『記念しなさい』 井上隆晶牧師
ヨシュア4章4~7、20~24節、1コリント1章18~25節

❶【ヨルダン川を渡る契約の箱】
イスラエルの民は約束の土地に入って行く時に、南からまっすぐに北上しないで、いったん死海の東側に回ってからヨルダン川を渡り、土地に入って行ったことが分かります。ヨルダン川を渡る時、まず契約の箱が先頭になって川を渡りました。契約の箱を担ぐ祭司たちの足が、ヨルダン川に入ると、川上からの大水がせき止められました。こう書かれています。「契約の箱があなたたちに先立ってヨルダン川を渡って行く。…主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川に入ると、川上から流れて来る水がせきとめられ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」(ヨシュア3:12~13)たぶん、川上で土砂崩れが起こり、川の水がせき止められたのであろうと解釈している人もいます。いずれにしても川の水が干上がり、イスラエルの民は渡ることが出来たのです。この出来事は、私たちの大事な真理を伝えています。
「ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。」(ヨシュア4:7)と書かれています。契約の箱は神自身、キリスト自身の象徴です。川の手前はこの世(荒れ野)、川の向こうは神の国(約束の土地)の象徴です。川は死の象徴です。ノアの洪水の時に全地を飲み込んだのも、紅海を渡る時にエジプト軍を飲み込んだのも水でした。しかしこの水が契約の箱の前で止まりました。キリストの前で死の激流は止まるということです。キリストによって私たちは死に飲み込まれることなく、初めて神の国に渡ることができます。しかし契約の箱が水の中から上がると、再びヨルダン川は激流に戻りました。
約束の土地に渡るのに、別の場所からは渡れません。春の時期で水かさが多くどこも渡れませんでした。契約の箱のあるところからでなければ、渡れないのです。つまり天国への道はただ一つなのです。キリストという道を通ってのみ天国に渡ることが出来ます。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。」(ヨハネ14:6)イエス様から離れれば、あなたは必ず死の激流に飲み込まれるでしょう。礼拝堂の前にある祭壇は「宝座」と呼ばれます。英語では「ホーリー・オールター」です。これはキリスト自身の象徴です。この前で、死は止められます。私たちが礼拝に帰り、宝座の前に立つたびにあなたの死は止まるのです。だから前に立つほど、あなたは若返ります。またこの宝座によって、天国への道が開き、そこへ渡ることができるのです。

❷【記念の石】
私の田舎は長野県の伊那市というところですが、周りを南アルプスと中央アルプスという高い山々に囲まれています。山の上に行くと、ケルンという石を積んだ塚があります。山に登って来た人たちが記念するために積んだのだと思います。イスラエルにも神の業を記念するためにしるしが立てられました。
イスラエルの民がヨルダン川を渡り終わった時、神様は、部族ごとに一人、計12人を選んで川の中から12個の石を拾わせ、それで記念のしるしを立てるように命じられました。次のように書かれています。「ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」(ヨシュア4:3)そこでヨシュアは12人に命令し、石を持ってこさせ、彼らが宿営している川向うのギルガルという場所と、川の中の二か所に記念のしるしを立てました。塚のように積み上げたのか、丸く並べたのか、一列に置いたのか分かりません。でも12の石を立てたのです。この12個の石は、イスラエル12部族の象徴でした。ヨシュアは約束の土地と、川の中の二か所に石を立てましたが、川の中の石は、古いイスラエルの民を象徴し、約束の土地の石は新しい民を象徴しています。この石は私たちの象徴でもあります。つまり洗礼による私たちの死と再生を象徴しています。古い自分は洗礼版の水の中で死に、新しい自分が生まれたのです。
旧約聖書のイザヤ書に「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。」(イザヤ51:1)という言葉があります。過去の自分の姿、惨めな姿、罪を犯す自分を決して忘れてはなりません。石が重いように、あなたの罪は重く、それはあなたを深い地獄の底にまで沈めました。あなたは自分の力では、川底から浮いてくることも出来ず、川底から出て来ることもできなかったのです。この石は川の中に深く沈んでいましたが、拾われ(3節)、肩に担がれ(5節)、約束の土地に置かれました。私たちも以前は、罪と死と呪いの中に沈んでいたのですが、キリストがそれを見つけて拾い上げ、肩に担ぎ、神の国の象徴である教会へと連れてきて下さったのです。
●昔、アッシジのフランチェスコの映画を見た時、崩れ果てたサン・ダミアーノの聖堂のレンガや石をフランチェスコが一つずつ拾ってきては、それで聖堂を再建した場面を思い出します。
私たちは今でも罪を犯します。自分の罪は重いのだということを忘れてはなりません。自分の力では絶対に浮かべないのです。それを肝に命じましょう。

