『神の国を見るためには』 井上隆晶牧師
ヨシュア5章6~8、13~15節、ヨハネ3章3~8節

今、朝の祈りの時にヨシュア記を読んでいます。それがとても面白いのです。そして今の私たちの教会にとって役立つ記事がありますので、ヨシュア記から学んでみたいと思います。

❶【割礼を受ける意味=古い自分に死ぬこと】
ヨルダン川を渡ったイスラエルの人たちに、主なる神は「割礼」を施すように命じられました。エジプトを出て来た人たちは皆、割礼を受けましたが、神の言葉に従わなかったので荒れ野を40年間さまよい、みんな死に絶えてしまいました。今いる民は、ヨシュアとカレブを除いて、みんな荒れ野で生まれた者であって割礼を受けていなかったからです。せっかくエジプトを出たのに、約束の土地に入れなかったのは、彼らが主の御声に聞き従わなかったからです。次のように書かれています。「イスラエルの人々は、荒野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため、我々に与えると先祖たちにお誓いになった土地、すなわち乳と蜜の流れる土地を、彼らには見せない、と主は誓われたのである。」(ヨシュア5:6)
これは私たちに対する警告です。エジプトというのはこの世の象徴であり、約束の土地というのは、神の国(天国)の象徴です。紅海を渡るのは、今の私たちなら、洗礼を受けることに当たります。しかし、ただ形だけ洗礼を受けるだけでは神の国(天国)に入れないのです。神の声に聞き従うということがなければイスラエルの民と同じようにこの世をさまようことになるでしょう。神様が割礼を命じられたのは、古い自分に死んで新しい自分になること、固くなった自分を脱いで柔らかい肉の心を持った自分になることを命じているのです。古い自分に死なないと神の国を見ることは出来ないのです。

❷【神の戦いであって人間の戦いではない】
約束の土地に入って最初に落とさなければならないのが、難攻不落の町エリコでした。昔の町というのは、敵に責められないように町の周囲を城壁で囲み、昼間は城門から出入りし、夜はその門を固く閉ざして誰も入ることが出来ませんでした。エリコの町も、高い城壁に囲まれていました。その町を攻めるにあたって面白い記事が書かれています。13節を見て下さい。ヨシュアがエリコのそばにいたとき、前方に抜き身の剣を手にした一人の男が立っていたというのです。ヨシュアが「あなたは味方か、それとも敵か」と問うと「いや、私は主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」(14節)と答えました。「主の軍の将軍」というは戦いの天使長のことでしょう。たぶんミカエルだと思います。この王門に剣をもったミカエルの絵があります。「いや」というのは面白いです。敵にも味方にもなるということでしょう。神に従えばあなたの味方だが、神に従わなければ敵になるということでしょう。彼は神の命令に従うだけなのです。ヨシュアが地にひれ伏して「主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」(14節)と問うと、主の軍の将軍は「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」(15節)といいました。履物を脱ぐというのは奴隷、僕になれということなのです。奴隷は裸足だからです。天使長がヨシュアに姿を見せたのは、この戦いは人間の戦いではなく、神の戦いであること、本当の戦いの責任者はヨシュアではなく、天使長であることを教えるためだったのです。ヨシュアは僕となって、後ろに退けというのです。
「あなたの立っている場所は聖なる所である」とはどういう意味でしょう。私が立っている所、この教会は聖なる所だというのです。この場所が聖というのは、神がここにいるということです。私だけでなく、私と共に神がここにおられるということです。そのことを私たちは忘れているのではないのでしょうか。ここで、この教会で神と人に行った事、語った事はそのまま神の前で行い、語ったことになります。私に「この教会では芽が出なかったから、他の教会に行きます」と言って去って行った人がいます。愚かな話です。ここで芽が出なければ、どこに行っても同じです。同じ神の前なのですから。問題は場所ではなく、あなたの神に向かう姿勢です。
●渡辺和子シスターが、タクシーの運転手さんに「お客さんは、ご主人も、お子さんもないんですか。味気ないでしょうな」と言われ、「いいえ、そうでもないですよ」と答えられました。そして更にこう書いています。「この煩わしい、重い責任さえなかったら、徳に進んでいるかもしれないのに。とんでもない話である。私の聖人となる道は、今の仕事にある。職場にある。職員、同僚と暮らす中にある。ひとりひとりの幸せは、与えられた場所で作って行かなければならないのだ。」
神が共にいるということは、あなた一人で問題を負うのではないということです。神が負うということでしょう。(私たちはぶら下がっているだけでしょう)どんな教会でも神がおられるなら、つまらん教会、つまらん仕事、つまらん礼拝、つまらん祈りというものはないのです。必ず神の栄光を現すことが出来るということでしょう。いるのですから。私たちの教会は、今、広い土地と広い礼拝堂を求めています。これは神様の戦いです。人間の戦いではないのです。エリコの高い城壁を肉の力で崩すことはできません。神の力でしか崩すことは出来ないのです。同じように、土地と建物は、人間の計算や力で何とか手に入れられるものではありません。人間の計算で割り出して手に入れても、「神がしたとしか思えない」という言葉は出て来ないでしょう。信仰の為に建てるのです。神の力をこの世に見せるために建てるのです。

