『人間性の昇天』 井上隆晶牧師
使徒1章3~11節、マルコ16章14~20節

❶【キリストはいつも共にいる】
キリストの昇天祭は四世紀ごろから、アンティオキアで祝われるようになりました。そこで今日は主の昇天についてお話しします。キリストは復活して40日目に天にお帰りになり、もともとおられた父なる神の右の座にお着きになりました。それを昇天といいます。今は終わりの時が来るのをそこで待っておられます。再びこの地に来られて世界を審判されます。
「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19)と書かれています。聖書を見ると、その昇天のときの様子が書かれています。イエス様はオリーブ山から昇天したようです。「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒1:9)イエス様は弟子たちから離れて去って行かれました。もう最後のお別れです。別れというのは寂しいものです。人生にはいろんな別れがあります。大学へ入るために上京する別れ、就職、転職の別れ、結婚の別れ、単身赴任、そして死別。しかし、イエス様は「さようなら」を言われません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)といわれました。イエス様は肉体においては見えなくなりましたが、決して弟子たちと離れたわけではありません。神性において地におられ、教会という姿で私たちと共におられます。
さて弟子たちが天を見つめていると、天使が現れてこういいました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになる。」(11節)天使は弟子たちに「なぜ天を見上げているのか」といいました。天を見ているのはおかしいというのです。天使たちは、弟子たちの目を上ではなく、地上に向けるように言っているのです。天を仰ぐのではなく、地を見なさい。上だけが天ではない。地上も天になったのだ。キリストは、姿は見えなくなったが教会に姿を変えてあなたと共におられると言っているのです。だから、私たちも目を天から地へ向けなければなりません。地の中にキリストを(天を)見なければなりません。アッシジのフランシスコの有名な祈りがあります。
●「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。争いのあるところに、赦しを。分裂のあるところに、一致を。迷いのあるところに、信仰を。誤りのあるところに、真理を。絶望のあるところに、希望を。悲しみのあるところに、よろこびを。闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け導いてください。」
フランシスコはすべての人や出来事の中に神を入れていこうとしたのです。私がこの都島に来た時、ここは廃墟のようでした。でもここはキリストの体だ、この柱も床もキリストの体と思って掃除しました。神が共にいて下さると信じて祈り続けました。汚いボロボロな教会でもキリストは自分の体だと言って愛して下さると思うと、とても嬉しくなったものです。
●河野進という牧師が「マザーテレサは行き倒れの一人ひとりを本当にキリストとして介抱していらっしゃる。あれはカトリックだからこそできることですよ。」と言っています。渡辺和子シスターは、それについて「カトリックの人は、ご聖体をキリストとしていただくが、プロテスタントでは、キリストの記念として行う。その違いだ」と言っています。カトリックは、とうていキリストと思えないものをキリストと信じる信仰を、ミサの中で求めているからです。
でも「最近のカトリックはどうだろう」と私は思います。精神障がい者をキリストと思って本当に受け入れているだろうか?路上生活者をキリストだと思って本当に受け入れているだろうか?とうていキリストと思えないものをキリストと信じるというのは大切です。私たちもどんな人の中にもキリストを見る、どんな状況の中にも、どんな場所の中にもキリストを見る、行き詰まりの中に、神の計画を見る目を養いたいと思います。これは信仰の修行です。

❷【昇天したキリストは、あなたを天に引き上げられた】
さて、イエス様は何を天に昇らせたのでしょうか。昇天というのは、キリストの復活した肉体(受け取られた人間性)を天に上げたことなのです。私たちの信仰では、キリストは完全な神であり、同時に完全な人間です。神はどこにおられるのですか?天の上だけですか。そうではありません。どこにでもおられます。すべての中に、すべての外に、すべてを越えておられます。神性はどこにでも満ち満ちておられるからです。キリストはいつも父と一体であって天におられたのであり、地上にいる時も、天から離れたことはありませんでした。キリストが地上におられた時、キリストの肉体は地上にありましたが、神性は父なる神と共に天にありました。しかしキリストの昇天によって、今度はキリストの肉体は天に移され、神性は前と同じように父なる神と共に天にあり、地にもおられるのです。ですから昇天というのは人間性が昇天したことをいうのであって、神性は常に昇天しているのです。このようにキリストは父からも離れず、われら人間からも離れず、両者の架け橋、天と地の梯子となりました。
イエス様は元の神の姿に戻られたのですが、受け取られた人間性をそのまま神の右の宝座に座らせました。受け取られた肉体をそのまま神化(死なない体に)され、それを天に引き上げられたのです。私はこのことを考えるとすごいと思います。神様は人間と永遠に運命を共にする決意をなされたということなのです。そのことは聖書の中でも預言されています。「あなたは高い天に上り、人々をとりことし、…彼らはそこに住み着かせられる。」(詩篇68:18)、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物(聖霊のこと)を分け与えられた。」(エフェソ4:8)また、昔の祈祷文にもこのように書いています。
・「神よ、あなたは最も深い地獄に降ったアダムの人間性を、ご自分の中で新しく作り変えられ、今日すべての天使たちの上に昇らせました。人を愛するあまりご自分と共に宝座に座らせました。」
・「キリストよ、あなたは腐敗に陥った人間性を復活させ、あなたの昇天をもってこれを天に上げて、ご自分と共に栄光を与えました。」
祈祷書がはっきり告げているのは、人間は天使たちよりも高く上げられ、父なる神の右の座に座らされ、栄光と尊厳が与えられたということです。そこまで人間はキリストによって高められたということなのです。なぜ、キリストはそこまでなさるのでしょうか。人間というのがそれほどすばらしいものだからではないのでしょうか。あなたはキリストの像ではありませんか。私たちの体はキリストの体ではありませんか。彼が自分自身のように愛するもの、聖霊が宿る神殿、キリストの肉と血が入る器ではありませんか。キリストのものではありませんか。だから自分をつまらない者だと思うことはやめましょう。私たちは高められたのです。キリストの昇天は、あなたの昇天です。頭であるキリストが天に上がる時、体であるあなたも共に上げられたのです。あなたはすでに天に引き上げられたのですから天のことを考えなさい。天があなたと共にいるのです。自分がすばらしいものにされたことを信じましょう。私たちに絶望を与え、私たちを地に引き倒そうとする悪魔の空しい嘘と闘いましょう。

