『主がわたしと共にいてくださるならば』 井上隆晶牧師 ヨシュア14章7~12節、ヨハネ15章4~7節

❶【神に従いとおした男】
今日はカレブという人に学びたいと思います。彼は40歳の時、仲間たちとカナン地方を偵察しました。仲間たちは「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれていて、たいそう大きく、しかもアナク人(巨人)の子孫さえ見かけました。…あの民に向かって上って行くのは不可能です。」(民数記13:28、31)と言って悪い情報を流しました。しかしカレブは「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」(同13:30)と進言しました。神は民に対して怒りを現し、悪い情報を流した者は病気にかかって死に、イスラエルの民は誰一人その土地に入ることはできずに40年間荒野をさまようことになりました。ところがヨショアとカレブだけは別でした。神はカレブにこう言われました。「彼だけはそれ(土地)を見るであろう。私は彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」(申命記1:36)
今日の箇所というのは、この約束をかなえてもらうためにカレブがヨシュアの元を訪れた話です。このカレブという男はすごい人だと思います。彼はヨシュアにこう言いました。「ご覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来、四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時、約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(ヨシュア14:10~12)
40歳の時から85歳の今日まで45年間、彼は信仰を失いませんでした。(私は34年)40年前と変わらない信仰を持っていたということです。一時、熱心に神に従うことは誰でもできるものです。しかし人生の終わりまで、同じ熱い信仰で従いとおすということは大変なことです。
●Sさんという方が都島教会の会員でおられました。この教会を始めたS姉の息子さんです。賀川豊彦に心酔し、彼の後についてかばん持ちまでするようなとても熱心な信仰を持っておられました。ところが、創価学会の方をお連れ合いさんに迎え、病気で倒れてからはとんと教会から足が遠のき、奥様にいつも介護されて、最後は亡くなった時は、創価学会で葬儀をされました。
信仰を守りとおすことが出来るというのは恵みだと思います。大勢の人が教会に来られますが、洗礼に至るのは一部だけです。大勢の人が洗礼を受けますが、最後まで信仰を続けられるのはわずかです。最近、思います。主に従いとおすには、神の守りと助けがなければとうてい無理なのではないだろうかと。人間の力だけでは信仰を守ることは難しいと思います。神の選びと恵みに誠実に応答したいものです。

❷【神の約束を45年間、心に抱いて生きた男】
カレブの言葉には「約束」という言葉が5回も出て来ます。「約束しました」(9)、「この約束をなさって以来四十五年」(10)、「主は約束どおりわたしを生き永らえさせ」(10)、「主があの時、約束してくださったこの山地」(12)、「約束どおり、彼らを追い払えます」(12)彼がいかに「約束」にこだわっていたかを知ることが出来ます。約束というのは「神の言葉」です。この箇所を読んで思い出すのがイエス様の言われた言葉です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ14:7)カレブの中には、神の言葉が45年間いつもあったということです。そしてイエス様が「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われたように、彼の願いはかなえられたのです。
皆さんはどうですか。45年間も同じ「神の言葉」を心に抱いて生きていますか。神の言葉を暗記しなさい。神は必ず約束を守って下さるとカレブは信じていました。信じるからこそ、覚えているのです。信じない者は忘れます。大したことではないと思っているからです。神の言葉は約束です。神の言葉がひとたび口から出されたら、取り消すことはありません。イザヤ書にも「私の口から出る私の言葉もむなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)とあります。聖書の中には約束の言葉がたくさんあります。書き出してみてください。「聖霊をくださる」「御国をくださる」「キリストと同じ姿に変えてくださる」「二人の者が心を一つにして願うなら父はきいてくださる」などなど。
●坂村真民の「冬がきたら」という詩があります。
「冬がきたら、冬のことだけを思う。冬を遠ざけようとしたりしないで、むしろすすんで、冬のたましいに触れ、冬のいのちに触れよう。冬がきたら、冬だけが持つ、深さときびしさと、静けさを知ろう。…」渡辺和子シスターがこの「冬」を「人生の冬」である高齢期に置き換えて、読んでみるとよいでしょう、と言っています。過ぎ去った季節を懐かしむでなく、むしろ進んで、老いの魂と、老いの命にふれるのです、と書いています。
私は、神の言葉を信じて生きるということは「未来を信じて生きる」ということだと思います。み言葉は、私の将来の姿を約束しているからです。カレブも将来貰えるであろう土地を夢見て生きました。未来に向かって生きる人は、若いのです。夢や希望を失うと人は歳をとります。カレブがいつまでも若々しかったのは、神の言葉によって夢を持っていたからです。

