『この身になりますように』井上隆晶牧師
サムエル記上1章26~2章3節、ルカ1章26~38節

❶【神に従うとは悩むこと】
天使ガブリエルはマリアのもとに遣わされこう告げます。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。…」(1:30~33)天使はマリアに、あなたは救い主を産むというのです。マリアは天使に質問します。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも…神にできないことは何一つない。」(1:35~37)
ユダヤでは、いいなづけ(婚約)であっても夫婦とみなされます。まだ結婚もしていない自分が身ごもったら、ヨセフはどう思うでしょう。処女が身ごもるなどということを誰が信じてくれるでしょう。姦淫の罪は死罪です。いろんな思いが頭の中をよぎったと思います。しかしこの天使の短い説明で、彼女はすぐに「お言葉どおりこの身になりますように」といい、神のみ心を受け入れ、一切を委ねました。彼女が「お告げ」を受けたのはまだ十代後半くらいだといわれています。
●ちなみにビートルズの「Let It Be」という曲の意味は「なりますように」という意味です。こんな歌詞です。「母マリア(ポールの母マリア)が僕のもとに現われ、知恵ある言葉をかけてくださる。゛あるがままに”。暗黒の闇の中で、あの方が僕の前に立ち知恵ある言葉をかけてくださる。゛あるがままに”。何事もあるがままに、無理に変えようとしてはいけない。知恵ある言葉をつぶやいてごらん。あるがままに。…」

恵まれる(祝福)というと、私たちは楽になること、何かを与えられ豊かになること、栄光を受けることだと思っています。しかしマリアに臨んだことはこの逆でした。父のいない出産です。誰にも理解されず、白い目で見られます。恥を受ける事、自分の夢を失う事、苦しむ事、人に理解されない事が与えられたのです。マリアの献身は、十字架の臭いがします。それだけキリストに近いと思います。信仰生活が楽しいに越したことはありませんが、神に従うということは、神の苦しみを共に担うことでもあるのです。人間の結婚でもそうですが、結婚することによって私たちは相手の善い所もいただきますが、同時に相手のすべての重荷を負うということも貰うことになります。私たちは洗礼によってキリストと結婚したのです。だからキリストの祝福を貰うと共に、キリストの苦難をも貰うのです。「あなたがたにはキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)
その後のマリアはいつも神の言葉と出来事を「思い巡らし」ます。そして御言葉を「心に納め」ずっと考え続けます。そして意味が分からなくても「主がいいつけられたらすべて行う」人でした。神が言われるのだから何か意味があるのだ。ただ信頼して、やってみようと委ねるのです。負わされた重荷の故に、時には疑い「重すぎます。この重荷を降ろさせてください」と祈ることもあったでしょう。それでも、彼女は祈りながら黙って全てを負って行きました。その姿が私たちを励まします。
●『悩む力~べてるの家の人々~』という本を読みました。無牧だった浦川教会に宮島牧師夫妻が赴任してきて働く様子が書かれていました。「教会は精神病の患者やアルコール依存症の患者、崩壊家庭の子どもたちが押し寄せてくるようになり、その子どもたちを追ってアル中の父親が怒鳴り込むこともたびたびあった。静かでつつましかった教会は、いつしか異様な人々の集まる喧騒の場となっていた。…裕福な教会員を欠いて経済基盤は苦しくなる一方であり、牧師夫妻は昆布干しの賃労働に出かけるようになった。…それはもう、最も重要な日曜日の礼拝すら体をなさない『崩壊教会』だった。出席者は立ったり座ったりぶつぶつ言ったり、てんでばらばらの人々がおよそ牧師の説教を聴いているようには思えない。Sさんは隣が女の人だとそっちを向いて座っている。座っていればまだいいほうで、礼拝の最中でもトイレだタバコだといって外に出てしまう。「とにかく終わるまで忍耐でね…だからふつうの教会の礼拝のような静まっている感じじゃあなくてね。」と宮島牧師は語る。礼拝中、宮島牧師が見渡せば、おとなしく座っているのは、最前列の向谷地さんと最後列の牧師婦人くらいのものだった。ところがよく見ればその二人も、疲れ果てて眠りこけている。「静かでつつましく、巷の雑言とは無関係であった教会が一転して『悩む教会』へと変えられたのでした。それは従来私が出会ってきた善男善女が集う禁欲的な潔癖さにみちた教会ではなく、人間が弱さをきずなにして出会い、共に生きようとする群れとしての教会でした。教会とは何かという根源を問うているようでした。」と向谷地さんは語る。古くからの教会員の中には、これは自分たちの教会ではないといって去って行く人が多かった。教会がたくさんの悩みをかかえたとき、ああ教会らしくなったなと考えたのが、向谷地さんであり、宮島牧師だった。」

