『祈りは多くの罪を覆う』井上隆晶牧師
民数記14:11~20、ヨハネ15章4~7節

❶【実を結ぶ=キリストに似た者になる】
十字架を前にして、弟子たちがイエス様を失った後も、信仰生活を続けていくために、何が必要であるかを言われたのが、このぶどうの木の譬えです。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことは出来ない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:4~5)
信仰生活は、まず神に罪が赦されるということから始まります。ローマ信徒の手紙にこうあります。「ダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のように讃えています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」(ローマ4:6~8)これによると、義とされるとは「罪が覆い隠され、罪があるとみなされないこと」だというのです。罪はあるのですが、ただ神に覆ってもらう、罪なしと見てもらうということです。本人は黒なのですが、神様が白と言って下さるということです。これは完全に神の側の姿勢の問題です。キリストを信じた時、瞬間的に人は義とされます。これを「義認」といいます。しかし、それだけでは不十分なのです。ここでは実を結べということが言われています。ぶどうの木はぶどうの実を、ナスはナスの実を、トマトはトマトの実をつけます。キリストという木につながった者は、キリストという実を結ぶというのです。実を結ぶというのは、キリストに似た者になるということです。これは一度だけ、つながったところで成るものではありません。枝が幹についたり、離れたりしていてどうして実を結ぶことが出来るでしょう。義とされることは信仰生活の目標ではなく始まりにすぎません。キリストに似た者になることが信仰生活の目標です。
●レントの祈祷文にこんな文章が出て来ました。「徴税人は救いを得、遊女は潔い者となり、傲慢なファリサイ人は罪に定められました。徴税人は言いました。『わたしを憐れんでください。』遊女は言いました。『わたしを清くしてください。』ファリサイ人は誇って言いました。『神よ、あなたに感謝します。』その他、無知なる言葉を発しました。」(アンデレの大カノン木曜日)私たちは徴税人と遊女の祈りを忘れてはいないでしょうか。彼らは「わたしを憐れんでください。」「わたしを清くしてください。」と祈ることを辞めませんでした。私たちはもう赦されたのだからと、それらの祈りをやめてはいけません。水曜日に「中部地区合同祈祷会」があり、多くの人が参祷されました。帰る時に、K牧師が私に言われました。「先生の話を聞いていると、神様に出会った体験があるのが分かる。最近の若い牧師は、自分の罪で泣いて祈り、神に清さを求めることが少ないと思うのですが、先生はどう思われますか。私は若い時は、その気持ちがとてもありました。」といわれました。ああ、謙虚な先生だなあと思いました。悔い改めというのは、牧師になっても卒業してはいけないのです。生涯、自分の罪を思い、罪を悲しみ、落ちたところに帰る努力をしなければいけないと思います。水は流れなくなり澱めば腐ります。鳥がはばたくのを止めれば地に落ちるように、悔い改めることを止めれば人は地に落ちます。清い状態を保つのは、絶えず悔い改めるしかないのです。
亡くなった戸波兄が以前、奥様とイタリアのアッシジに行かれたことがありました。奥様はクリスチャンではありませんが、アッシジにある聖フランシスコの聖堂に入った時、感動して自然に涙が出たといっておられました。聖堂の壁に何百年もの間の修道士たちの祈りが染み込んで、聖堂に入ったとたんに聖なる空気を感じたというのです。それは長年の祈りによって出来上がるものなのです。私たち自身が聖堂です。祈りが染み込まなければなりませんね。

❷【キリストにつながることは死活問題】
キリストにつながるといっても、イエス様の姿はありませんから、具体的にはキリストの体である教会につながる、礼拝につながる、聖書につながるということになります。幹から入ってくる命によって枝が生きるように、キリストから入って来る命によってクリスチャンは生きるのです。キリストから来る命とは、神の言葉、聖霊、聖餐です。それらのものが入って来ないクリスチャンは、やがて枯れてゆきます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる」(ヨハネ15:2)とはそういうことです。形だけつながっていても駄目だよというのです。しかし教会の礼拝や集会になかなか来られなくても、家で聖書を読み、祈り、神の言葉と聖霊で心が満ちている人は、つながっているのです。大事なのは神の命が入っているということです。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)とイエス様は言われました。幹から離れた枝が命を失っているように、キリストから離れて何かをしてもそれは死んだ業になるのです。キリストにつながるということは死活問題なのです。
●民数記に「重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。…私がそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。」(民数記5:2~3)という言葉があります。重い皮膚病とは、ハンセン氏病などの伝染病のことです。漏出とは病によって体から血や、膿が出ている者だと思って下さい。伝染病で死んだ死体に触れた人は病気がうつるので、隔離したのでしょう。昔は伝染病に対する治療薬がありませんでした。民が疫病によって絶滅することのないようにそれらの人を隔離したのだと思います。彼らが隔離された理由は「神の住まいである場所を汚してはならない。」というものでした。しかし神の住まいである教会を、私たちは心で汚すことがあります。私たちも聖所に入る資格はありません。しかし、イエス様はこれらのすべての人に触れて癒していかれました。重い皮膚病の人に触れ、出血の止まらない婦人を衣に触れさせて癒し、死人に触れて生き返らせました。キリストを通して人は清められ、再び聖所に入ることができるようになったのです。私たちはキリスト無しで、神の前には決して出られないのです。キリストの贖い無しで、神の前には決して立てないのです。
どんな時にも、キリストから離れては駄目なのです。キリストに祈らずして一日の仕事を始めても平気、聖書を読まないで何かをし始めても平気では駄目です。私は他の牧師よりも学歴がありません。キリ短です。頭がよくありません。教会はとても小さいので、建物も証してくれません。自分の頼りにできるものは、キリスト様と聖霊様だけなのです。聖霊様が私から去ったら、私はただの役に立たない屑です。だからこそ、この方の霊が必要なのです。だからこそ祈りをやめないのです。私が祈りをやめたら、私には何の力もありません。髪の毛を切られたサムソンのようなものです。私は皆さんに、そのことを知ってもらいたいのです。キリストに頼って生きてほしい。そのような信者になってほしいと思います。