❸【キリスト教信仰とは、まず死ぬことである】
「土地を、彼らには見せない」という言葉を聞いて思い出すのは、イエス様がニコデモに言った言葉です。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
イエス様がニコデモに言った「新たに生まれる」というのは洗礼を意味しているのですが、洗礼というのは死と復活の再現なのです。水の中に入ることは死を意味し、水から上がることは復活を意味しています。良く「更生」とか「改心」という言葉を聞きます。犯罪を犯した人が「更生施設」に入って、やり直すということがあります。しかしこれは自分の努力で何とかして良い人になることであって人間の力なのです。キリスト教信仰を、自分の力で頑張る宗教のように思っている人がいますがまったく違います。そのような人の信仰生活を見ていると、とても熱心で、肩に力が入っていて、「私」の臭いがします。信仰生活は道徳や倫理ではありません。道徳や倫理は人間の力です。
●比叡山の伝教大師の教えに「一隅を照らす、これ国の宝なり」というのがあります。自分が置かれた所でベストを尽くしなさい。そのような一人一人が国の宝であるという意味です。「不滅の法灯」という1200年間守って来たともし火があります。善いことはつないで行け、手を抜くなという教えです。「道心」が大事だといいます。目標を持って生きなさい。私たちが頑張れば、子どもがそれを真似するという教えです。仏教は人間の力と知恵の集大成でありすばらしいものですが、最終的にはやはり道徳であり、人の力だと思います。
キリスト教には倫理道徳の面もありますが、それは自分の力で守るものではなくて、聖霊の力で守るものです。もともと道徳が守れないので教会に来ているのです。キリスト教というのは「更生」ではなくて「新生」なのです。新生というのは、新しく生まれると書きます。新しく生まれるために一度死なねばなりません。その後に、神様によって生んでもらう、それが新生です。自分を葬る、自分というものを捨ててしまうことが死ぬことです。死んだら責任を持てません。「私が頑張らなきゃ、誰もやってくれない」というのはまだ責任を持っていますから死んでいません。死んだら中途で終わり、全部投げ出すことになります。それが死です。自分が死なないで、その上に神の力を貰おうとしているから駄目なのです。イエス様はニコデモに「あなたは自分の欲望を無くしたり、小さくしたりするような修養によって、神が共にいる生活をしたいと思っているが、どんなに小さくしても、自分がまだ生きている限り、私のようにはなれないよ」といわれたのです。では死ぬにはどうしたらいいのでしょう。
パウロは「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)といっています。聖霊によって肉の業、肉の思いを絶つしかないのです。これは祈りの中で人は死に、祈りの中で人は新しい自分としてよみがえることを意味しています。言い換えれば聖霊によって死に、聖霊によって生かされるのです。人間の頑張りでは死ねませんし、生きることも出来ません。
●私はキリストに霊的に触れられる体験をし、変わってしまいました。以前私は恵みに感謝ができず、祈りの中で「これだけでいいですから適えて下さい。そうすればもう何もいりません」と文句を言っていました。そんな祈りを毎日繰り返し、それが半年以上続いたと思います。ある時、祈りの中で私はキリストの声を聞いたのです。「私はあなたのために全てを与えた。衣も与えた。後、何をあなたに与えることができようか。」そしてキリストに触れられた時、自分の罪深さと同時に、こんな自分にもかかわらず、ものすごく愛されたことが一瞬で分かったのです。涙が出て止まらなくなりました。そしてお腹の底から湧いて来る、この世で味わったことのない喜びに満たされてしまいました。こんな体験は初めてで、まるで天国にいるようでした。聖霊が入って来られるのは、はっきりと分かるのです。それは質が違うからです。同質なものなら分からないでしょうが、天のものははっきり感じるのです。それから私の執着が消えてしまったのです。あの時、私は死んだのだと思います。そして同時に聖霊によって生まれたのです。
また、私はこのスタイルで礼拝するために7年間祈りました。「神様、私はどうすればいいのですか。教えてください。」そしてある日、信者さんから「もう先生にはついて行けません。先生のせいで娘は来なくなりました。」といわれました。辛くてもう牧師を辞めようかとも思いました。しかし祈りの中でこんな思いに至ったのです。「中途半端でやっていても、このままだったら教会は潰れるだろう。どうせ潰れるなら、出来ることを何でもやって潰してしまおう。その方が悔いはない。中途半端な方が悔いは残るだろう。」こう心が吹っ切れて改装したのです。それで今の教会があるのです。あの時も、私は祈りの中で死んだのだと思います。そして同時に聖霊によって生まれたのです。
私たちの中には、いくつもの自我、古い私、頑固な私が先住民のように住んでいます。それは聖霊によってのみ、殺すことが出来ます。死ねば生かされるのです。それは祈りの生活なしにあり得ません。
イエス様は農夫のようなものです。私の荒れ果てた心の中を、イエス様(み言葉)が歩かれます。イエス様の歩かれる後には聖霊という油が滴ります。「あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。」(詩編65:12~14)イエス様が歩かれる場所は、エデンの園になるでしょう。「神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。」(詩編65:10)私の心は、神の聖霊という水路ができ、黄金色の実りをもたらすでしょう。聖霊によって死に、聖霊によって新しく生まれることは何とすばらしいことでしょう。これを実現して下さる農夫である神に感謝します。あなたは神に耕されるのです。あなたは必ず実を結びます。それに期待し祈り続けましょう。