『神は我々と共におられる』 井上隆晶牧師
イザヤ7章10~14節、Ⅱコリント8章9節、マタイ1章18~25節

❶【ヨセフは何に動いたのか】
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(18~20節)
ナザレという村にヨセフという人がいました。ヨセフにはマリアという婚約者がいて、もうすぐ結婚することになっていました。ところがある日、ヨセフはマリアからびっくりすることを聞きました。マリアのお腹には赤ちゃんがいるというのです。マリアはこう話しました。「神様の御使いが現れ、私は神様の子どもを生むと教えてくれました。その子は、遠い昔から約束されていた救い主です。」マリアの言葉を聞いたヨセフはとても悩みました。彼は正しい人でした。ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)とあります。なぜひそかに縁を切ろうとしたのでしょう。宿った子が、神の子だったら自分などはメシアの父としてふさわしくないと思ったからでしょうか。または、彼自身が信じられないで苦しんだのかもしれません。結婚する前に赤ちゃんができたと知れたら、マリアは罰を受けます。姦淫の罪は死罪です。聖霊によって宿ったという証拠はどこにあるのでしょう。でもマリアが罰せられるのは可哀想です。結局彼は、マリアを守るためにひそかに縁を切ろうと決心したのだと思います。降誕祭のイコンは、ヨセフが絵の一番下で、悪魔に誘惑されて悩んでいる様子を書いています。
そんな時に、主の天使がヨセフの夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20~21節)夢というのは当時「神のお告げ」が告げられる手段でした。ヨセフは「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(24節)ました。眠りから覚めるという言葉が重要です。眠りから覚めたのですが、夢で聞いた神の言葉を単なる夢物語として片づけなかったということでしょう。夢の中に生き続けたということでしょう。または「眠る」というのはよく不信仰の姿として言われます。「いつも目を覚ましていなさい」というのは神の言葉を信じなさいという意味です。だから不信仰から覚めて、信仰に目覚めたという意味でもあると思います。
クリスマスの物語は、このヨセフの人間的な正しさを越えた出来事、ヨセフの正しい決心をくつがえす出来事だったということです。私たちは時には自分の正しさを越えて、神の言葉に動かされなければなりません。聖霊は、神の言葉を信じさせる力があるのです。人間の正しさを越えさせるものなのです。クリスマスというのは聖霊によって自分が決めた判断や決心が変えられる時でなければならないのです。
●旧約聖書にダビデという人が出て来ます。彼に嫉妬したサウル王はいつも彼を殺そうとして追い回します。ある時、洞窟の中で隠れていたダビデの所にサウルが用を足すために入ってきます。味方の兵士たちはダビデに「チャンスです。主があなたの手に彼を渡されたのです。」といって殺すように勧めますが、ダビデは「サウルを王として選んだのは神様だ。神が選んだ人に手をかけることは出来ない」といって、サウルを逃がします。その後、ダビデの行為を知ったサウルは、泣いて言います。「お前は私より正しい。お前は私に善意をもって対し、私はお前に悪意を持って対した。」(上サムエル24:18)悪に対していつも善で報いた結果、サウルは回心したのです。ダビデは単なるサウルを見るのではなく、いつも神が選んだサウルとして見ていました。だから罪を犯さなかったのです。神を通して人を見ることが大事なのです。
イスラム国のテロ活動が激しくなっていることにより、フランスでは極右政党が躍進し、アメリカも同じような状況にあります。イスラム教徒は入国させないと言っています。良くない傾向です。悪に対し悪で報いようとしています。キリスト教の国がそんなことをしようとしています。それでは何の解決にもなりません。
正しさで報いたらいけないのです。ここにいる全ての人はキリストが選んだ人たち、キリストの像を持つ人たちです。罪も弱さも癖もありますが、それを見だしたらきりがありません。正しさで人を見たら、腹立たしさと、怒りだけが残ります。しかし、ダビデのように神を通して人を見るのです。神のものを傷つけてはいけません。皆さんはキリストの宝物です。キリストのものを呪ってはなりません。祝福を祈るのです。それが神の言葉に動くということです。

❷【聖霊によるクリスマス】
ここには「聖霊によって身ごもっている」(18節)、「聖霊によって宿った」(20節)と、二回「聖霊によって」という言葉が出て来ます。私たちは使徒信条の中で「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と告白します。「聖霊によりて宿り」とは、私たち人間の力ではなく、聖霊の業ということです。人間の現実にもかかわらず、宿ったということです。私たちの立派さがクリスマスを生み出したのではないのです。このマタイの記事の前に、長い系図が書かれています。この系図から救い主がやってきたのでしょうか。そうではなく、この系図へと救い主がやってきたのです。カルト宗教は反対です。失敗をした人の家系からは救い主は出てこないのです。しかしこの系図はすぐれた人物を挙げているのではありません。ここには多くの罪人、外国人、偶像崇拝をした王たちの名が出て来ます。ユダは息子の嫁タマルと姦淫を犯しました。ラハブは娼婦です。ルツは外国人です。ダビデはウリヤの妻と姦淫しました。アハズは自分の子どもを火に投げ込んだ偶像崇拝者です。この系図は人間の罪の系図です。本当の人の姿の列挙です。人類の危機的な姿の系図です。主イエス様はこの民を救うために生まれたのです。天使はヨセフに言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)罪があるからもう私の民ではないとは言われません。罪があっても私の民だというのです。その民を救うために来たというのです。

