2015年12月23日(水・祝)クリスマスイヴ礼拝説教
『あなたの部屋に泊めてください』井上隆晶牧師

❶【クリスマスの秘密=死と命の分岐点】
クリスマスは今や、世界中のお祭りとなりましたが、最初に12月25日をクリスマスとして祝ったのは4世紀のローマ教会でした。それまでは1月6日にキリストの降誕、東方の博士たちの礼拝、キリストの洗礼、最初の奇跡を合わせてお祭りしていました。東方教会では今でも1月6日を公現祭として祝っています。12月25日は、「冬至の祭り」でした。冬至というのは、最も夜が長くなる日で、昔は冬至の日は「死に一番近い日」と言われていましたので、さまざまな厄払いをするためのお祭りをして健康のために祈ったのです。古代ローマでも命の源である太陽が力を失い、夜が最も長くなるこの時期に、太陽神アポロンを拝む祭りが開かれていました。しかし、キリスト教が国教になると、キリストこそ本当に人に命を与える方として、皆が祝っていたこの日を、キリストの誕生日にしてそれを祝うようになったのです。これはキリストが闇の中に来られたことの深い意味を教えています。
2015年の冬至は12月22日です。この冬至の日を境に、昼がだんだんと長くなってゆきます。この冬至の日は、いわば分岐点なのです。キリストがこの世に来られた日から、死と呪いと裁きと崩壊は終わり、命と祝福と赦しと新しい創造が始まってゆくのです。「光は暗闇の中で輝いている。闇はこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:5)とヨハネはいいましたが、どんなに闇が大きくても、やがて光が勝つのです。それをこの日、思い出したいのです。

❷【神の国の住民登録】
イエス様は、今から約2000年前にイスラエルの小さな町ベツレヘムで生まれました。525年にローマ皇帝ユスティニアヌスの命令を受け、キリスト教の新しい暦を造る時に、修道士ディオニシウスは、その起源をキリストの誕生の年と定め、ラテン語でAnnoDomini(主の年)としました。以来、キリスト誕生以前をBCと呼ぶようにしたのです。後にディオニシウスの計算に間違いがあることが分かり、イエス様の誕生はBC6~4年頃と言われています。だから4年として計算したら、今年は主の降誕2019年ということになります。イエス様が誕生した日、住民登録があったことが記されています。マイナンバー制度が送られてきたと思います。この世の国の王が私たちを登録し管理しようとしているからです。昔も今も変わりません。
イエス様のお母様のマリアやヨセフの実家はナザレという村でした。当時、イスラエルの国はローマ帝国に支配されており、その時の皇帝アウグストゥスは自分の領土の全住民から税金を取るために住民登録をするように命令を出しました。住民登録は本籍地で行われ、名前、職業、財産、親族などを登録しました。そこでヨセフはいいなづけで身重であったマリアを連れて、登録をするために自分の先祖の町ベツレヘムに旅をしました。ナザレからベツレヘムまで150㎞、約三日の道のりです。妊婦さんが長旅をするのは大変だったと思います。ところがベツレヘムの町に着いた時、マリアは産み月が満ちて赤ちゃんを産みました。聖書にはこう書いてあります。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:7)。こうして預言者ミカの預言は見事に成就しました。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出生は古く、永遠の昔にさまのぼる。」天地の王である神様は、地上の王である皇帝アウグストの心を動かして住民登録させ、御自分の計画を成就させたのです。神様は今でも世界を支配しておられます。
●S兄が介護施設に就職をされました。その同じ職場に、同じグループではないのですが「三山幸子」さんという同姓同名の方がおられました。向こうの方からS兄に話してこられ、うちの教会員Mさんの息子のお嫁さんであることが分かりました。姑と嫁が同じ名前なのです。S兄はびっくりして、神様の導きと計画があると悟ったといいます。
これはものすごい確率です。こうやって地上を歩む私たちに、神様は周りの人を動かして、行くべき道を教え、神の御心を教えます。
しかし天の王である神様も、実はこの時天国への住民登録をしようとしていたのです。このことは詩編の中に預言されています。「主は諸国の民を数え、書き記される。この都で生まれた者、と。」(詩編87:6)地上の王は住民登録のために自分の生まれた町に旅をしなさいと命じます。天の王は御自分の国に住民登録するため、自ら天を傾けて地に旅をされ、一人一人を集められます。地上の王は税金を集めるためですが、天の王は命を与えるためです。私たちはこの世にいますが、神を真の王として受け入れ、既にこの方の国に住民登録されました。私たちの名は天国に登録されているのです。

❸【宿屋には場所がない】
イエス様は、郊外にある家畜小屋で生まれ、家畜の餌である藁を入れる飼い葉桶に寝かされました。家畜小屋は当時、郊外の洞窟が良く用いられました。また、飼い葉桶も木ではなく、石だったと言われています。
それは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2:7)からです。住民登録のために帰省した人で、どの宿屋も満室でした。「宿屋」と訳された言葉は「客間」という意味だそうです。出産にふさわしい部屋がなかったということなのです。誰も自分の場所を代ってあげようという人はいなかったのでしょうか。皆自分の居場所を確保するので精いっぱいだったのでしょう。この宿屋は競争社会のひな型です。そしてこの社会に生きるすべての人が、恐れを持ち、奪い合い、おしあいへしあいながら、競争し合って生きています。皆この社会の犠牲者であり、同時に加害者です。強い者のみが生き残るサバイバル社会です。これがこの世です。だから「宿屋とはこの世の象徴」なのです。でも私たちの中で「自分中心な心」を持っていない人などいるでしょうか。いつも他人のことを考え、いつも弱い人や貧しい人のことを考え、彼らにいつも自分の場所を譲れる人がいるでしょうか。いないと思います。やっぱり自分が大事です。だからこの「宿屋とは私自身」のことです。