❸【聖霊を待ち望もう】
キリストが昇天したのは、ご自分に似た者、同じ能力を持つもう一人の助け主、慰め主である聖霊を送る為です。これはキリストが約束されたことであって、聖霊降臨をもって救いは完成されます。昔の祈祷文にはこう書いてあります。
・「使徒たちは今創造主が高い所に上げられるのを見て、聖霊が与えられる希望を楽しみ、畏れて言いました。あなたの昇天に栄光がありますように。」
・「主は天に昇りました。世界に慰める者を遣わすためです。天は宝座を備え、雲はその道を備えました。天使たちは人が自分たちよりも上にいるのを見て驚き、父はその懐におられる同じ永遠なる御子を迎え、聖霊はすべての天使に命じました。諸侯よ、あなたがたの門を開けなさい。キリストは先におられた所へ昇られたからです。」
先週、エゼキエル37章を読みました。エゼキエルは幻の内に谷で枯れた骨を見ました。枯れた骨とは、イスラエルの民のことです。戦争で負け、国を失いバビロンに奴隷として連れて行かれた民は、生きていても死んでいるような状態でした。まさに彼らは「枯れた骨」でした。神はエゼキエルにその骨に預言せよといいます。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」(37:4)彼が神の言葉を語ると「カタカタ」と音がしました。音がしたということは「動いた」ということです。神の言葉を語り始めると、動き始めるということです。その骨に肉と筋がつきますが、まだ人にはなりません。神はエゼキエルに霊に預言せよといいます。「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺された者の上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。」(37:9)とエゼキエルがいうと、聖霊がやってきて彼らは生き返ったというのです。枯れた骨が生き返るには、神の言葉と聖霊が必要でした。聖霊が降った時も、天から大きな音が聞こえました。神の言葉を聞き、聖霊が降ると人は必ず動くのです。これはいつの時代でも同じです。
●教区総会で、会堂建築された大和榛原教会が紹介されました。会堂建築に至る説明をされたのは信徒さんでした。今の牧師は昨年牧師になられたばかりの方で、だいぶ年配の方のようでした。礼拝出席14名で4500万円かけて会堂と牧師館を建て替えたそうです。最初彼らの手元には1200万円しかありませんでした。今まで何人もの牧師たちが会堂建築をしようと試みてきたのですが、いずれも上手くいきませんでした。牧師先生にばかり頼っていたら駄目だということでついに信徒が立ち上がり、「自分たちの教会を建てよう」と、昨年の9月に着手したら、あれよ、あれよという間にお金が集まり、建ってしまったというのです。奇跡のようだと言っておられました。
その話を聞いていて聖霊が吹いたなと思いました。牧師が辞任していなくても、信者さんたちがこつこつと聖書を読み、祈って来たのが積まれて天に届いたのだと思います。だいたい、神様が働いて何かをされる時は、私たちは道具であって、主人は神様なのです。神様が自ら動かれるので、私たちの感覚としては「自分で何かをした」というのではなくて、「させられた、動かされた」というものなのです。だから「あれよ、あれよ」という間に門が開き、動かされるのです。
その目的はどこにあるかというと、神を証しするということです。本当にこの世に神は働いておられる、この世を動かしているのは神だということを私たち信者も知り、世の中も知るためなのです。エゼキエル書にもこう書いています。「私はお前たちを自分の土地に住まわせる。その時、お前たちは主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる。」(エゼキエル37:14)「お前たちは私が主であることを知るようになる。」(同37:13)
私たちは神を証しする《証人》です。この世で奇跡(しるし)を体験するのは、しるし自体に意味があるのではありません。しるしは英語で「サイン(sign)」です。しるしは神を指し示しているのです。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また。毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17~18)
だから私たちはこの世の人と同じように生き、死んではいけません。生きるにしても死ぬにしても神を証しするものでなければなりません。私たちが選ばれて信仰を与えられたのも、病が癒されたのも、カルトから救い出されたのも、生かされているのも、すべて神を証しするためなのです。証人に必要なのは知識ではなく、体験であり目撃することです。
●木曜日の夜、教会の三軒隣りが火事になり二人亡くなりました。最初、教会の隣りの家が燃えていると連絡を受けたので、急いで駆けつけたら、一本筋が違っていました。でもそれまでは胸が高鳴り、教会の二階が燃えていたら、誰かが亡くなっていたらどうしよう、お隣さんも良く知っているし、人生は何が起こるか分からないと思いました。十分あり得ることなのです。この並びで一番古いのが教会です。いつ出火してもおかしくありません。でも守られました。地震からも火事からも守られました。生かされました。すべて神様が守って下さったと思います。それは与えられた命で、神様を証しするためです。
私はこの世に証したいのです。神は本当におられるということを。その為にも、日々、神の言葉を聞き、祈りながら聖霊が降るのを待ちましょう。神の言葉と聖霊によらずに人が動くことはないからです。「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(使徒1:4)と主はいわれました。だから必ず約束された聖霊は降ります。父は約束を守られるからです。その時、私たちは動き、神の栄光を現す業が出来るのです。