『神を見たいという憧れ』井上隆晶牧師
詩編63編1~6節、ルカ19章1~10節

❶【ザアカイという人】

エリコの町にザアカイという人がいました。エリコはたいへん豊かな町で、エルサレムに入る入り口に当たり、棕櫚の大きな森があり、世界的に有名なバルサムの森もあり、その香りが数キロ先までただよっていました。人々はこの町を「棕櫚の町」と呼び、そこのナツメヤシは世界に輸出されていたそうです。そんなわけてこの町は税金を取る場所に定められていました。徴税人というのは、敵国であるローマに代わってイスラエルの民から税金を徴収するという、仕事であって、罪人といわれ、同胞から憎まれていました。時々、税金に少し上乗せをして徴収するものですから、お金持ちになれたのです。ザアカイは徴税人の頭でお金持ちでした。彼はイエス様がどんな人か見てみたいと思いました。イエス様という人は、どんな身分の低い者や、自分と同じような徴税人や皆に嫌われている者や、罪人にも声をかけて下さり、食事を共にして、友人のように接して下さるという噂を聞いたからでしょう。ザアカイは裕福であり、地位もあったのですが、それだけでは幸せではありませんでした。彼は孤独だったからです。

そこで彼はイエス様を見るために出かけたのですが、背が低かったために、群集に遮られてイエス様を見ることが出来ませんでした。たぶん、人々がいやがらせをして見せなかったのかもしれません。ザアカイは「背が低かった」。聖書の中で、身体の特徴が書かれているのはこの人くらいのものです。聖書のユーモアを感じ、面白いと思います。彼はどうしたかというと、あきらめて家に帰らず、走って先回りし、いちじく桑の木に登りイエス様を見ようとしました。やがてイエス様の行列が見えてきました。イエス様は、そのいちじく桑の木の下まで来ると、急に足を止められ、上を見上げて言われました。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)イエス様を見るだけでいいと思っていたのに、そのイエス様が自分に声をかけてくださり、さらに自分の家に泊まりたいとまでおっしゃってくださったことにザアカイはびっくりしました。当時は罪人と会話することも、家に入ることも汚れると言われていたからです。誰も話しかけてくれない、家に来てくれないのです。でも、イエス様はそんな自分を受入れてくれたのです。ものすごくうれしかったと思います。彼は急いで木から降りて、喜んでイエス様を家に迎えました。彼は自分が願った以上のものを手に入れることが出来たのです。

❷【救いが訪れた】

人々はイエス様に陰口をいい、つぶやきました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7)イエス様はあの人がどんな人か知っているのだろうか。どうしてあんな人を相手にするのだろう、自分の名が汚されてもいいのだろうか。後で噂されてもいいのだろうか。後で、不利になるのではないか。

しかしザアカイは立ち上がりイエス様に言いました。「私は、財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」律法では、普通、盗んだ物を返すときは二倍でした。自首した場合は、同じ額に五分の一を加えて返すという決まりでした。ところが、彼はそれを四倍にして返すと言ったのです。彼は決心をして、自分が生まれ変わったことを公に証ししたのです。こんなに変わってしまうというのは、すごいですね。これを聞くと、救いというものがどういうものであるかということが分かります。イエス様に愛されること、認めてもらうこと、受け入れてもらうこと、赦してもらうことによって、自由になるということなのです。ザアカイの場合はお金から自由になったのです。別な言い方をしたら、お金しか頼りになるものがなかったということです。その人が一番頼りにしていたものが、変わったということです。それを救いといいます。

イエス様は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9~10節)イエス様はザアカイのことを「失われたもの」といいました。失われたもの」という言葉は、新約聖書では駄目な者、罪深い者、役に立たない者という意味はありません。そうではなくその者が「間違った位置にいること」を意味しています。あるものが、本来あるべきところから逸脱して、誤った場所に置かれているとき、失われたと言うのです。そのものを見つけた時、本来あるべき場所に戻してやればよいのです。人は神から離れている時、失われているのです。あなたは本来あるべき場所に戻りなさいというのです。

  • T牧師が体験談を語ってくれました。先生はこの間、市バスに乗ろうとして人に倒され、救急車で運ばれました。骨折はしていなかったのですが打撲で二週間ひどい痛みが続いて寝ていたそうです。ところが二週間たった頃から、痛みがピタッと止まり、回復していかれました。「神様が下さった心と体ってすごいと思う。回復しようという力が人間には自然と備わっているんです。障がいがあっても、人間の生きようとする力の方が大きいんです。人間はとてもたくましい。自分で自分を癒そうとします。毎日毎日変わって行きます。生きる力ってすごいと思う。」

人間の中にある能力とはすごいものです。罪人の頭といわれたザアカイがイエス様に出会って180度変わりました。彼の中に眠っていた善が開花し、動き出したのです。本当の自分に帰ったのです。