神に従って生きるということは、負わされた重荷を黙って負い、問いながら、悩みながら生きることなのだと思います。大切なのは、問題が解決することなのではなくて、悩むことなのだと思います。その姿が、周りの人に勇気と希望をあたえるのではないのでしょうか。
私たちの人生にもあまり欲しくないものが与えられることがあります。病気や家族の死別や、さまざまな試練、苦難などは欲しくありません。それらが私たちの人生に必要だったのだと分かるようになるには、まだまだ先のことでしょう。信仰というのはその間の‟闇の時間”を、それでも光は存在していると信じながら生きることと言っていいでしょう。意味が分からなくても、神様がなさることには間違いはないと信じて生きることだと思います。「主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若い時に軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。」(エレミヤ哀3:26~28)

❷【私の中にキリストが生まれる】
神様はマリアを用いて人類を救う業を行われる時、彼女の意志を無視して勝手に行おうとはしませんでした。彼女の《同意》を、すなわち《信仰》を求められました。マリアがその言葉を受け入れた時、彼女の上に聖霊が下り、キリストが彼女の中に生まれました。これは今の私たちにも同じなのです。一つ一つのお告げは、私たちの中に、イエス様が生まれるためのものです。マリアへのお告げは特別な不思議なものでしたが、私たちの場合には、それは霊的なものとして起こります。私たちが「お言葉どおりこの身になりますように」と神のみ心を受け入れるとき、キリストが私たちの中に生まれます。

聖書の中に、パン種のたとえがあります。それらはとても小さいですが、パン粉の中に入れば、やがて発酵して全体を支配します。パン種とは、キリストのことです。洗礼を受けた時、幼いキリストが私の中に生まれました。それは、最初はとても小さいのですが、やがて大きくなってゆきます。子どもを宿したことのある方は、自分の中に別の命が宿るという感覚がわかると思います。二つの命が一つの体の中に同時に存在するということが実際に起こるのです。神が人間になるということはものすごいことなのです。今までなかったもの(肉体と魂をもった人間性)を取られたのです。そしてキリストは復活してからもそれを手離しませんでした。つまり、神は第三の存在を造り上げられたのです。単なる神でもなく、単なる人でもなく、神人です。神は新しい者とならました。この神の大いなる決断にどうして驚かないでおられましょう。洗礼は新しい人間の創造です。人間はいつも自分の業だと勘違いしています。自分が回心し、悪いことを辞めて神の子になれると思い込んでいます。全く違います。神による新しい創造であり、神人が生まれることなのです。それはサクラメント的(聖礼典)です。人間の業を越えています。私の中に神が創造された第二のアダムがいます。それは決して死なない命であり、来世への資本金です。マリアは、「私に偉大なことをなさいました」と神を賛美しましたが、これは私たちも同じなのです。神は私に偉大なことをされたのです。あなたは自分の中に生きているキリストが見えていますか?
外なる自分を見たら、嫌になります。何年たっても成長できない自分。そればかりか後退している有様です。良心は鈍くなり、忍耐力も気力も誠実さも後退しています。祈っても、信仰しても人は変わらないのかと思う時もあります。でもそれは自分を見、他人を見るからです。私たちはキリストを見ます。私の内におられる方は強いのです。その方の力を信じるのです。信仰生活はサクラメントです。キリストがあなたを変化させます。聖霊があなたをキリストの体に変容させます。その方を信じるのです。希望はそこにしかありません。

私たちは立派なことはできませんが、小さなこと、自分の思いを献げてゆくことは出来ます。神に自分を献げてゆく時、つらく悲しいこともありますが、神様はもっと大きなことをしてくれるのです。ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に一人の患者が残した詩があります。
●「大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと、神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるように貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにも関わらず、
心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。」
これはイエズス会のJ・ロジャー・ルーシーという神父が書いたものだそうです。
求めたものが与えられることも良いことですが、それよりもっと良いのは、神が自分にくださったものを謙虚に‟いただく心”の方がもっと大切なのです。神は、私にキリスト様を下さいました。新しい命をくださいました。それを大切にしたいのです。
朝の祈りの時に、天に召された人たちの名前を祈っていると、ああ、この人たちはもう肉体がないんだと思います。しかし、私にはまだ肉体があります。この世の時間が与えられています。目も見え、耳も聞こえ、聖書を読むことも祈ることもできます。与えられているものが見えてきます。死者にはもう出来ませんが、私たちにはこの手で、この声で人に役に立つことをすることができます。神様は、世を救うのに、肉の体を必要とされたのです。それは今も同じです。私たちの肉の体を御自分が働くための器として望んでおられます。マリアの献身が神の救いの計画をこの世に現していったように、私たちの小さな献身が、この世に神の国を造ることになるのです。与えられた恵みを感謝し、神様に用いていただきたいと思います。