2016年2月7日(日)主日礼拝説教

『罪と赦し』井上隆晶牧師
サムエル記下11章1~5節、12章24~25節、マタイ1章6節

❶【ダビデの罪】

ダビデは信仰深いユダヤの王でしたが、聖書は彼が大罪を犯したことを露骨に書いています。良いことばかりを書かないで、人の罪や過ちをしっかり書いていることが、聖書が「神の書」であることを証ししています。彼はその兵士たちが戦場で苦戦して戦っている時に、エルサレムにおり、王宮で夕暮れまで昼寝をし、王宮の屋上を散歩していました。彼は偶然、自分の部下であるウリヤの妻(バテシェバ)が水を浴びているのを見ました。彼は心が緩んでいたために、目から誘惑が入り、バテシェバを王宮に召し入れ、床を共にし、姦淫の罪を犯しました。その後、バテシェバが子を宿したのを知って、策略をもって誤魔化そうとし、彼女の夫ウリヤを戦場から家に送り返すように命じました。しかし彼は戦友が戦っているのに、自分だけ家に帰るわけにはいかないと言って決して帰りませんでした。そこでダビデは、今度は将軍に頼み、彼を激しい戦いの最前線に出し、他の者は退却して彼を戦士させるように命じました。しかもその命令書をウリヤ当人に持たせたのです。そしてその通りにウリヤは戦死しました。「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1: 15)罪の恐ろしさは、罪を隠そうとしてますます罪を重ねることにあります。姦淫の罪を犯したダビデは、偽証罪と殺人罪の罪を増し加えました。これがはたして神に選ばれた者のすることかと思ってしまいます。フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーは、「われわれがいろいろな情念に負けないのは、たまたまそれらが弱いからであって、われわれが強いからではない」と言っていますが、果たして私たちにダビデを弾劾する資格があるでしょうか。私たちが強く立派であるからではなく、ただそのような誘惑にたまたま出会っていないだけのことなのです。私たちは主が教えられたように「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と思いを込めて祈らなければなりません。

 

❷【神はすべての罪を知り、裁かれる】

この後、ダビデはバテシェバを妻とし、何事もなかったかのように子供を産ませました。彼の策略は成功し、彼の罪は誰にも知られずに済んだかのように見えました。しかし聖書は「ダビデのしたことは主に御心に適わなかった」(11:27)と書いています。ダビデは自分の権力と地位を利用して罪を覆い消しました。周りの者は気がついていても、王の権力の故に誰もそれを責めようとしませんでした。どこの国の王もやっていると思ったかもしれません。しかし彼がどんなに罪を揉み消そうと思っても、神の前からそれを消すことは出来ないのです。人が赦しても、神は赦されない。これが罪の恐ろしさです。ダビデは、うわべは平静を装っていましたが、内心は苦しんでいたことが詩編の中に書かれています。「私は黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜も私の上に重く、私の力は日照りにあって衰え果てました。」(詩編32:3~4)罪はいくら隠しても、私たちを内側から裁いてきます。

神様は預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘します。「その男はあなただ」(サムエル下12:7)という預言者ナタンの声を聞いて、ダビデはどんなに震えたことでしょう。罪は公にされてこそ、初めて本気で回心するのです。隠していたらいつまでも認めることもなく、回心しないでしょう。だから公にされることが必要です。「自分の罪を公に言い表すなら、神は…罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9)とありますし、「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28:13)とも書かれています。

ダビデはナタンに言います。「私は主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。」(サムエル上12:13)私たちにとって大切なのは、罪を犯さないことではなく、それは不可能なことです。そうではなく、犯した罪を認めて告白し、神の元に帰ることです。罪を認め、神に帰るなら、もう一度やり直すことが出来るのです。「主に私の背きを告白しようと。そのとき、あなたは私の罪と過ちを赦して下さいました。」(詩編32:5)

 

❸【神の元に帰る者は新しい力を得る】

こうしてダビデの罪が赦されましたが、自分が犯した罪の罰は受けねばなりませんでした。ダビデの子は病にかかり、やがて死にました。罪の代価は死であることが分かります。死の他に罪を贖うことはできないということです。罪の恐ろしさとはこのことです。誰かが犠牲になることによって気づき、罪が止まるのです。この罪の代価を自らの死をもって支払って下さったのが、イエス様なのです。

  • 聖書で云う「罪」とは、「的を外す」という意味があります。神という的から反れて生きている状態を罪というのです。人間は神から反れて、どこまでも落ちて行ってしまいました。自分では神のもとに戻れません。軌道も修正できません。どんどん神との距離は開き、どんどん落ちてゆきます。そこで的(まと)である神が動いて、人間の前に立ったのです。的は本来動かんもんです。しかしその的が動いたんです。動いて、落ちてゆく人間の前に立ちはだかり、それを止めたのです。それがキリストの十字架かです。キリストが両手を広げて止めたるのです。だからいつも自分の前に、十字架にかかったキリストを見つめなければなりません。十字架のキリストがあなたを獣から人間に戻してくれるのです。

 

