『あなたがたの上に聖霊が降ると』 井上隆晶牧師
使徒1章6~11節、マルコ16章14~20節

❶【聖霊によって力を受ける】
キリストが昇天したのは、ご自分に似た者、同じ能力を持つもう一人の助け主、慰め主である聖霊を送る為です。聖霊降臨をもって救いは完成されます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)とイエス様は言われました。
聖霊を受けるためには、彼らは無力になる必要がありました。昔の人は、十二使徒のことを「神の笛」と呼びました。笛の中に息が入るといろんな音を出します。弟子たちの中に神の息である聖霊が入った時、彼らは神のことを自由に語り出したからです。笛は音を出さない時、穴が開いたただの棒です。穴が開いていていいのです。つまり欠けがあっていいんです。むしろ人生に穴が開かなければ、人生が破れなければ、神の息が来ても良い音色は出せないんです。そこで弟子たちに人生に穴を開けたのがイエス様の十字架でした。パウロは「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)といっています。聖霊によって肉の業(肉の思い)を絶てというのです。これは祈りの中で人は死に、祈りの中で人は甦ることを意味しています。言い換えれば聖霊によって死に、聖霊によって生かされるのです。人間の力や頑張りでは決して死ねませんし、決して生きることも出来ません。私はこの聖霊の力を何度も体験しました。

●以前私は恵みに感謝ができず、祈りの中で「これだけでいいですから適えて下さい。そうすればもう何もいりません」と文句を言っていました。そんな祈りを毎日繰り返し、それが半年以上続いたと思います。ある時、祈りの中で私はキリストの声を聞いたのです。「私はあなたのために全てを与えた。衣も与えた。後、何をあなたに与えることができようか。」そしてキリストに触れられた時、自分の罪深さと同時に、こんな自分にもかかわらず、ものすごく愛されたことが一瞬で分かったのです。涙が出て止まらなくなりました。そしてお腹の底から湧いて来る、この世で味わったことのない喜びに満たされてしまいました。こんな体験は初めてで、まるで天国にいるようでした。聖霊が入って来られるのは、はっきりと分かるのです。それは質が違うからです。同質なものなら分からないでしょうが、天のものははっきり分かるのです。それから私の執着が消えてしまったのです。あの時、私は聖霊によって死んだのだと思います。そして同時に聖霊によって生まれたのです。

●アントニー・デ・メロはこう言っています。「使徒はまず、自分の中に、聖霊による変容の効果を体験する。ついでその同じ変容させる力を人に及ぼすのだ。神学生は司祭になるために養成を受けるが、そのプログラムが終わったかどうかを、私は次のように尋ねる。『あなたは聖霊を持っていますか。神の恵みによって聖霊を人に与えられると確信していますか。』もし、彼が『いいえ、できません』と言えば、これまでの哲学、神学、外国語や説教、典礼、聖書その他の専門的知識は何の役に立とう。…世界は神学に飢えてはいない。神に飢えている。初代教会は人々に聖霊の神学を提供したのではなかった。まず、聖霊ご自身を提供した。聖霊がどのように働くか、その力の体験を伝えた。飢えている人が求めているのは食物であって、言葉ではない。あなたの言葉の力と祈りの力をもって、人の心と生き方を変えたという体験を持っているか。
初代教会における使徒の条件というのは、「あなたは復活したキリストに出会ったことがあるか」ということでした。これこそキリスト教の力なのです。

私の力は、礼拝と祈祷の中で与えられます。礼拝をすると私はお腹の中から泉のように力が湧いてくるのを感じる時があります。聖餐を食べた後の感謝の祈りの時がピークです。何かが湧いてくるのです。それが湧いてくると聖書が分かるようになり、すべてがつながり、神様の愛が分るようになり、その日一番言いたかったことが腑に落ちるのです。だから祈りがどんどん口から出て来ます。私はこれが聖霊の力だと思います。そうすると、手を置けば必ず癒されるという確信が出て来るのです。悪霊も逃げて行く。自分が神様の道具になったような気がするのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)というのは本当だと思います。聖霊を受けるのは神を証しするためです。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また。毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17~18)だから私たちはこの世の人と同じように生き、死んではいけません。生きるにしても死ぬにしても神を証しするものでなければなりません。私たちが選ばれて信仰を与えられたのも、病が癒されたのも、カルトから救い出されたのも、生かされているのも、すべて神を証しするためなのです。私はこの世に証したいのです。神は本当におられるということを。その為にも、日々神の言葉を聞き、祈りながら聖霊の力を待ちましょう。

