『光に向かって旅をする人』井上隆晶牧師
イザヤ60章1~7節、マタイ2章1~12節

今日は今年最後の礼拝です。先週に続いて降誕のお話をしましょう。クリスマスは「星」「占星術の学者」「三つの献げ物」など不思議な話でいっぱいです。そこで今日は「占星術の学者たちの礼拝」のお話をします。

❶【ベツレヘムの星】
星は「光るもの」です。光ということは「照らす」ということです。星は暗闇を照らし、歩むべき方向を指し示す道標になります。北極星は真北を指していますから、旅をする人はその星を見て方向を確認することもできます。星座はそれぞれ季節によって変わりますから、今が何月なのかも教えてくれます。神様は自然界に、方向を示すものを置かれ、人を助けていることが分かります。イエス様が生まれた時に現れたこの「星」は、とても不思議な星です。星は西から東に動きます。しかしこの星は東から西に動き、さらに南下します。また、消えたり現れたり、先だって進んだり、止まります。こんな星があったら科学者の好奇心は掻き立てられ、必死になって求めるでしょう。世紀の大発見です。星が現れるということは旧約聖書に予言されています。
・「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝き、その方が命ずると、ここにいますと答え、喜々として、自分の造り主のために光を放つ。」
(バルク3:33~35)
・「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。…国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」
(イザヤ60:3)
●ここについて4世紀のグレゴリオス1世は面白いことを語っています。
「異言は信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」(Ⅰコリント14:22)という言葉があります。信仰があるユダヤ人には神は言葉で告げるが、信仰がない外国人には、神はしるしをもって告げるという意味です。そこでイエス様が幼子でまだ語ることが出来ないので、その代わりに星が証しをしたのだというのです。神は自然界を用いて、証しをするのです。大空は星を、大地はヨルダン川と紅海を、イエス様が十字架につかれた時は、太陽と地震を用いたのです。
本当に真理を探究する人というのは、それぞれの分野で神に出会うことが出来るということを教えているのです。占星術の学者たちは星を通して神に出会いました。音楽をしている人は、音楽を通して神に出会います。森小路教会のS牧師がそうです。彼はドイツでオルガンの修理の仕事をしていました。その音楽を通して教会に来て、信仰を持ちました。絵画や芸術をしている人は、それを通して神と出会うと思います。音楽も科学も芸術もすべてが神を証ししているのです。
●アルベルト・アインシュタインはこういっています。「科学なき宗教は盲目であり、宗教なき化学は不完全である。」
道標である星が示したのがイエス様ということは、人生を示し、真理を示すのはこの方であるということでしょう。ゆえに私たちも彼らが証したイエス様を礼拝するために出かけましょう。
「わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かす、…」(ハガイ2:6~7)神の命令によって神に造られた一切の物は動きます。御子が生まれた時、天の父なる神は、天においては星を動かし、天使を動かしました。地においては、皇帝アウグストゥスを動かし、東方の学者たちを動かし、羊飼いたちを動かしました。神が言葉を発せられるとみな動くのです。神の言葉を聞いて、また動く人と動かなかった人がいることを私は知っています。ここに集まっている人たちは、動いた人です。皆さんは動いたんです。
昔は星がイエス様を教えましたが、今私たちにイエス様を教えてくれるのは聖書です。聖書が星なのです。天を見上げて旅をしていた彼らも、時々それを見失い、地上を見て生きてしまいました。私たちが毎週、教会に帰ってきて聖書に聞き、神に聞いて生きようとする時、あなたは天を見上げて旅をしているのです。しかし、聖書に聞かず、神に聞いて生きようとしない時、あなたは地上をさ迷うでしょう。時には、人生の方向を見失う時もあるでしょう。そんな時、上を、つまり聖書を見上げてください。そこには御言葉が輝いているからです。

❷【占星術の学者と三つの献げ物】
占星術の学者たちはイエス様がお生まれになってから約二年経ってやってきました。「家に入ってみると」(11節)と書かれており、既に洞窟ではなく家に移っていることが分かります。更にヘロデが腹を立てて「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺した」(16節)ことから、イエス様は既に二歳になっていたということが分かります。彼らに年前に不思議な星を見て、長い旅をしてやってきたのです。「東の方からエルサレムに来た」(1節)とあります。イスラエルから東と云うとペルシャ、バビロン、アラビアの方角になります。この地域はかつてユダヤ人が捕囚となっていた国です。ユダヤ人のメシア待望についてかなりの知識があったと思われます。教会はこの人たちを、祭司、博士、学者、王として見てきました。原語は「マゴス」といいます。マタイは真理を探究する賢人として見ています。これは旧約聖書の中にもいくつか預言されていることです。
・「ミディアンとエファ(アラビアの地域)の若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。シェバ(アラビアの地域)の人々は皆、黄金と乳香を携えてくる。」(イザヤ60:6)
・「シェバやセバ(エチオピア)の王が貢ぎ物を納めますように。すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように。…彼にシェバの黄金が捧げられますように。」(詩編72:10、11、15)
これらの預言から、教父たちは、彼らはアラビア、エチオピア、ペルシャの王たちであり、かつてイスラエルを支配した者たちが、世の終わりにメシアの元に帰り、彼に仕えたのだといいました。メルキオ、カスパル、バルサザールという名前までつけられました。だから肌の色がそれぞれなのです。彼らは宝の箱を開け黄金、乳香、没薬を献げたとあります。黄金は王に、乳香は神に祈る時に燃やすお香ですから神性を、没薬は死者の防腐剤として使用するものですから、死を意味しています。つまりキリストは王であり、神であり、死ぬために来た方であることを意味しています。