❹【あなたの家に泊まりたい】
私たちは恐れでいっぱいで、自分を守るために神を自分の心から追い出したのです。それだけでなく、神を殺してこの世界からも追い出しました。それが十字架です。クリスマスと十字架はつながっています。クリスマスは十字架の始まりです。クリスマスのイコン(聖画)を見るとそのことが良く分かります。幼子は布でぐるぐる巻きにされて飼い葉桶の中に寝かされています。イエス様が死んだ時も、布でぐるぐる巻きにされて棺桶の中に寝かされました。まったく同じなのです。成人したイエス様は地上を歩き回り、人々の心をノックして歩きました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)それは今でも変わらないのだと思います。

●神様が一人息子のために部屋を探していました。通りのあちこちを歩き回って、私の家のドアをノックしました。神様は「部屋を買いたいのです」と言われます。私は「あいにくお売りする気はありません。私が自由に暮らすスペースが必要ですから。でも裏の小さな部屋ならお貸ししてもいいですよ。部屋代はお安くしておきます」と答えました。そこで神様は家の中にお入りになり、小さな部屋をごらんになり言われました。「いい部屋だ。貸してもらうとしよう。」神様が私の家にいらっしゃると、裏の小さな部屋を神様に貸すなんて、ちょっとケチくさいんじゃあないかと恥ずかしくなりました。しばらくすると、神様はまた私の家のドアをノックなさいました。「もう少し、ゆっくりと過ごせる部屋があると有り難いんだが。」「実は私もそんなことを考えていたんです。息子さんが暮らせるように、もう一つの部屋をお貸ししましょう。」私はその部屋を神様に見せました。「有難う。ではこの部屋も貸してもらうとしよう。」時がたちました。私はまた落ち着かなくなり、神様に最上階全部をお貸ししようと決心しました。神様はお礼をおっしゃって、私の申し出をお受けになりました。「どうぞ、最上階をお使いください。家全体だって、お貸ししたいのですが、でも…」「分かるよ。もう少し待とう。あなたの家はなかなかいい。」と神様はおっしゃいました。また何数が立ちました。神様はまた、私の家のドアをノックなさいました。「あなたの家はとても良い。いっしょに過ごさないか。あなたの家は私の家になり、私の息子がここに住む。そうすることで、もっと広いスペースがあなたのものになるんだがね。」「どうしてそんなことが有りえるのですか」と私が訪ねると、神様はこう言われました。「それはあなた自身が発見しなければならないことのようだ。私の息子にあなたの家を引き渡した時、答えは与えられるだろう。」「今すぐには…」と私は口ごもりました。「そうだろうね。私を信用してみたらどうかな?」「さあ…いずれお返事します」「待っているよ。あなたの家はなかなかいい。」

私の心の扉をイエス様がノックされ、初めてイエス様を心の家にお迎えしたのは私が22歳の時でした。その時から、34年が経ちました。今、私の心のいくつの部屋に神様をお入れできたでしょうか。この部屋は私の部屋です。この部屋だけには入らないでくださいと言っている部屋がまだまだ何部屋もあるのではないのでしょうか。でも、神様は何年でも待たれるでしょう。私たちが神様を受入れると、何かを失うと思っている人もいるかもしれません。しかし、実際はもっと豊かに、広くなるのです。それは明け渡した人でなければ分からないことなのです。
ヘルマン・ヘッセは「しがみつくことで、強くなれるという者もいるが、手離すことで、強くなる時もある」と言っています。手離すとは神に委ねるということです。そして、委ねることは人間の努力でもなく、いくら頭で考えてもできるものではありません。やがて頑張れなくなる日が来ます。その日、自然に委ねられるようになるのです。
歳を取るにつれ、私の心の部屋はどんどん汚れ、ホコリで狭くなり、誰も入りたいとは言わなくなるでしょう。そして最後の日に、こんな崩れかけた部屋に泊まりたいという人など誰もいなくなるでしょう。でも、神様は私たちが神様と共に住みたいというのを待っておられます。人間がどんなに神を拒んでも、断っても、神様は人間を一切拒まず、断らず、無条件で歓迎します。人間は神を追い出しましたが、神は人間を追い出しません。これを福音といいます。
イエス様、あなたが私の心をノックしたのに私は少ししか開けませんでした。しかし私があなたの家の扉をノックした時、私を無条件で入れて下さい。私にはもう住む家が無くないのです。その時主は言われます。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」(ヨハネ6:37)「私の父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)安心しなさい。私を信じて、あなたのすべてを私に下さい。そして私たちが神様に、私の全てを引き渡した時、私たちは突然輝き出し、私の部屋は永遠の住まいに変容するのです。