❷【昇天したキリストは、あなたを天に引き上げられた】
この後、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒1:9)とあります。キリストは復活して40日目に天にお帰りになり、父なる神の右の座にお着きになりました。それを昇天といいます。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19)と書かれています。
イエス様が天に帰られたということは、今は地上にはおられないのでしょうか。聖書は「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と書いていますから、正確にいうなら、人間性においては天に上げられましたが、神性においては父と共に天におられ、われらと共に地におられるのです。ですから昇天というのはキリストの受け取られた人間性が昇天したことをいうのであって、神性は常に昇天しているのです。神性は父と一体であって、決して分離することがないからです。イエス様は元の神の姿に戻られたのですが、受け取られた人間性を脱ぐことなく、そのまま神の右に座られました。この地上で人間の罪と死を取り除き、悪魔を滅ぼすために人間性を着ましたが、仕事が終わって作業着を脱ぐように、人間の肉体を脱ぐようなことはなさらなかったのです。受け取られた人間性(肉)をそのまま神化(死なない体に)され、それを天に引き上げられたのです。これはものすごいことです。神様は人間と永遠に運命を共にする決意をなされたということなのです。キリストの昇天は、あなたの昇天です。頭であるキリストが天に上がった時、体であるあなたも共に上げられたのです。あなたがキリストと一体になって彼の体となったからです。私たちはキリストの昇天によって高められたのです。だから聖書はこう語るのです。
・「あなたは高い天に上り、人々をとりことし、…彼らはそこに住み着かせられる。」(詩篇68:18)
・「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物(聖霊のこと)を分け与えられた。」(エフェソ4:8)
昔の祈祷文にもこのように書いています。
・昔、罪と死に陥ったわれらの人間性は、天使たちよりも高く上げられて、神聖なる宝座に置かれました。(昇天祭の讃詞)
・キリストよ、あなたは腐敗に陥った人間性を復活させ、あなたの昇天をもってこれを天に上げて、ご自分と共に栄光を与えました。(昇天祭の讃詞)

❸【地を天に変えなさい】
弟子たちが天を見つめていると天使が現れてこういいました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになる。」(11節)イエス様が天使に担がれて天に上って行った絵があります。イエス様を担ぐ天使と、地上にいる天使がいます。弟子たちが天を見上げていたら、知らない内に自分の横に天使が立っていて「なぜ天を見上げて立っているのか」といったのです。天使たちは、弟子たちの目を上ではなく、地上に向けるように言っているかのようです。「上だけが天ではない。地上も天になったのだ。キリストは、姿は見えないが聖霊と共に、教会という姿で地上にとどまる。そこに目を向けなさい。」と言っているようです。だから、私たちも目を天から地へ向けなければなりません。地の中にキリストを(天を)見なければなりません。「み国が来ますように、み心が…地にも行われますように。」と主の祈りは祈ります。「み国に行けますように」と祈りません。キリストはこの地にこだわります。辛い事があると、さっさと死んでしまったら楽だと思うことがあります。でもどこか別の所に天国を求めてはいけないということでしょう。キリストがおられる所が天国です。キリストがこの世に共におられるなら、この世は天国なのです。
●河野進という牧師が「マザーテレサは行き倒れの一人ひとりを本当にキリストとして介抱していらっしゃる。あれはカトリックだからこそできることですよ。」と言っています。渡辺和子シスターは、それについて「カトリックの人は、ご聖体をキリストとしていただくが、プロテスタントでは、キリストの記念として行う。その違いだ」と言っています。カトリックは、とうていキリストと思えないものをキリストと信じる信仰を、ミサの中で求めているからです。
とうていキリストと思えないものをキリストと信じるというのは大切です。私たちもどんな人の中にもキリストを見る、どんな状況の中にも、どんな場所の中にもキリストを見る目を養いたいと思います。これは信仰の修行です。

