『見失った羊』井上隆晶牧師
エゼキエル34章11~16節、ルカ15章1~10節

❶【神自らが失われた者を捜される】
15章は「失われた羊」「失われた銀貨」「失われた息子」という三つの譬え話しによって「失われた者を捜し求める神の愛」「失われた者を見つけた神の喜び」が語られています。
イエス様の話を聞くために罪人たちや徴税人たちが集まってきました。それを見て、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは「イエス様はこんな人たちを相手にし、食事まで一緒にしている」と非難しました。彼らは罪人たちを軽蔑し、地の塵と呼んで人間扱いしなかったのです。彼らと接触することも、友人になることも、商売することもしませんでした。昔の時代はどの国でも貧富の差があり、偏見と差別に満ちていました。でもそれは程度の差はありますが、今もあると思います。
●昨日ある人に尋ねられました。「精神障がいを抱えた方にどのように接したらいいのか、言ってはいけないキーワードがありますか」。それはその人たちと関わらないので精神に障がいを負った人は怖い、何をするかわからない、暴れられたらどうしようという不安と恐れと偏見から出て来たものです。そんな思いが出てくるのは仕方がないかもしれませんが、私は言いました。「精神障がい者が教会に来たのではありません。一人の人間が来たのです。その人がたまたま障がいがあった。だからその人を受入れるために、障がいを学ぶだけなのです。大事なことはその人に向き合い、その人を受け入れることです。言ってはいけないキーワードなどありません。障がいがあろうとなかろうと、人によってどんな言葉でも傷つくことはあります。傷ついたら謝るだけです。そして関係を再び修復するだけです。」でも今も教会の中で変わった人がいたら、周りの人が「その人には関わらないようにした方がいいよ」と陰でこそこそ言っているということを聞いたことがあります。言われた人は孤立し、悲しいと思います。差別や偏見をなくすということはどの時代でも大事なことなのです。
ファリサイ派の人たちの偏見というのは頑固で強烈なものだったと思います。それに対してイエス様が次の譬えを話されたのです。
「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけるまで捜し回らないであろうか。」(4節)。ユダヤの羊飼いは牧場で羊を飼うのではありません。野原や荒野で飼うわけです。平野部は少なく、丘や谷や砂漠もあります。もちろん柵はありませんから、羊が迷子になることもあるのです。羊はよく迷子になる弱い動物です。一度迷子になったら、自分の力では帰れません。だから羊飼いが探しに行くのです。羊の群れは共同体の群れで、たいてい村全体の財産であり、二~三人の羊飼いが管理を任されていました。羊飼いたちは、群れを無事に定刻通りに村に連れ帰ることもあれば、時には、迷子になった羊を探してまだ一人の羊飼いが山にいるというニュースを聞くこともありました。そうすると村の人たちは山の方に目をこらし、やがて遠くの方に、迷子の羊を肩に担いだ羊飼いが帰って来るのを認めると、村全体で喜びの声が沸き上がりました。7節に「このように、悔い改める一人の罪人については、…大きな喜びが天にある。」(7節)とありますが、この情景を思い浮かべてのことなのだと思います。イエス様が譬えを語ったとき、背景にはこのような情景があったのです。
●エゼキエル書34章11節以降に、これと同じような話が出て来ます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは…散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」(34:11~12)、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(同34:16)神様みずからが私たちを探し出してくださると書かれています。キリストが一人一人を探し出し、いろんな場所から救い出されたのです。実際、ある者はカルトから、ある者は病の底から、ある者は引き籠りから救い出されたのです。具体的には人を使うのですが「わたしは自ら」と書いてありますから、見えない神様が来て下さっていたのです。
●4世紀のナジアンゾスのグレゴリオスはこんな風に語っています。「さまよっている羊のもとへ、あなたが異教の神々にいけにえをささげた山や丘へ、羊たちのためにご自分のいのちを捨てるあの良い羊飼いが来られます。そして、さまよっている羊を見つけ、後に十字架をも担がれたその肩に見つけた羊を乗せ、乗せたその羊を天上のいのちへと導き入れてくださったのです。」
ここでも見失った一匹の羊とは「罪人たち」のことを意味し、羊飼いはイエス様、神様を意味しています。ここには「見失った」という言葉が何度も出て来ます。「迷子」になったと書いてありません。迷子になるのは羊(人間)の落ち度ですが、見失うのは羊飼い(神様)の落ち度です。でも本当に羊飼いである神様の責任なのでしょうか。そうではありません。やはり人間の責任です。人間は自らの意志で、神から離れて失われたのです。それなのに神様はあえて「見失った」といわれます。私はなぜか考えました。そして思い至りました。やはり人間が悪いのです。でも、ここではそれについて語ろうとしないのです。ここで語りたいのは、神様の心なのです。「私があなたを失って悲しい」と、神様は心を痛めておられるのです。ファリサイ人たちは、罪人の悪を問題にしましたが、イエス様は神様の心を問題にしたのです。それが分かった時、すごい物語だと思いました。

