『福音をさまたげるもの』 井上隆晶牧師
エフェソ6章10~13節、マルコ1章21~33節

❶【イエス様と使徒が行った三つの働き】
イエス様が伝道を始められて、最初に行ったことは汚れた霊を追い出したことと、病気の癒しでした。弟子たちを宣教に遣わすにあたり、イエス様は三つのことを命じられました。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」(マルコ6:12)すなわち、福音宣教、悪霊を追い出すこと、病気を癒すことの三つです。その中で最も重要なのは、福音を伝えることでした。悪霊を追い出すことと、病気を癒すことは、福音を受入れる為の準備のようなものであって、決して最終目的ではありません。「油を塗って癒した」のは、薬がなかったからではなくて、一種の儀式(サクラメント)であることが最近分かってきました。神の国の教えを受入れるのが目的なのに、悪霊を追い出すことと病気を癒すことだけを求めて人々は殺到しました。そして多くの人が癒してもらったら帰ってしまったのです。それは今でも同じです。統一協会を脱会した人のほとんどが信仰を続けません。あれほど熱心に祈り、莫大な献金をしていた人が、統一協会を辞めたとたんに何もしなくなるのです。

❷【悪霊払い】悪魔は英語で「デビル」、悪霊は「デーモン」です。悪魔にもたくさんの子分がいるわけです。皆さんは悪魔や悪霊の存在を信じますか。私は、以前は分からなかったのですが、カルトの説得をするようになってから悪霊は本当にいると思うようになりました。ある時、説得をするために部屋に入ったら、その人は蛇のような目で私を睨みました。恨みの目です。目に現れます。キリストのことを話したら、顔色が一瞬で変わりました。憑き物が落ちるといいますが、顔がぱっと明るくなるのです。いくつもの経験から人間を越えた力が働いて人を支配していると思うようになりました。昨年、在日大韓大阪教会で「新しいカルト宗教についての講演」があり、行って来ました。新天地、摂理、救い教など韓国の新カルトは勢いを伸ばしています。しかも頭の良い人がどんどん入っているのです。講師の卓先生は「人間を越えた力が働いているとしか思えない」と言っていました。
悪霊の働きは、ひと言でいうなら神から人を引き離すことにあります。神に対する誤った認識、神は恐ろしい方で、条件付きでしか愛してくれない、神は弱い方であなたを救えないなどという嘘を植えつけ、恐怖を与えて神以外のものに人を向けさせます。また人間関係を破壊させるために、人を疑う心を起こさせます。「あの人はあなたを裏切った、あなたの悪口を陰で言っている、本当はあなたに不満があり、あなたのことを嫌っている」と囁くのもすべて悪霊の働きです。また人間に絶望感を与えるのも悪霊の仕業です。イエス様は「悪魔が偽りを言う時は、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:44)と言っています。つまり彼らがいうことはすべて嘘なのです。その嘘を人間は簡単に信じてしまいます。悪霊ははっきりと断言するからです。
今日の箇所で、会堂に汚れた霊にとりつかれた人がいたとあります。会堂というのは礼拝をする場、今でいえば教会です。そこに汚れた霊(悪霊)に憑りつかれた人がいたというのです。悪霊に憑かれた人というと、精神が病んだ人だと思い易いですが、間違った神観を持ち、人を疑い、希望がなく、恐れで縛られている人なら意外と普通の人なのかもしれません。彼はイエス様の教えを聞いた時、叫び出しました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコ1:24)一人なのに「我々」といっています。多くの悪霊(間違った考え)が彼を支配していたことが分かります。彼の中の悪霊が叫んでいるのでしょうか、彼自身が叫んでいるのでしょうか。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と彼は言いました。放っておいてくれ、聞きたくないというのです。「我々を滅ぼしに来たのか」といいました。キリストは救いに来たのであって、滅ぼしに来たのではありません。悪魔はいつも嘘をいいます。福音を聴く時、人は抵抗します。自分の価値観(土台)が変わるのが怖いからです。「正体は分かっている、神の聖者だ」と立派な告白をしていますが、それは強がりでしょう。高慢になって「誰も知らないだろうが、俺だけはお前を知っているぞ」と自分の無知をさらけ出します。
●統一協会では、「キリスト教の反対牧師と話をするな。彼らは悪霊が働いていて、彼らと対話をすると、あなたの良い信仰が抜き取られ、悪魔の教えが入って来る。だから、命がけで抵抗しなさい、出来れば逃げなさい」と教え、マニュアルまで作っていました。ある人はわめき、ある人は脱走し、ある人は心を閉ざし一切聞こうとしませんでした。ここと全く同じです。
イエス様は「黙れ、この人から出て行け」(25節)とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行きました。なぜ、イエス様は悪霊に「黙れ」と命じられたのでしょう。神のことは神自身が証しをされます。悪霊には証しをさせません。なぜなら彼らは嘘をつくからです。
パウロは。私たちの戦いはこの世の悪霊との戦いであるといいます。「私たちの戦いは、血肉(人間のこと)を相手にするものではなく、…悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:11~12)私たちが神の元に行こうとし、神のことを考えさせないように悪霊が邪魔をしているというのです。外国の人が日本に来ると、祈れないという話を聞いたことがあります。何となく祈りたくない、聖書を読みたくない、礼拝に行きたくないという思いが湧くのは、単に私たちが怠惰であるということだけではなく、悪霊が邪魔をしているからです。信仰生活を邪魔する者がいるのです。悪霊を吹き払うのは、聖霊の力以外にはありません。「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。だから、祈る以外に方法がないのです。祈っていると、空気が澄んできます。天が開け、天と地との距離が短くなるような感覚になります。特に集中力と想像力が必要です。キリストが目の前にいると思って、キリストの言葉を握りしめて訴えるのです。キリストの力を信じて祈るのです。悪霊はキリストに勝てません。事実詩編には「神を呼べば、敵は必ず退く」(詩編56:10)、「あなたの右の手は敵を追い散らす」(詩編)とあります。御覧なさい。礼拝堂にあるキリストのイコンを見ると、彼は右の手を高く挙げて皆さんを祝福しています。この前に立てば、敵は必ず追い払われます。祈った後は、自信と確信がやってきます。