●マタイはこの出来事を旧約の預言の成就だと解釈しました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(23節)これは旧約聖書のイザヤ書7:14からの引用です。旧約聖書にアハズという王が出て来ます。まもなく敵が攻めて来ようとしていました。神様は「大丈夫」というのですが、アハズは信じられません。敵が来るというのに、神になど頼っていられないと彼は言いました。そのアハズに対し、預言者イザヤはこう言いました。「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、私の神にももどかしい思いをさせるのか。それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:13~14)お前が信じなくても、神様はお前と共にいてくださるというのです。
イエス様が生まれた時、マタイはこのイエス様こそ、このイザヤの預言の成就だと解釈したのです。神はイエス様において罪深い人、信じようとしない人と永遠に共にいてくださいます。

❸【神はわれらと共におられる】
讃美歌21の267番「ああベツレヘムよ」という讃美歌があります。3番の歌詞は「人はみな眠り、気づかぬまに、めぐみの賜物、天より来る。心低くし、主を迎えよ。罪ある世界の救い主を」です。「人はみな眠り、気づかぬまに、めぐみの賜物、天より来る」という歌詞に心が留まりました。天からの恵みの賜物はこの日、地に来られたのです。
イエス様が生まれた静かな夜、イエス様を拝みに来たのは貧しい羊飼いたちだけでした。ほとんどの人は何も知らず、何も気がつかないでいたのです。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかしイスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」(イザヤ1:3)という言葉があります。この言葉は、イエス様が家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされるということの預言ですが、それだけではありません。人間は神の恵みが地上にやってきたことを知らないということを教えようとしているのです。イエス様がこの世に来たということは、神の国が来たということです。天国の門が地上で開いているということです。恵みも赦しも永遠の命も人間に与えられました。聖霊もやってきて地上に満ちています。私は幾度となく福音を語ってきました。でも、多くの人は去って行きました。カルトに入っている人にも、私は福音を語りました。でも聞き入れる者は僅かでした。ほとんどの人は、天の賜物より、地上の物の方が良いと言って去って行ったのです。それでも神様の恵みはこの地にとどまり続けます。天国の門も開き続けます。人間がいくら神の賜物を断っても、神様は人間に与え続けます。神は愛であるので、どんな人でもこの賜物をもらってほしいのです。

●4世紀にギリシャ語から翻訳した「ラテン語訳聖書」を作ったヒエロニムスという聖人がいました。こんな話があります。「ヒエロニムスが飼い葉桶に寝ている幼子イエスに出会い、話しかけます。「主イエス世、あなたは私のために、そこで寒さに震え、どんなにおつらいことでしょう。どうしたら私はあなたに報いることができるでしょうか。」誇らしげな顔つきにヒエロニムスにイエス様はいわれます。「ヒエロニムスよ、私は何もいりません。ただ『天の神に栄光がありますように』と歌ってください。私はゲッセマネの園で、そして十字架の上でもっと貧しくなるつもりですから。」ヒエロニムスはさらに続けます。「愛するイエスよ、私はあなたに何かを差し上げたいのです。私の持っている財産すべてを差し上げたいのです。」幼子イエスは答えます。「天にある物、地にある物すべては私のものです。私は何も必要ありません。貧しい人に差し上げてください。そうすれば私にしてくれたと同じです。」ヒエロニムスはさらに続けます。「愛するイエスよ、喜んでいたします。しかし私はあなたご自身に何かして差し上げたいのです。」幼子イエスは答えます。「愛するヒエロニムスよ、あなたがそれほどまでに私に何かをしたいというなら言いましょう。あなたの数々の罪、あなたの汚れた心、あなたの過ちを私に下さい。」ヒエロニムスは驚いていいます。「あなたはそれをどうなさるおつもりですか」イエスは言われます。「私はそれを私の肩に担うつもりです。それが私の栄光であり仕事です。」ヒエロニムスは泣いていいます。「幼子イエスよ、あなたは私から良いものを望まれるかと思ったのに、あなたは私から、私の汚れたものをすべて望まれました。それではどうか私の汚れをお取り下さい。私の全てをお受け下さい。」イエスは答えます。「ヒエロニムスよ、それらと交換に、私から良いものを受け取りなさい。罪と過ちと死から解放され、永遠のいのちを受けなさい。」
パウロは「主は豊かであられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)と書きました。神様はイエス様によって、人間と大いなる交換をしたいのです。神の豊かさをもらってほしいのです。その為に、イエス様は貧しくなられたのです。
クリスマスは、私たちの信仰の熱心によって起こった出来事ではなく、私たちの罪、不信仰にも関わらず起こったことなのです。キリストは私たちの信心から生まれたのではなく、私たちの不信仰、罪にも関わらず、その中に来て下さったのです。この神の変わらない愛、与え続ける愛を感謝しましょう。そして、キリストによって愛の豊かな者へと変えられたいと思います。