❷【キリストの肩に担がれている私たち】
羊飼いは失われた羊を「見つけたら、喜んでその羊を肩に担いで、家に帰り、友達や近所の人を呼び集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう」(5~6節)とあります。私たちはキリストに見つけてもらい、今はキリストの両腕にしっかりと握られ、その肩に担がれていることを知っているでしょうか。7節に「悔い改める一人の罪人」とありますが、ここで見つけられた羊は何もしていません。悔い改めというのは良いことをすることではないのです。羊が羊飼いに見つけてもらって、安心して抱かれているように、罪人がキリストに出会い、愛されて、共にいることを喜ぶことを悔い改めと言われているのです。あなたがキリストに出会う前は、あなたは一人で歩いていました。一人で生きるということは不安なものです。必死になって背伸びをして生きねばなりません。しかし見つけてもらった今は、決して一人ではないのです。皆さんはキリストと共にこの人生の旅を歩いているのです。皆さんを担ぐということは、皆さんの重荷も罪も死も失敗も病もキリストが担がれるということです。皆さんの人生そのものを担いでおられるということです。だから困った時には、イエス様に相談するのです。イエス様がその重荷を負ってくれます。イエス様にお任せするのです。すると平安が来ます。あなたはイエス様に担がれているのだということを忘れていませんか。イエス様と共に生きることを喜びとしていますか。それならあなたは悔い改めているのです。
●早課のカノンの中に出エジプト15:16「主よ、あなたの民が通り過ぎ、あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。」という聖句が出て来ます。神様はイスラエルの民を買い取ったと言われます。それは私たちも同じです。私たちクリスチャンはキリストに買い取ってもらいました。昔、奴隷はお金を支払って主人に買い取られ、主人のものになりました。イエス様自身が「私は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10:45)と言っています。私たちは傷だらけで、買う値打ちもなかったのですが、買い取ってもらったのです。私たちの為にどれだけの額が支払われたと思いますか。目の前に十字架にかかったイエス様の像がはっきりと見えているではありませんか。あなたを買い取るのに、実に神の命が支払われたのです。あまりにも高価すぎませんか。それに驚きませんか。だからあなたは高価なのです。だから私の主人はキリストなのです。あなたはキリストの僕です。それなのに、あなたはいつも自分が主人であるかのように生活しています。だから自分の将来や自分自身のことで思い煩い、心配し、不安が無くならないのです。自分で自分の事を何とかしなくてはと思っているからです。あなたがキリストの奴隷なら、自分の命のことで心配するのを止めなさい。先週、私は「失われたもの」という言葉は、新約聖書では駄目な者、役に立たない者という意味はなく、その者が「間違った位置にいること」を意味しているといいました。あるものが、本来あるべきところから離れて誤った場所に置かれているとき、失われたと言うのです。もし、あなたが僕なのに、主人の場所にいるなら、あなたは「失われたもの」です。僕の位置に戻りなさい。そうすれば不安と恐れは消えるでしょう。僕の食事、必要、住まいを用意するのは主人の仕事です。僕は安心して、主人に「~が必要なのです」と言えばいいのです。

❸【神の喜びを喜ぼう】
「家に帰り、友だちや近所の人々を集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(6節)ここには「喜び」という言葉が二回出てきます。「喜んでその羊を肩に担いで」「一緒に喜んでください」。ここで見つけられた羊は喜んだとは書かれていません。たぶん喜んだと思いますが、ここでは先に話したように、羊飼いの喜びを伝えたいからです。あなたの感情がどうであるかなどはあまり関係がないのです。神から離れた苦しみや悲しみが大きくなければ、見つかった時の喜びも感動も大きくありません。人が教会に帰って来てもあまりうれしくないのは、神から離れることの苦しみを感じていないからです。律法学者やファリサイ人たちはキリストと共にいる喜びをあまり感じられません。彼らは失われた悲しみを知らないからです。ところが罪人たちは知っています。だから喜ぶのです。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」などいないのです。これはイエス様の皮肉です。律法学者やファリサイ人たちは自分は悔い改める必要のない九十九人の正しい人だと思っているかもしれませんが、そうではありません。神の愛に気がついていないのだから、彼らも失われたなの者です。人は自分の罪(神の愛)が分からないのです。だから、人間の感動など大した事ではないのです。あなたは気づかないかもしれないけれど、神様はものすごく喜んでいるということなのです。それだけを覚えていて欲しいのです。
今、キリストが喜んでいます。「一緒に喜んでください」と言っています。誰がその喜びを邪魔することができるでしょう。神と天使たちが大喜びをしているのです。もうそれで十分ではありませんか。「子供たちのうち、どの子を一番愛していますか?」と尋ねられて、ジョン。ウエスレーの母は「病気の子が良くなるまではその子を、家を離れた子が戻って来るまではその子を愛します。」を答えました。どの子も自分の大切な子なのですから愛するのです。私は聖餐の時、「神の喜び」を強く感じます。神がその人を愛しておられる。それだけでもうその人は十分であると感じます。この人は神に愛されている、神に覚えられている、それが最も大事なんです。人間はそれを喜ぶべきなのです。