❷【病気の癒し】病気があったらむしろ、神に熱心に祈るのではないか、神にもっと頼るのではないかと思いますが、そうでもないのです。病気によってより神に近くなる人もいますが、逆に神から遠ざかってしまう人もいます。星野富弘さんや三浦綾子さんは、病や障がいがあっても、それがますます神に近づくものとなりました。しかし皆がそうではないのです。病気により体調が優れなければ、気持ちも落ち込み、やる気も起きなくなります。体力は病との戦いで消耗し、何もする気力も湧かず、引き篭れば、ますます外に出るのも嫌になります。お風呂に入っていなければ、人の前に出るのが気後れし、電車に乗ることも、人込みに入ることも嫌になり、礼拝からも遠ざかってしまいます。
イエス様がペトロの姑の熱病を癒した後、彼女がどんな行動をとったのかご存知でしょうか。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(31節)と書かれています。熱が下がったのだから、少しは静かに寝ていたらと思うのですが、彼女は早速起き上がり、イエス様に仕えました。病が癒された目的は、この「神に仕えること」にあります。イエス様に褒められた人が聖書に出て来ます。生まれながら目の見えない人は、目を癒されて、キリストを告白する者へと変えられました。「主よ、信じます」と言って彼はひざまずきました。(ヨハネ9:38)盲人バルティマイも目を見えるようにしてもらい「道を進まれるイエスに従った」(マルコ10:52)と書かれています。病気が癒されるのは、より神に従うためです。この世の生活をよりエンジョイするために癒されたのではないのです。

❸【悪霊を追い出し、病気を癒す目的は】
イエス様が、なぜ福音宣教の初めに「悪霊払い」と「病気の癒し」をしたのかがお分かりでしょうか。一つ目の理由は、これらのものは天国にはないことを見せるためです。天国には悪霊はいません。悪霊が教える偶像崇拝もありません。もちろん病気もありません。この二つは、人間に本来あってはならないものだから取り除いたのです。二つ目の理由は、これらのものが、人間が神の元に近づくのを妨げて(邪魔して)いたからです。この二つのものは、人生の本当の目的・目標を逸脱させます。悪霊は神ではなく、この世を目的とさせます。お金をたくさん得れば幸せになる、良い人と結婚すれば幸せになる、高学歴だったら幸せになる、など神以外のものに人の命を向けさせます。その他これを手に入れたら幸せになると思わせるさまざまな物に執着、依存させ、その人をそれの奴隷にし、人格を破壊させます。病気になった人は、病気を癒すことが人生の目標になります。その為に病院に行き、治療を行い、そのことが中心な生活になります。でも長生きすることが人生の目的なら、生まれながらダウン症の子は不幸になりますし、早死にした人も不幸ということになります。病気を治すことが人生の目的ではないのです。人生の目的は神に向かって生きること、神に従い、神に似た者になることです。それこそ人間の創造された目的だからです。
中風を患っている人が、病気を癒してもらう為に床に寝たまま連れて来られました。その時イエス様は「あなたの罪は赦された」と宣言してから、病気を癒されました。この順番が大事なのです。私たちは肉体の病の癒しにはずいぶんと一生懸命になりますが、魂の問題となると実に不熱心です。イエス様は、人間にとって一番大事なのは、神様との関係が正しくなることだと言われたのです。その時、肉体の問題も自然に解決してゆくのです。私たちはこれとまったく逆です。元気になったら教会に行きますといい、肉体が癒されたら魂も元気になると思っています。目標がずれているのです。
●アウシュビッツ捕虜収容所に、あるクリスチャンのユダヤ人婦人がいました。彼女は死のまぎわに喜びに満たされていました。「今、主の御声を聞いたからです」と彼女は言いました。周りの人は皆、彼女が幻覚症状を起こしているのだと思いました。それでも彼女は「イエス様が手を差し伸べて、私がここにいるよ、私が守ってあげるよと、言われたのです」と続けたそうです。
死の前には、もう病気は治りません。この世のすべての物も頼りになりません。だから病気の癒しや、この世の物を目的にして生きてはいけないのです。神と共に歩むことこそ力と希望になるのです。
●22日に伝道セミナーに行き、「21世紀に生き残る教会」というテーマで林完赫牧師の話を聞いてきました。林牧師は、死んでいる教会の特徴を上げられました。
1.いつまでも過去にこだわる。
2.変化に対して否定的。新しい風が入らない。「昔の先生はこうやっていた」
3.議論だけで実践しない。リーダーシップがいない。マンネリ化している。
4.信仰継承ができていない。若い人が育たない。若者の感性に合わない。
5.伝道に対する熱情がない。クリスチャンとしてのアイデンティティがない。
「クリスチャンとしてのアイデンティティがない」というのは、何の為に自分はクリスチャンとされたのかを知らない、クリスチャンの人生の目的を知らないということです。クリスチャンの人生の目的は神に向かって生きること、神に従い、神に似た者になること、神を証しすることです。病があろうと、障害があろうと、どんなに失敗をしようと、死を前にしても、私たちは生きるにしても、死ぬにしても神をこの世に現す者なのです。目標をしっかりもって励みましょう。