❸【主がわたしと共にいてくださるなら】
もう一つ私が驚くのは、彼の求めた土地です。彼は他のイスラエルの民よりずっと多く働いたのですから、もっと良い土地を求めても良かったのではないかと思うのですが、彼が求めたのは「山地」でした。普通なら「平地」を求めます。平地には川も流れ、緑も豊かだからです。アブラハムと甥のロトが別れる時、ロトは平地を望み、そちらに降って行きました。山地は住みにくいのです。しかも、そこにはまだ巨人のような人が住んでおり、町は城壁で囲まれています。歳をとったのだから、もっと楽な生き方もできるのにカレブは「約束どおり、彼らを追い払えます。」(12)と答えました。この強さの秘訣はいったいどこにあるのでしょう。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)という言葉が彼にふさわしいでしょう。カレブは「主がわたしと共にいてくださるなら」と言いました。神に全幅の信頼を置き、神に期待しているのです。考えて見たらアブラハムは100歳で子供が生まれました。100+∞(無限大=神)=∞であり、1+∞(無限大=神)=∞です。大事なことは、私たちに1しか力がなくても、無限である神が共にいてくださるなら、何でもできるということなのです。私には無限大の方がおられる。何でもおできになる神が共にいてくださる。だから神を信頼して、何でも願ったらいいのです。「アバ・父よ」と子供がお父ちゃんにねだるように、しつこくねだるのです。「神様、私にはお金はありません。全世界はあなたのものであり、全地はあなたのものです。だから100坪の土地を貸してください。お父さん、あなたの仕事をするために土地をください。」と大胆に願ったらいいのです。
●先週の金曜日の朝の祈りの時に聖書を読みました。弟子たちがパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしかありませんでした。その時、イエス様は弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく注意しなさい」(マルコ8:15)と戒められました。パン種とは「教え」のことです。ヘロデの教えとは「お金」であり、「ファリサイ派」の教えとは「人の力」です。人とお金さえあれば問題は解決するという教えです。これはこの世の人が求めているものです。政治家などいつも金と人気に興味があります。しかしイエス様はそれらを頼ることに気をつけなさいといいました。私たちには唯一のパンがあります。それはキリストというパンです。多くの財産を持ち、大勢の人がいても、もしキリストという唯一のパンを失ったら一体何になるでしょう。しかしキリストさえいたら、ゼロからでも何とかなるのです。この教会がそうでした。朝の祈りの時に、一人一人の名前を覚えて祈りながら、このすべての人が教会員だったらどんなに良いだろうにと思いました。しかしこの人たちがいて、キリストがいなかったら一体、教会と呼べるでしょうか。その時「そうか、キリストは私たちの教会員となってくださったのだ」と思いました。「二人又は三人が私の名によって集まる所に私はいる」といわれたからです。キリストは都島教会員なのです。何とも頼もしい限りです。ここに共に座っていてくださいます。困った時、弟子たちのように頼めばいいのです。死人が出た時、よみがえらせてくれるでしょう。病気の時、行って癒してくれるでしょう。必要がある時、豊かなパンと肉の糧をくださるでしょう。悪霊が攻めてくる時、キリストが追い払ってくれるでしょう。何とも頼もしい限りです。
●先週の火曜日に「視覚障碍者友の会」に行って来ました。司会をしてくださった鄭(てい)さんというご婦人と話をしている時、彼女は私にこんな話をして下さいました。鄭さんは生まれながら視覚障碍があったわけではなく、途中から目が見えなくなり始めました。神様に『何とかして病を癒して、目が見えるようにしてください』と祈ったのですが、だんだんと目は見えなくなってゆきました。祈りの中で「なぜですか」と叫んでいたある時、第二コリントの「私の恵みはあなたに十分である」(12:9)という言葉に出会ったというのです。その時、飛び上がるくらい嬉しくなり、家に帰る途中の道が、何か自分が空中に浮いているような軽やかな感覚になったというのです。それまでは体が重くて仕方がなかったというのですが、不思議な体験をしたというのです。これが「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)ということでしょうか。この言葉は私たちも良く知っており何度も聞いています。それなのになぜ飛び上がるような喜びを感じないのでしょうか。この言葉が耳には入っているのですが、本当に開かれていないからです。神の言葉が本当に力を発揮するためには、聖霊の働きが必要なのです。彼女が絶えず祈っていたので、聖霊が降ったのです。
肉眼が開いていても、こんな喜びは味わえません。目が見えなくなっても、もし聖霊が私たちと共におられるなら、目が見える以上の喜びを体験することが出来るのです。キリストが共にいてくださる、聖霊が共にいて下さるということがどれほどの恵みであるかお分かりでしょうか。たとえ山ほどの財産があっても、多くの人に愛されても、いつも不平不満を言い、恐れがあったら、その人の一生は不幸です。幸せとは何を持つかではないのです。恵みと愛が見えるかどうかです。神が共にいてくださるなら恵みに目と耳が開くのです。
【祈り】
罪の故に、聖霊は去ることがあります。不信仰の故にキリストが業を行えないことがあります。私は、キリストや聖霊が去ることを恐れます。神は罪人を憐れみ、悔い改める者の友と言われました。私は罪から離れ、回心します。だからイエス様、聖霊様、私と共にいてください。私はあなたを頼ります。私は弱いですが、あなたが共にいて下されば、偉大な者になれるでしょう。どうかあなたの栄光を私に現して下さい。