聖餐の前に「心を高く上げなさい」という言葉を皆さんは聞きます。聖餐は皆さんを高く上げる式です。「心を高く上げよ」と言われるということは心が落ちているということです。悪魔は人間を地に、地獄にまで落とそうとします。梯子のヨハネがそのような絵を描いています。しかし教会は人間を天に引き上げます。下を見てはいけません。上を見るのです。下とは自分です。上とは神です。神を見上げるのです。神がして下さった事を、神の約束を、言葉を見上げるのです。
●私の教会には、精神障碍者がたくさんいます。統合失調症、発達障碍、うつ病、双極性障碍、人格障碍などです。そんな人たちと一緒に礼拝をしていると、ある人は寝ていますし、ある人は自分で好きな時に出て行ってしまいますし、ある人はしんどそうに顔を歪めています。そんな人を相手に、私も妻も他の教会員も疲れてしまう時があります。また元気であった教会員がうつになって倒れ、もう精神障碍を持った人に近づきたくないといいます。彼らがいるから行きたくないといって去っていた人も大勢います。そんな時、「神様はなぜ私にこのような使命を負わせたのだろうか、なぜ神様は助ける人を送ってくれないのだろうか」と絶望的になることがあります。
そんな疲れた私をいつも立ち直らせ、力をくださるのが聖餐式です。昨日もパンを高く上げ、ブドウ酒の入った聖杯を高く上げた時に、「はっ」と気づいたのです。「そうだ私たちは自分でいくら頑張っても、自分を高く上げることは出来ない。でもただのパン、ただのぶどう酒でも神の言葉と聖霊によって、尊いキリストの体と血になる。私たちはただのパン、ただのぶどう酒だけれども、そんな私が神の言葉を聞き、聖霊を受けるならキリストの体となり、尊い者になれる。私は無力でいいのだ。私を高く上げるのは私ではなく、神様なのだから。」そのように感じたのです。私は、ただキリストの手の中で出来るせいいっぱいをしたらいいや。そう思うと心が楽になるのです。
●あなたに命じる。眠りについている者よ、起きよ。わたしは、あなたが陰府の国にいつまでも捕らわれの身でいるためにあなたを造ったのではない。死者の中から起き上がれ。…わたしの手で造られた者よ、起きよ。わたしに似せて造られたわたしの似姿よ、起きよ、立て。ここから出て行こう。…敵はあなたを楽園から連れ出した。しかし、わたしはあなたを、もはや楽園にではなく天の玉座に着ける。(古代の説教)
この説教を読むたびに、自分とは何者なのかを思い出します。あなたはキリストの像ではありませんか。私たちの体はキリストの体ではありませんか。彼が自分自身のように愛するもの、聖霊が宿る神殿、キリストの肉と血が入る器ではありませんか。あなたはキリストのものではありませんか。だから自分を高く上げましょう。自分を地に落としてはなりません。自分を天的なものに引き上げなさい。

このように、地を天に変えて行くのが私たちキリスト教徒の務めなのです。祈って、地の中に天を入れてゆくのが私たちの務めです。イスラエルの首相が「私には絶望している暇はないのです」といったという記事をクリスチャン新聞で読んだことがあります。絶望していても目の前の問題は解決しません。前に進むしかないのです。どんなに現実がマイナスな状況でも、神に叫ぶしかないのです。「私は主に望みを置き、私の魂は望みを置き、み言葉を待ち望みます。私は主を待ち望みます。…イスラエルよ、主を待ち望め。」(詩編130:5~7)この詩編には「望む」という言葉が5回も出て来ます。なぜ、望みをもてるのでしょう。神が共にいるからです。人間だけだったら失望してもいいのです。でもあなたには神が共におられる。だから希望してもいいんです。上手くいこうがいくまいが、晴れていようが雨であろうが、どんな時でも神はここでも働いておられると信じるのです。不信仰と闘いなさい。キリストに希望を持つのです。必ず何かが起こると信じて、持ち望みましょう。地を天に変えて行きましょう。神様が私たちと共にいてくださいますように。