❸【あなたは誰を王としますか】
この物語には「王」という言葉が何度も出てくるのにお気づきでしょうか。「ヘロデ王の時代」(1節)「ユダヤ人の王としてお生まれになった」(2節)「ヘロデ王は不安を抱いた」(3節)「王の言葉を聞いて出かけると」(9節)など、全部で5回も出てきます。東方からやってきた占星術の学者たちは、この世の偽りの王に天の王のことを聞きますが、知りません。偽りの王は祭司長や学者たちを集めて天の王のことを尋ねます。いつ生まれたのか、どこで生まれたのか。そして生まれた村も、生まれた時期も知りました。しかし誰も、天の王を礼拝には行きません。なぜなら、ヘロデは自分が王であることに固執し、祭司長や多くの民はこの世の偽りの王を恐れ、仕えていたからです。
一方、東方の占星術の学者たちはこの世の偽りの王を恐れません。王の前で堂々と、天の王のことを尋ね、「見つけたら知らせてくれ」(8節)という王の命令を無視して、さっさと帰ってしまいました。何という自由さ、何という大胆さでしょう。偽りの王に仕える者は、恐れと不安に支配されます。「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(3節)とあります。一方真の王に仕える「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(10節)とあります。聖書は、あなたは誰を王としていますか?誰に仕えますか?と問うているようです。キリストを王とし、彼に仕える者には自由と平安と喜びがあります。しかし、偽りの王に仕える者には、束縛と不安と恐れがあるのです。
・「私たちは真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。」(Ⅱコリント13:8)
❹【神に出会った人は生き方が変わる】
彼らの旅は、キリストに出会って確かに変わりました。彼らの旅は、これまでの彼らの生き方を終える旅だったのであり、これからの新しい生き方を始める旅となりました。事実、「彼らは別の道を通って自分たちの国に帰っていった」とあります。彼らの生き方が変わったということです。
●コワートという心理学者が、人は人生で三人の人に出会わなければいけないといっています。
1.理想のような人-「ああなりたい」と思う目的が出来るからです。
2.双子のような人-同じ苦労を共にした人と出合うことで、自分の思いが分かってもらえ、慰められるからです。
3.鏡のような人-自分の成長を映してくれるからです。

●地下鉄サリン事件を起こし、全部で25名以上の人を殺害した、オウム真理教の教祖麻原彰晃は、小学校のころ、教会学校に通い、中学時代はベトナム戦争の報道に触れ「正しく生きる」とは何かを考えたといいます。そして、20歳の時、父を亡くし「死」について考え、大学卒業後、世界十数カ国を4年かけて自分探しの旅へ向かい、やがてオウムに入信しました。カルトにはまってしまったら、家族や友人の本物の愛がなければ、抜けることはできません。
アググスティヌスは『人間はどんな偽りの愛にも、ひきずられるほど愛に飢えている』と言ったが、本当の愛だけが人を自由にし、その人を救ってくれます。誰に愛されるか?どんなものに導かれるかが人の生涯を決定するのです。

私は以前、ロイヤルホテルで結婚式をしていた時、休憩時間に、奏楽の方がクリスマスの賛美歌を引いて練習をしていました。高さ12メートルくらいのチャペルに、パイプオルガンの荘厳な音が響き渡り、その音色と響きの美しさに聞き入っていました。私は誰も居ないチャペルの椅子に座り、正面の十字架をみつめながら、キリストの降誕を瞑想していました。突然、私の心にこういう思いが湧きました。「そうか、一番遠くから旅をしてきたのは、実は占星術の学者たちではなく、イエス様なんだ。」こんな私たちのために、天国という遠くから来てくださったんだなあ、申し訳ないと思ったのです。そして、こんな私たちのために自分の人生を無駄に使い、人間につき合って33年間も一緒に生活し、自分の命を無駄遣いしてくださいました。何も見えていませんでした。実は、あなたの方が来てくれたのだと言う事を。何も見えていませんでした。実は、あなたの方が捧げてくださったのだということを。われらはあなたの降誕を伏し拝みます。栄光があなたに世々にありますように。アーメン。