❸【記念する意味】
これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる(4:7)とヨシュアはいいました。記念という言葉で思い出すのが、聖餐式の言葉です。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19、Ⅰコリント11:24、25)記念というのは、ギリシャ語で「アナムネーシス」といい「思い出す」という意味です。神様は思い出すことを命じられました。聖餐式のたび毎に思い出せというのです。何を思い出すのでしょう。ヨルダン川の石についてはこう書かれています。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねる時には、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡り切るまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。…」(21節)聖餐式を子供たちが見て、「ねえ、何をしているの、何を食べているの」と聞いた時、こう答えるのです。イエス様が死と地獄の中に入り、そこにいる私たちを拾って下さったんだよ、肩に担ぎ、天国に連れて行ってくれたんだよ。イエス様の十字架と復活で、天国への門が開いたんだよ。パンはイエス様の死なない命を貰っているんだ。ぶどう酒は、罪の赦しを貰っているんだ。神様は強いんだよ。神様を大切にしなさい。」と教えるのです。
●先週の朝の祈りの時に、聖霊様が私に「礼拝堂に帰って来て思い出さなければならないことが三つある」とささやかれました。
①一つ目は「私たちはキリスト抜きでは何も出来ない」ということ。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」(ヨハネ15:5)キリストに祈らないで何かをしても失敗するだけです。失敗の度に絶望するのはやめましょう。自分は無力であることを認めなさい。
②二つ目は「悪魔が私たちを地に落とそうとしている」こと。「あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」(1ぺトロ5:8)敵がいるのです。祈らなければ、必ずあなたは食われます。
③三つめは「キリストの力を貰えば力が出る」こと。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソ6:10)主は強いのです。キリストの元に走って来なさい。その力を信じなさい。
神は敵と戦う時にヨシュアにいいました。「彼らを恐れてはならない。私は既に彼らをあなたの手に渡した。」(ヨシュア10:8)言い換えれば「あなたは必ず勝てる」と言われたのです。これはとても重要なことです。私たちは「必ず勝つことが出来る」ということをすっかり忘れています。そして最初から「何をやっても勝てない」と思い込んでいます。しかしそれは悪魔にとったら好都合なのです。負けると信じてくれるからです。(神の言葉とまったく違うことを信じているわけです)この思い込みに悪霊が働きます。だからこの四つのことを思い出さなければならないのです。田舎者で無学な漁師であるペトロやヨハネが、エルサレムの真ん中で学者や宗教者を相手に大胆に神の言葉を語りました。彼らは「私たちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4:20)と言っています。彼らは語るべきことを聞いたのです。私たちに自信がないのは、本当に権威ある者からの言葉を聞いていないからです。神の言葉を聞いたならば力が出て来るのです。

❹【祭司たちは最後まで川の中に留まる】
契約の箱とそれを担ぐ祭司たちは、最初から最後まで川の中にとどまりました。皆が渡り終えるまで祭司たちは契約の箱と共に、川の中にとどまったのです。
「主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた。…その間に民は急いで川を渡った。」(10節)契約の箱と祭司たちが、激流の中にとどまり、イスラエルの民を守りました。祭司というのはいつも信者の前に立って彼らを守り、また信者の一番最後から天国に入るものなのです。闘いなら先陣を務め、しんがりを務めるのです。
●4世紀の教父クリュソストモスの『祭司論』を思い出します。「自分自身のために祭司となることは誰でもできるし、自分一個の救いを全うすることは容易であるが、多くの人のために祭司となり、彼らに救いを得させることは容易なことではない。…世のため神と人との仲介者となるものだからである。…祭司はキリストと同じ像をもち、迫害に堪え、自分は神への供え物となり、多くの人のために命を捨てる者でなければならない。」

教会の良い所は、みんなを連れてゆく(連帯)ということです。救いは個人のものではなく全体のものなのです。「パンが一つだから、私たちは大勢でも一つの体」なのです。信仰の強い者も信仰の弱い者も一つの体とされたのです。体の強い者も、弱い者も一つの体なのです。一つのキリストの体として強い者が、弱い者を担いで川を渡るのです。みんなが強いわけではなく、いつまでも強いわけでもないのです。病めば弱くなり、歳を取れば衰えます。それでも一つの体なのです。互いに補い合うのです。これがキリストの体です。
悪魔は人間を地に落とそうとします。地獄にまで落とそうとします。教会は人間を天に引き上げます。「心を高く上げなさい」といいます。私は彼らを天に連れてゆく務めがあります。祈りで彼らを天に引き上げます。イエス様が約束されたからです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」(ヨハネ20:23)「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。」(マタイ16:19)教会の祈りは偉大です。一人の信じる者の祈りが、多くの人を救います。僅かの手勢でギデオンは敵に勝ちました。イエス様は12名を用いて世界に伝道しました。アブラハムの執り成しでロトは救われました。一人の信じる者が、家族を救い、世界を救うのです。

●「主イエス・キリスト神の子よ、あなたのこの上なく尊い母と、形なき天使と、あなたの預言者、洗礼者ヨハネと福音を伝えた使徒と、光明なる凱旋の殉教者と、神の似姿を回復した聖職者と、諸聖徒の祈祷によって、わたしを悪魔の囲みからお救い下さい。」(夕の祈祷文から)
「私たちは祈られている」ということを忘れてはなりません。信仰は一人で戦っているのではないということです。天上の教会の聖徒たちが私たちの為に祈っています。私たちは祈られています。それを思い出すと勇気が出て来ます。ものすごい人たちがあなたを応援しているのです。あなたはひとりではないのです。父と子と聖霊が、この全宇宙の救いのために祈っています。私たちが神に祈るよりも先に、神の祈りが天から地に注がれています。その祈りがきかれてあなたが救われたのです。あなたの為に主が何十年も祈っておられることを知りなさい。あなたが母の胎内にいる時から、あなたは神に祈られているのです。この世を生きる間も祈られ、死んでも祈られているのです。あなたは祈りの中を歩むのです。あなたを守っている方がおられる、あなたが無事に天国に渡って行くまで守っておられる方がおられるということです。それを忘れないようにしましょう。
聖餐の時に、パンとブドウ酒を高く上げました。その時に「はっ」と気づいたのです。私たちは単なるパンとブドウ酒だけれど、キリストの言葉と聖霊の働きで、キリストの体になるのだと。「人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神が必ず…高くなさるでしょう。」(詩編78:7)
今日は御言葉から聞いた恵みを語りました。御言葉を読まなければ、これらの恵みに気がつくことはないでしょう。神は皆さんと共にいます。神の約束は既に与えられています。どうか神に頼り、その偉大な力によって強くなりましょう。