❸【神の言葉を握りしめて祈ること】
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)とイエス様は言われました。それゆえ祈る時には、神の言葉を握りしめて祈ることをしましょう。聖書の中に書かれているモーセやダビデや族長たちの祈りを見てみると、皆「主よ、あなたは~と言われたではありませんか」と神の御言葉を用いて祈っているのが分かります。
●カナン偵察から帰って来た人たちは、その土地はとても良い土地だが、そこに住んでいる住人は背が高く、町は堅固でとてもそこへ上って行くのは不可能だと報告をし、民に悪い情報を流しました。民は泣いてエジプトに帰ろうと言い出しました。神様は怒ってモーセに言われます。「この民はいつまで私を侮るのか。…いつまで私を信じないのか。私は疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを強大な国民としよう」(民数記14:11)するとモーセは祈ります。「エジプトからこの民を導き出されたあなたの力は、多くの民に知れ渡っています。もし、あなたがイスラエルをここで全滅させたら、人々は笑うでしょう。『エジプトから連れ出しはしたが、約束した土地に入れることができなくて、荒野で民を全滅させた』と。また、あなたは『わたしは怒ることが遅く、慈しみに富み、罪を赦す者だ』とおっしゃいました。その言葉の如く、今日まで赦して下さったようにこの民をお赦しください。」主は言われます。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」(民数記14:20)あなたの言葉とは、神自身の言葉なのです。神ご自身の言葉を用いる祈りは、罪を赦してもらえるのです。
イエス様が「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」というのはそういうことです。み言葉が自分の内になければ、「主よ、あなたは~と言われたではありませんか」とは祈れません。私たちは主ご自身が約束された言葉を握って、はっきりと祈るのです。
●ぞうり履きの伝道者升崎外彦の半世紀『荒野に水は湧く』(キリスト新聞社)という本に、大正時代の出雲地方のある若い女性の話が載っています。ひそかに信仰を持っていた旧家の娘、香代は結核で死も間近というので最後の願いがかなえられ、土地の人から迫害されていた升崎牧師を呼んで病床で洗礼を受けました。その後、病状は回復に向かったのですが、困ったのは家の者でした。「香代さんがヤソになった」という噂が村中に知れ渡り大問題になったのでした。しかし香代はがんとして信仰を捨てないために、家の者は彼女を座敷牢に閉じ込めました。そして冬のある朝、香代は祈りの姿勢のままで死んでいるのが発見されました。その後、香代の遺品の中から彼女の日記が出て来ました。死の二日前までのことがつづられているその日記には家の者に対する恨みや愚痴は一言も書かれておらず、そのページも両親たちのための祈りと神への賛美のことばで満ちていました。近親の者はそれを読んで大きな感動を受け、彼らの心は一変しました。そして一家十一人がキリストを信じるまで導かれたのです。」
教会で朝ごとに一人一人の名を上げて祈っていると、祈りが全ての人を、全世界を支えているという気持ちになってくるのです。これは不思議です。名を呼ぶことは相手を支配することです。祈った者は、その人の上に立つことが出来ます。特に祈りを聞いておられる神の前で祈ることは、その人を神様に委ねることになりますから、実に希望があるのです。特に病の人、教会から離れている人、多くの来会者、天に移された方の名を挙げて祈ると、私たちにはまだ使命が残されていることが見えてきます。私たちは教会に来られますし、まだ命が与えられているからです。イエス様は祈りの人でした。祈りを必要とし、弟子たちにも祈ることを教えられました。イエス様はいつもひとり山に行き、夜を徹して祈られました。夜に祈るということは、闇の中で、問題の中で、困難の中で祈られたということです。だから今も問題の中で祈って下さっています。どうか皆さんにお願いします。すべての兄弟姉妹のために、信仰がなくならないように、救われる人が起こされるように、この教会の将来のためにお祈りください。他人事だと思わず、キリストと共に祈って下さい。