❸【イエスを見たいという強い憧れ】

強い願望・願いは人間の限界を越えさせることがあります。ザアカイの背の低さは、私たち人間の弱さ、限界、罪深さ、能力の低さを象徴しています。人間的に見たら、とてもではないですがキリストを見ることは出来ないでしょう。しかし、あなたがもし「見たい」と望むなら、それが可能になるのです。ザアカイの出来事は、私たちの罪深さ、肉体の弱さ、能力の弱さがあったとしても、あなたがキリストに出会うための何の障害にもならないことを教えています。別の表現をするなら、それらの弱さは神から何かの恵みを得ることの妨げにはならないということなのです。本当の妨げは、「弱さ」でも「罪深さ」でもなく、「神に対する絶望」です。神に大して期待しないということです。私たちはあまりにも、簡単にあきらめてしまいます。何かをする前に、私には無理、私は決して出来ないと思っているところがあります。そして「願うこと」自体を止めてしまうのです。そして現状で安住し、簡単に手に入るもので、自分を満足させようとしてしまいます。

 

  • エフレムの祈り「怠惰と失意と誇りとむだ言の心を私から取り除いてください」と祈ります。怠惰とは、怠ける心ではなく「私は一生懸命祈って来た、求めて来た、しかし何も変わらなかった。どうせ、また祈っても同じことだろう」と求める心を失うことです。その結果として失意がやってきます。それを取り除いてくださいとキリストに祈るのです。

聖書の中に「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)という言葉があります。人は最も自分が支えとし、頼りとするものを蓄えます。それを見たら、あなたの心が、何を本当に頼りとしているかが分かるものだという意味です。皆さんが、自分の欲しいものの為なら、時間も労力も努力も惜しまないということを私は知っています。あなたが一日に頼りとしたものをグラフにするとして、その中で、キリストは何パーセントを占めていますか。何に一番頼っていましたか。私たちの命は正しく神に向いていたでしょうか。それとも、余った時間だけですか。ザアカイは、良いものを願ったということなのです。この時、彼の全力が、お金でもなく、人でもなく、キリストに正しく向き、キリストに期待したということなのです。彼は正しい位置に向いていたのです。そこに彼の回心があります。回心とは、自分の失敗や過ちを泣くことではなく、キリストに寄り頼み、キリストに期待し、キリストに希望を置くことなのです。つまり命の方向性の問題なのです。罪が神という的を外すという意味なら、回心は神という的に向かうことなのです。

  • 榎本保郎牧師の本の中にこんな人が出て来ます。

一人の兄弟がたそがれ時に牧師館を訪ねてきました。彼は数年前結核をわずらい、胸には小さな空洞がありました。三か月前、レントゲン写真を撮ったときにも、はっきりとその空洞が見られました。今は、退院して会社に復帰し、毎日異常なく勤務しているとはいえ、彼はたえずこのことが心がかりでした。いつも、びくびくしていた彼は、きょう医師のすすめでレントゲンを撮ったというのです。ところが不思議なことに心配の種であった空洞に膜ができて、まったく消えてなくなっていたというのです。医師は奇跡というよりほかはないと言ったそうです。実は、三か月前から彼は早天祈祷会につどっていました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」彼はこの主のお約束を信じて、まず神の国と神の義を求める具体的な生活として早天を守ったのです。仕事につかれた時、冷える朝、その約束を信じて早天につどう彼にも、その心にひるみを覚える時があったでしょう。だが、彼はそれが主の約束であるがゆえに、信じて朝早く起き、早天につどったのです。彼は嗚咽しながら、神様のお約束には間違いはないということが分かってうれしいと語りました。約束を信じて進む者だけが、間違いなき神を知ることができるのです。

 

民数記10:29にシナイ山でモーセが義理の兄に向かって言った言葉がのっています。「私たちは主が与えると約束して下さった場所に旅立ちます。一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルの幸せを約束しておられます。」ああ、何という良い言葉でしょう。何というすばらしい響きでしょう。「主があなたの幸せを約束しておられます。一緒に旅立ちましょう。私はあなたを幸せにします。」といって伝道したいものです。

私の命が、お金でもなく、人でもなく、現状に安住(諦めと怠惰)するのでもなく、キリストに正しく向き、キリストに期待しているかということ、私は正しい位置に向いているかをもう一度問い直しましょう。私は反省しました。

私たちは弱いですが、キリストは強いのです。私たちは貧しいですが、キリストは豊かです。私たちは小さいけれども、キリストは大きいのですから大いに期待していいのです。ザアカイのように、キリストに大いに期待しましよう。キリストの約束に命を向けましょう。今までも祈って来たでしょうが、もう一度神に大いに期待して祈って行きましょう。この都島教会が広い土地と会堂が与えられるように。すべての民に伝道する教会になるように。すべての信者が神の愛を知るために祈って行きましょう。