『恵みを受け取る力』 井上隆晶牧師
ローマ10章17~21節、マルコ3章1~15節

❶【片手の萎え人は何を意味しているのか】
ある安息日にイエス様は礼拝をするために会堂に行かれました。その会堂の中に片手の萎えた人がいました。「萎える」というのを辞書で引くと「力がなくなり動けなくなること」とありました。つまり力が入らない、力が出せないということです。なぜ両手ではなく片手なのでしょう。片手が動かないとどうなるでしょう。両手でしっかりと物を持つことが出来ませんし、重い物は落としてしまうでしょう。イエス様はいろんな病気を癒されたのですが、聖書で紹介されているのは重い皮膚病や熱病を除いて、ほとんど感覚器官や手足に限定されています。目を見えるようにし、耳を聞こえるようにし、舌で話すことができるようにし、手を癒し、足を癒して歩けるようにします。それは信仰するにあたって必要な器官を癒されたということなのです。目は神を見る為、耳は神の言葉を聞くため、口は神を賛美し、神の言葉を伝えるため、足は教会へ行くため、手は神の恵みを受け取るためなのです。だからここで手を癒されるのは、神の恵みを両手でしっかりと受け取るためなのです。
この会堂にいた「片手の萎えた人」というのは、力を失ったユダヤ教の象徴です。頭では神様のことを知っています。礼拝もし、賛美もし、お祈りをさせたら上手で、献金もし、信仰生活もきちんと行っています。でも議論ばかりで病人を癒せず、悪霊を追い出すことも出来ず、貧しい人や苦しんでいる人を救う力がないのです。だから片手が萎えているのです。そのように見てゆくと、これはユダヤ教だけではなく、私たちキリスト教徒も同じだということが分かります。今の教会の問題点はどこにあるのでしょう。神学の無さでしょうか、人が足りないのでしょうか、経済力の問題でしょうか。そうではありません。学歴は高く、迫害時代に比べれば人もいますし、経済力もあります。でも会議をすれば「あれが足りん、これが足りん、誰のせいだ」とまことに議論は盛んです。まるでユダヤ教のようです。頭では分かっているけれども力がないのです。
●ある人が言いました。「かつて、十指に余るほどのセミナーに参加しました。少なくとも百を超えるすばらしいアイデアのかずかずを身につけました。今、私が求めるのはそれらよりもさらに美しい、何かの考えではありません。これらの考えの少なくとも一つを、行動に移す力です。」

❷【イエス様はかたくなな心を悲しむ】
人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか注目していました。安息日は礼拝する日なので仕事をしてはいけませんでした。そこでユダヤ人は「どこまでが仕事なのか」という議論をしたのです。以前TVを見ていたら、今でもユダヤ教では安息日に電気をつけることは仕事だというのです。冷蔵庫を開けても部屋が真っ暗なら見えません。そこで彼らの冷蔵庫は、ドアを開けたら中を照らすように自動的につくように造られています。病気を癒すことも仕事でしたから、イエス様が病気を癒したら、安息日を破ったと言ってイエス様を訴えようとしたのです。
イエス様は手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」(3節)と言われました。そして人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と問うと、みんな黙っていました。なぜ誰も何も答えなかったのでしょう。善を行うこと、命を救うことが正しいのに決まっています。でもそのように答えると「ではなぜ私を罪人扱いするのか」と反対に問われます。イエス様と対話をすれば自分の正しさが崩れてしまうからです。彼らは自分が絶対に正しいと思っています。イエス様が何を言おうが、最初から聞く耳を持っていません。イエス様は怒って彼らを見回し、彼らの「かたくなな心を悲しまれた」(5節)とあります。神様が一番悲しまれるのは硬くなった心、強情な心、自分を絶対に正しいとする心です。硬くなった心はどんな言葉も入りません。コンクリートのように雨を吸い込むことなく、全部流してしまいます。聖書と対話しなさい。対話の中で自分の正しさを崩されましょう。
●この後、イエス様はガリラヤ湖の方に立ち去られます。会堂でいくら教えても聞こうとしないからです。そこで湖の畔でイエス様は教えられます。そこへ「おびただしい群集」(7、8節)がやってきました。その人たちは「イエスのしておられることを残らず聞いて」(8節)集まってきました。「イエスのしておられること」というのは病気の癒し、悪霊を追い出すことです。「残らず聞いて」とはものすごいエネルギーです。今の時代も同じです。あそこの病院がいい、ここの病院がいいと聞くと、実に熱心に病院をかけずり回ります。
イエス様は弟子たちに小舟を用意してほしいと言われました。群集に押しつぶされないためです。「イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」(10節)イエス様を押しつぶしてでも癒されたいと思ったということです。ここを読んでいると、イエス様はかわいそうだなと思いました。皆イエス様を利用しているだけです。彼らは教えを聞くために来たのではありません。病気を癒してもらうために来たのです。神を求めているのではありません。恵みだけを求めているのです。私たちは「御ことば」を押しつぶしてはなりません。逆に自分が神の言葉に潰されなければならないのです。イエス様は他の箇所でこう言われました。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタイ21:44)この石とはイエス様のことです。イエス様によって自分が打ち砕かれなければなりません。「わたし、わたし」という思いが砕かれなければならないのです。イエス様をいくら押しつぶそうと思っても出来ません。この方は神の言葉です。永遠に有効な言葉なのです。いくら忘れようとしても、誤魔化してもそれはできません。この方の言葉があなたの上に落ちれば、あなたは必ず砕かれます。