最初ダビデは子供の病が癒されるように断食し、地に伏して泣き、祈りました。しかし、子供が死んだという知らせを聞いた時、彼は地面から起き上がり、身を洗って服を着替え、礼拝してから、食事をしました。家臣たちは不思議がりましたが、これは彼のいさぎよさを現しています。自分の罪を認め、裁きを認めた姿です。バテシェバは再び子を産み、ソロモンと名付けられます。「主はその子を愛された」(サムエル下12:24)と書かれています。やがて彼が次の王となります。神様は、罪をいさぎよく認め、裁きに服した者を再び愛してくださるということなのです。このことは私たちにとっても重要なことです。

  • 先日、伝道委員会でなぜ教団は第一種教会、第二種教会を整理しないのかという話になりました。第一種教会は50名以上の信者がいないとなれません。昔、第一種教会だったのに、今は10名くらいという教会があるのです。でも、自分たちのプライドの故に申告しないのです。種別変更は自己申告なのです。バカバカしい話です。無いものは無いのです。伝道しなかった罪を認め、第一種教会の名前を返上し、神の栄光の為に解散して合併するかして、もっと前向きにどうして生きれないのかと思います。回心するとはそういうことです。自分の罪を認めること、非を認めること、そしてもう一度神に帰ることです。その時、神様は必ず祝福して下さいます。
  • 先日のことです。ご近所の人に「教会さんには異様な人たちが多い。あの人たちは一体、ここで何をしているんだろう。」と噂され、そのように私たちは見られているのではないかと思うことがありました。ご近所と親しくお付き合いをしていれば、ああこんな人なんだ。決して怪しい人ではないと納得してもらえるでしょうが、挨拶もせず、付き合いもなかったら白い目で見られるでしょう。オウム真理教もそうでした。上九一色村で隠れて何やら変なものを造り、みんな白い服を着て飛び跳ねていたら異様に見られるでしょう。たまに自分たちが情けなくなる時があるのです。しかし、そんな私たちの唯一の誇りは何でしょうか。それはそんな私たちだけれども神に選ばれ、信仰が与えられ、祈っているということです。つまり天とつながっているというただその一点だけが誇りなのです。イスラエルの民は罪を犯したので、敵に責められ、神殿は焼け落ち、町は瓦礫の山となりました。それでもイスラエルの民は「万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています」(詩編80:5)と祈りました。罪を犯しても、それでも、私たちはキリストの民なのです。弱さがあってもキリストのものなのです。

神に赦された者はいつまでも自分の弱さと罪に泣いていてはいけないのです。立ち上がらなければいけません。自分の罪を認め、裁きを受入れ、それでも神の民として立ち上がるのです。

  • 月曜日に、クリスチャン精神科医の石丸昌彦先生をお呼びし、牧師のバーン・アウトについて学びました。バーン・アウトとは「燃え尽き症候群」といわれるものです。一生懸命頑張って、疲れ果てて燃え尽きてしまうことです。バーン・アウトには三つの徴候があります。1.情緒的消耗間(心が疲れる)。2.達成感の欠如(今まで何をしてきたんだろうと、自分のやってきたことが無駄に思える)3.脱人格化(相手をモノとして見るようになる)。バーン・アウトを起こさなかった看護師に「嫌いな患者さんにはどのように対応していますか」というアンケートを取ったら、皆白紙回答だったそうです。つまり彼女たちは、自分が燃え尽きないために、患者さんを人として見ないようにし、モノとして見ていたということなのです。人は本当に疲れると相手をモノとして見るようになるのです。

感情労働をする人たち、つまり、相手にやる気を起こさせたり、満足感を与えたり、安心させるなどのサービスを提供する仕事をしている人に、このバーン・アウトが多いのですが、彼らは演技をしなければなりません。嫌な客や、患者にもニコッと笑って接する事をしなければなりません。演技にも二種類あって、表層演技と深層演技があります。表層演技とは、表ではニコッと笑い、裏では「馬鹿野郎」と本音をいうことです。深層演技とは、自分の感情を一切押し殺し、私は心の底からこの人が好きなのだと自分に言い聞かせることです。深層演技をし続けると、やがて鬱になるそうです。疲れると燃え尽きて鬱になるか、または燃え尽きないように相手をモノとして見るかしかできないのです。

 

しかしキリスト教には、第三の道が用意されているのです。つまり人間の力では愛することができなくても、聖霊によって愛する力をもらえるという道です。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30~31)という言葉があります。鷲は空に上る時に、羽にいっぱい風を受けて自分を下から上に高く押し上げてもらうのです。羽の力が鷲を空高く舞い上がらせるのではなく、羽はむしろ、風を受け、風を逃がさないように落下傘のように丸くするだけなのです。私たちにとっての風は「聖霊」です。神からの風をいっぱい受ける時、私たちは高く上がることが出来るのです。自分の力ではありません。聖霊の力で浮くのです。だから日曜日ごとに心が復活し、新たな力を得ることが出来るのです。

私たちは落ちても、神によって上ることが出来るのです。罪を犯しても、神よって立ち上がることができるのです。それは大きな恵みです。聖霊は下から吹くのです。下になり、悔いし砕けた魂に吹くのです。それを忘れないようにしましょう。