿場の基督教教育同盟夏期学校に出席していたわたしは、数名の教師と、神山にある復生病院というカトリックのハンセン氏病院を訪ねた。今、社会事業に献身しているA氏は、学生時代にここを訪れたことが、その生涯を決定する契機になったと話されたのを聞いていたので、大きな期待をもってでかけた。私たちを美しい微笑みで迎え、病室に案内してくれた修道女は、カナダ生まれのフランス語を話すサン・ジャックという三十歳なかばの人であった。彼女の心からにじみ出る平安に満ちた微笑みと、患者に『どうですか、今日は』と日本語でたずねる優しい声は、わたしを驚かせた。献身犠牲の生活をしているという気負いも無理もなく、みちたりた幸福に輝いている美しい姿であった。…『どうしてこのような奉仕の生活がおできになるのですか』と尋ねると『イエス様のお恵みです』と静かに答えられた。この修道女は、プロテスタントの私が知らない世界があることを示してくれた。それは私に夢か奇跡かとも思われる世界だった。『イエスの恵み』という言葉が、このように圧倒的な力をもって迫ったことは珍しかった。私は、自分の、また周囲のキリスト教に、何か深い問題性がひそんでいることを痛感した。」
「この修道女は、プロテスタントの私が知らない世界があることを示してくれた。それは私に夢か奇跡かとも思われる世界だった。」という世界こそ、神の国の世界なのです。それは祈りによって聖霊の支配する世界です。この世界に触れ、この世界を味わい、この世界の光を体験した人は、この世には決してない、何とも不思議な平安を得ることが出来るのです。神の国は、この世の中に来てとどまっています。誰でも、そこに入り、味わうことができます。私たちはこの世界を知っており、この世にいる時から、毎日むこうの世界の練習をしているようなものです。ああ、神の国、本当の命の国、この世の人が知らない世界、これを皆さんも体験して下さることを願います。御国が来ますように、御国の扉が開かれ、その光を皆さんが味わいますように祈ります。