❸【手を伸ばしなさい】
イエス様はその人に「手を伸ばしなさい」(5節)と言われました。そして「伸ばすと、手は元どおりになった。」とあります。「元どおりになった。」とは「本来の機能を取り戻した」という意味です。人間としての本来の姿、神を必要として生きる生き方を取り戻したということなのです。不思議です。萎えているのだから伸ばせるはずがありません。でもイエス様は「伸ばせ」と命じられます。聖書の中でイエス様はいつもこのような無理なことを命じられます。中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ2:11)といわれ、38年間病気で苦しんでいる人には「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5:8)と言われました。イエス様はできなくてもしなさいと言われるのです。「出来るか、出来ないかを議論してはいけない、まずやりなさい」と言われるのです。あなたがやり始めたら、神様が力をくださいます。まず一歩前に出るのです。そうすれば必要な力も健康も後から神様がくださるのです。手を伸ばせと命じられる方は、同時にその力も下さいます。後の責任は神様が取ってくださるのです。多くの人は、恵みが入って来る入り口で止まったままでいます。そして「出来ません」「出来たらやります」「元気になったら教会に行きます」「時間があったら祈祷会に出ます」といいます。そのような人でしたためしはなく、来たためしがありません。最初からもう決めているからです。教父たちは「決断が弱いからである」といっています。
「手を伸ばしなさい」とはどこへ伸ばすのでしょうか。イエス様にです。命の木にです。彼は今まで律法(善悪知識の木)に手を伸ばしていたのです。律法とは何でしょう。それは「自分(人間)の力に頼って生きる」ことです。もうそのような生き方を辞めて、神に頼って生きる生き方に転換しなさいというのです。信仰生活は自分(健康、判断)というものに頼ることを棄てなければ始まりません。信仰とは神に頼ること、神の言葉に寄り頼むことなのです。あなたの命の方向性がイエス様に釘づけられるなら、機能は回復してゆくのです。

●渡辺和子シスターが本の中にこんなことを書いていました。「アメリカ人修道者が持つ、生まれつきの信仰の深さは『神は、その人の力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる』という御言葉に基づいていました。…私たちの一生は、迷いの連続と言ってもいいでしょう。迷うことができるのも一つの恵みです。ナチスの収容所に送られた人々には、迷うことは許されませんでした。すべてが命令による強制であり、人は選択する自由、つまり、迷う自由を剥奪されていたのです。『迷った時には、それぞれのプラスとマイナスを書き出し、重みによって決めなさい』修道生活か結婚生活かの選択に迷っていた私に、上司であったアメリカ人神父が教えてくれたことでした。赤ちゃんを産む決心をした卒業生は、大学での講義を思い出し、プラスの欄に『神のご加護』と大きく書き込むことにより、自分の迷いに終止符を打ったのでした。」
最近、都島教会の役員をしてくださった方たちが、次から次へと倒れていかれます。みんな偶然でしょうか。彼らは文句も言わず、コツコツと奉仕をして下さいます。大変なご苦労を負わせてしまい、本当に申し訳なく思います。役員さんたちが倒れていくと、この教会は一体どうなってしまうのだろうか、やはり無理だったのか、夢で終わるのだろうか、最後は教会を閉めることになるのだろうかという思いが湧いて来て、気分が落ち込むことがあります。そんな時「手を伸ばしなさい」というイエス様の言葉を聞くと「はっ」として救われるのです。『迷った時には、それぞれのプラスとマイナスを書き出し、重みによって決めなさい』という言葉。私もプラスの欄に「神のご加護」と大きく書き込めばいいのだと思うのです。
「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ローマ10:21)とありました。キリストは一日中、私を助けようとして手を差し伸べています。一日中です。私の横に、ここにいつでもキリストの手が伸びているのです。私も自分の手をイエス様に伸ばそうと思います。その手と手が結ばれた時、奇跡が起こるのを信じたいと思います。
ああ、イエス様の手、私の罪のために釘打たれた手。その手はすべての病を癒します。その手は悪霊を追い払います。その手は私を祝福します。その手は死を滅ぼします。その手が触れた者に命は戻ってきます。ああ、キリストの手、その手であなたはペトロを深い地獄の淵から引き上げました。この手にすがりましょう。